太田述正コラム#14982(2025.6.3)
<渡辺信一郎『中華の成立–唐代まで』を読む(その34)>(2025.8.29公開)
例えば、丹陽(たんよう)は、現在の湖北省の西部に位置する宜昌市内の南東部に位置する県級一の枝江市であり、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%9C%E6%98%8C%E5%B8%82
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9E%9D%E6%B1%9F%E5%B8%82
また、藍田(らんでん)は現在の陝西省西安市内の東部に位置する県であるところ、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%8D%E7%94%B0%E7%9C%8C
当時の楚と秦の領内で行われた丹陽・藍田の戦いは、秦の恵文王と楚の懐王の事前の調整の下、小競り合い程度の両軍の戦闘を二度にわたって行い、その結果を誇張して記録に残し、そのようなものとして、秦楚以外の諸国に伝わるように仕組んだ、というのが私の見方なのだ。
ところで、秦の恵文王が相邦という現在の君主制/大統領制下の首相に相当する職位を設け、その子の武王が一旦丞相(但し左右2名制)という名称に変えつつ、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%9E%E7%9B%B8
爾後、秦の王は独裁できるというのに、この相邦/丞相なる職位を、支那史上初めて設けて維持し続け、かつ、その職位に多くは他国出身者を就けたのは、きれいごとで言えば、広く人材を求めた、ということになるけれど、その最大の所以は、自分自身や秦出身の重臣が起案してしまうと、楚秦ステルス連衡を前提にした案になりがちでこの連衡の存在が露見しかねないので、白紙の状態で雇われ重臣に責任を持って起案してもらい、ステルス連衡とどうしても相容れない場合に限ってその案を却下することができるようにするためだ、と、私は考えている。
なお、相邦/丞相が雇われ重臣である限りは、秦内に基盤を持たないため、王位がその人物によって乗っ取られる恐れ(上掲)がないことも顧慮されたに違いない。(太田)
「恵文王14年(紀元前311年)、恵文王が没すると太子であった太子蕩<(武王)>が即位した。・・・武王は太子の頃より謀略家である張儀と不仲だったため・・・張儀は・・・<出身の>魏に赴<き、>・・・秦に帰る事無く、そのまま魏で没した。・・・
<この武王は、>武王3年(紀元前308年)・・・秦に初めて丞相を設置し、<どちらも秦人であるところの、>樗里疾(恵文王の弟、樗里子とも)と甘茂をそれぞれ左右の丞相とした。・・・
武王4年(紀元前307年)8月、洛陽を訪れた武王は孟賁という大力の持ち主と鼎の挙げ比べを行い、脛骨を折って死去した。・・・
子がないままの急逝だったために後継者争いが起こったが、燕にいた異母弟の公子稷が即位した。これが昭襄王である。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%98%E8%8C%82
⇒昭襄王(在位:BC306~BC251年)は、「公子稷は当時燕にいたが、趙の武霊王の計らいで、・・・燕から趙に迎え入れ秦に送り届けられた」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%AD%E8%A5%84%E7%8E%8B
ところ、武王は、恵文王と楚出身ながら公族ではない魏夫人との間での子であったところ、武王には男の子がおらず、急逝した武王の庶長兄として、恵文王と楚とは縁もゆかりもない女性との間に生まれた公子壮がおり、群臣のほとんどが公子壮推しだったので、このままでは楚秦ステルス連衡について完全に蚊帳の外であったこの公子が秦王に即位すれば、楚秦ステルス連衡が崩壊しかねないことを危惧し、宣太后らは趙の武霊王の助けも借りて強引に公子稷を秦王にしたのだろう。
https://historicalfact.net/keibunkou/ ←事実関係
しかし、「昭襄王元年(紀元前306年)から昭襄王2年(紀元前305年)にかけて、先の後継者争いで敗れた庶長の公子壮(季君)が・・・公子雍ら反対勢力を結集して叛乱した。魏冄により叛乱は鎮圧され、昭襄王の兄弟で叛いた者は皆処刑され、恵文后もこの叛乱に加担した罪で処刑され、武王后は故国の魏に放逐(または自ら逃亡)された(季君の乱、または庶長壮の反乱)。・・・<但し、武王后は、>『史記』「穣侯列伝」では武王より先に亡くなったとされる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%81%B5%E6%96%87%E5%90%8E_(%E7%A7%A6)
(ところで、どうして武霊王はこんな便宜を図ったのだろうか?
趙の趙氏は姓が嬴であり秦の公室と同祖とされ、「周の穆王に仕えた名御者の造父が趙城に封ぜられたのが趙氏の始まりと言われている<ところ、>その後、趙氏は晋に仕え」、更にその後、晋から「独立」したわけだ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%99_(%E6%88%A6%E5%9B%BD)
が、この点では、周の穆王の3代後の孝王から秦の地に封じられたところの、同じ姓は嬴、氏は趙の秦の公室
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%A6
の先輩にあたることから、武霊王が西方の秦と干戈を何度も交えつつも、秦に親近感を覚えていたとしても不思議ではないし、いずれにせよ、そもそも、彼は、どちらかというと、秦よりも東方の斉を征服したいと思っており、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E9%9C%8A%E7%8E%8B
秦との関係改善を欲していた、と思われる。
では、どうして、公子壮ではなく、公子稷に肩入れしたのだろうか?
それは、趙の礎を築く趙盾の父親である祖先の趙衰(ちょうさい。?~BC622)が、「紀元前653年、驪姫の乱の策謀を避けて出奔した重耳<(晋の後の文公)>に従い、その後19年にわたって諸国を放浪した<際、>・・・紀元前637年、重耳が楚の成王に招かれたとき、成王は重耳の器量を認めて、自分と対等の者に対する礼をもってもてなし<、>・・・同年、秦の穆公が、重耳を迎え入れ<、>・・・紀元前636年、ようやく・・・重耳<と一緒に>帰国し<、>・・・重耳は晋君として即位し、文公とな<り、>・・・紀元前635年、晋が周の襄王より原の地を賜った際には、その伯に任じられた。紀元前629年、上軍の佐である狐毛が没すると、後任に任じられ<、>紀元前625年には、中軍の佐に任じられた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%99%E8%A1%B0
という史実から、楚と秦の両国どちらにも、武霊王は恩義を感じていて、秦における楚出身の有力者達と彼らが推している公子稷に対して便宜を図ったのだろう。
このように、歴史が、武霊王に限らず、当時の拡大中原の人々の意識や行動を規定していたと思われる、ということを指摘したいがために、少々立ち入った追究をしてみた。)(太田)
(続く)