太田述正コラム#14976(2025.5.31)
<渡辺信一郎『中華の成立–唐代まで』を読む(その31)>(2025.8.26公開)

 「恵王16年(紀元前473年)、越王勾践が呉を滅ぼすと、楚の東方進出の障害が取り除かれ・・・恵王42年(紀元前447年)、・・・蔡を滅ぼし<、>恵王44年(紀元前445年)、・・・杞を滅ぼし、秦と和平を結んだ。恵王時代の楚は東方に領土を広げて、泗水のほとりにまで達した。・・・
 恵王<は、>・・恵王57年(前432年)<に>・・・没<する。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%81%B5%E7%8E%8B_(%E6%A5%9A)
 この間、BC455~453年の趙氏の本拠の晋陽の戦いで、晋の六卿は韓氏・魏氏・趙氏の三家となり、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%99%8B%E9%99%BD%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
「紀元前434年<の晋の>哀公<の>死に<伴い、>3氏は晋領を分割し」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%AE%B6%E5%88%86%E6%99%8B
たのを、恵王は見届け、楚・秦ステルス連衡による天下統一の環境整備がなったと満足して亡くなったことだろう。
 (ちなみに、「晋は曲沃・絳などの小国となった。その後、紀元前403年に周の威烈王により3氏は正式に諸侯となった。そして紀元前349年に、晋の僅かな領土も趙・韓の連合軍が分割、静公は庶民となって、晋は完全に滅亡<することになる>。」(上掲)

⇒BC445年の楚の恵王と秦の厲共公(在位:BC476~BC443年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%B2%E5%85%B1%E5%85%AC
との間で結ばれた和平において、楚秦ステルス連衡が、部分的に非ステルス化するに至った、ということになろう。(太田)

 「恵王の子<の>・・・簡王<の妃は不明。晋との戦いに明け暮れた。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B0%A1%E7%8E%8B_(%E6%A5%9A)
 「簡王の子<の>・・・声王<の妃は>・・・曾姫无恤<(?!)。事蹟不詳。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A3%B0%E7%8E%8B
 「声王の子<の>・・・悼王<(在位:BC402~BC381年)は、>・・・悼王2年(紀元前400年)<から>・・・悼王11年(紀元前391年)<に至るまで、>趙・魏・韓の軍の侵攻を受け、楚軍は<苦戦を続けたが、>悼王は秦に厚く賄賂を贈って仲介を頼み、趙・魏・韓と講和することができた。

⇒まだ三晋が対外的共同行動をとっていたことが分かる。
 いずれにせよ、楚と秦のステルス連衡が機能していたことは明らかでは?(太田)

 この頃、・・・悼王は・・・魏<から>・・・出奔してきた・・・呉起を宰相に任用した。呉起は国政や軍制の改革をおこない、軍の強化を図った・・・。
 悼王21年(紀元前381年)、薨去した。王の死後まもなく、呉起は反対派の貴族ら70余家の軍に襲われ、<あえて>悼王の遺体の前で・・・王の遺体にも矢が突き刺さ<る形で>・・・射殺された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%82%BC%E7%8E%8B_(%E6%A5%9A)
 「楚の令尹<として、呉起(BC440頃~BC381年)は、>・・・法家的な思想を元とした国政改革に乗り出す。元々楚は宗族の数が他の国と比べてもかなり多かったため、王権はあまり強くなかった。また、国土は広かったが人の居ない地が多く、仕事の割に官職の数が多かった。これに呉起は、法遵守の徹底・不要な官職の廃止などを行い、これにより浮いた国費で兵を養った。さらに、領主の権利を三代で王に返上する法を定め、民衆、特に農民層を重視した政策を取った。これらにより富国強兵・王権強化を成し遂げ、楚を南は百越を平らげ、北は陳・蔡の二国を併合して三晋を撃破、西は秦を攻めるほどの強盛国家にした。この事から呉起は法家の元祖と見なされる事もある(ただし管仲や伝説の太公望も、その政治手法は法家的とされ、時代的には古い)。しかしその裏では権限を削られた貴族たちの強い恨みが呉起に向けられ<た。>・・・
 父の後を継いだ粛王は、反呉起派の放った矢が亡父の悼王にも刺さった事を見逃さず、巧みに「王の遺体に触れた者は死罪」という楚の法律(かつて伍子胥が平王の死体に鞭打ったために、このような法律があった)を持ち出し、悼王の遺体を射抜いた改革反対派である者たちを大逆の罪で一族に至るまで全て処刑した。死の間際において呉起は、自分を殺す者たちへの復讐を目論み、かつ改革反対派の粛清を企てたのである。
 しかしこの機転にもかかわらず、呉起の死により改革は不徹底に終わり、楚は元の門閥政治へと戻ってしまった。この半世紀後、呉起と並び称される法家商鞅<(BC390~BC338年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%95%86%E9%9E%85 >
が秦にて法治主義を確立。結局、商鞅も恨みを持つ者たちにより処刑されたが、秦はその後も法は残した。そして王と法の元に一体となった秦は着実に覇業を成し遂げていき、楚も滅ぼしたのとは対照的な結果となっている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%89%E8%B5%B7

⇒秦の商鞅と楚の呉起とを、法家、と、一括りするのはいかがなものか。
 秦は最初から君主独裁制だったが楚はそうでなかったのを、悼王が、楚も、そろそろ常在戦場の君主独裁制にしなければならないと考え、呉起を使ってそれを試みたものの、楚の江南文化性の壁にぶつかってやはり失敗してしまった、ということだろう。(太田)

(続く)