太田述正コラム#14998(2025.6.11)
<渡辺信一郎『中華の成立–唐代まで』を読む(その42)>(2025.9.6公開)
「考烈王25年(紀元前238年)、考烈王は側室の兄の李園(かつての春申君の食客)に後事を託して薨去した。この後、李園は春申君を殺害し<た。そして、>公子悍<が>幽王として即位<すると>、自らは宰相の地位に就き権力を握った。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%80%83%E7%83%88%E7%8E%8B
「幽王10年(紀元前228年)、幽王が亡くなり、同母弟の公子猶が哀王として即位したものの、2ヶ月ほどで哀王の庶兄の負芻を擁する者らに殺害され、その際に<李園は>妹の李太后(李環)共々殺害され、李園の一族は全滅した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%8E%E5%9C%92
⇒時あたかも、秦が趙を征服した時点だったが、楚の負芻らは楚秦ステルス連衡の存在を知らなかった可能性が高く、これを奇貨として、秦は、BC226年にほぼ燕を滅ぼし、BC225年に魏を滅ぼすと、残った斉と楚のうち、楚の征服に、直ちに、しかもガチで取り掛かることになる。(太田)
「紀元前225年、秦王政は、楚を征服<する場合>・・・どれだけの部隊が必要かを諮問した。李信は、「20万」で充分だと語った。一方で王翦は、「60万」が必要だと語った。秦王政は、王翦が耄碌したものと捉え、若く勇ましい李信の案を採用して侵攻を命じた。王翦はこれを不満に思い、病気を理由に軍職を辞し故郷の頻陽へ帰った。
⇒「<この>際に、秦王政を諌めたため怒りを買って昌平君も丞相を罷免された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8C%E5%B9%B3%E5%90%9B 前掲
とされているが、これは、昌平君が、かねてより、政の統治思想や政の人格を正そうと努力してきたけれど、それが不可能であることに気付いていて、養親の華陽太后の死(BC230年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%AF%E9%99%BD%E5%A4%AA%E5%90%8E 前掲
以来辞任の機会を探っていた、という背景の下、この時点でついに自ら身を引くことができたのである、と、私は見ている。(後述するところを参照。)
(他方、昌平君の「同志」の李斯は、一、故華陽太后によって直接起用された昌平君と違って、食客出身の自分が辞意を表明した場合の政の対応に不安があったこと、二、自分までいなくなった場合に政の言動や人格の更なる劣化が生じかねないとの懸念があったこと・・その傍証が、李斯が、二世皇帝に対して、「阿房宮の造営などの政策を止めるよう諫言したがかえりみられ<なかったことに懲りず、>諫言を重ねた」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%8E%E6%96%AF
ことだ。・・、そしてこれは私の仮説なのだが、三、秦政王/秦始皇帝に、自分が荀子の儒学と秦墨とを弁証法的に止揚した思想を吹き込み、この思想に基づく統治を実践させ、支那における統治の理念型を樹立するという野望を抱いていたこと、から、ついに身を引くことがなかった、とも。)(太田)
李信は総兵数20万を二つの部隊に分け、李信は平輿(現在の河南省駐馬店市平輿県)で、蒙恬は寝丘(現在の安徽省阜陽市臨泉県)で楚軍を破った。
さらに、李信と蒙恬は、楚の首都郢(寿春、現在の安徽省淮南市寿県)周辺を攻め、再び楚軍を破る。
しかし、城父で李信と蒙恬が合流した所を項燕が指揮を執る楚軍が急襲、楚軍は三日三晩一切休まずに攻め続け、李信軍を大いに打ち破った。秦軍は2つの城壁を破られ、7人の都尉を失う大敗を喫し、潰走した(城父の戦い)。
⇒この時、斉が秦を攻撃しておれば、秦は打倒され、支那には斉と楚の南北時代が到来していたかもしれない。
荀子が斉を去らねばならなかったということは、楚秦ステルス連衡の存在を見抜いたり、いずれにせよ適時適切にそういった提言を行ったり、するような稷下の学士を始めとする人材が払底してしまっていた、ということも与ってのことだろうが、その後の支那のことを考えると、まことにもって残念なことだった。(太田)
秦王政は敗戦の報を聞いて激怒した。自ら頻陽へ急行して王翦に謝罪し、「私が将軍の策を用いなかったばかりに、李信が秦軍を辱めた。日々、楚軍は西へ進軍している。あなたほどの者が私を見捨てようというのか」と、再び将軍として軍を率いてくれるよう懇願した。これに王翦は「大王がどうしてもこの老臣をお用いになるというならば、60万の兵を与えてくだされ」と返した。秦王政はこれに従い、王翦に60万の兵を与え、蒙武を裨将軍(副将)とした。
紀元前224年、秦将王翦と蒙武が60万の大軍を率いて楚に侵攻、強固な防衛を攻めで超えるのは困難と判断し王翦は堅守・不出の戦術を採用、項燕の防備に隙ができるように仕向けた後、項燕の軍を奇襲して楚軍を大破、楚王負芻は捕虜となり、項燕は淮水で負芻の異母兄弟である楚の公子昌平君を楚王として擁立して反抗した。
紀元前223年、王翦と蒙武は楚軍を追撃、昌平君・項燕ともども戦死(もしくは自害)し、ついに楚は滅亡し・・・た。
紀元前222年、・・・王翦と蒙武はついに楚の江南<地域も>平定する。また、東越<を滅亡させ、更に、>翌年、秦は斉を滅亡させ、天下を統一する。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%9A%E6%94%BB%E7%95%A5
⇒秦王政元年(紀元前246年)から呂不韋の下で御史大夫(副丞相)を務め、呂不韋が罷免された秦王政10年(紀元前237年)からは秦王政21年(紀元前226年)まで右丞相を務めた昌平君(~BC224年)・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8C%E5%B9%B3%E5%90%9B 前掲
これはまず間違いなく、その育ての親である華陽太后(~BC230年)の意向を受けた任命であり、彼はもちろん楚秦ステルス連衡については熟知していた筈だ。この時、楚の頃襄王の公子の昌文君(~BD224年)が左丞相になった
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8C%E6%96%87%E5%90%9B
のも、その育ての親でこそなかったけれど、同様だろう。(「秦漢<当時>は右が上」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%9E%E7%9B%B8 )
・・が、この期に及んで楚が滅亡を免れると思って寝返って楚王を引き受けたわけがないのであって、これは、後述するように、秦王政の思想、人格に深刻な問題があることから、自分が一身を犠牲にすることによって、楚を中心とする支那の人々に対して、天下統一後の秦に対し、できうれば抵抗を続け、それができなくても機会を窺って蹶起することを促そうとしたのだろう。
まさにそれを、やったのが、上出の項燕の、末子である項梁、と、(項梁が養育した)孫の項羽、だ。
(もっとも、項梁は早く死に、項羽は出来が悪かった。楚の公子の子孫達には人材がいなかった。)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A0%85%E6%A2%81
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A0%85%E7%BE%BD
蛇足ながら、反秦派(親斉派)として憤死した屈原(BC343~BC278年)「伝説」・・「屈原の伝記や、楚辞を屈原が作ったとする伝承には疑問が提出されている。」・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%88%E5%8E%9F
は、昌平君らの思いにも呼応する形で楚の人々の間で形成されていったものだろう。
屈原は、楚秦ステルス連衡について全く知らされていなかったかったと想像されることから、彼が反秦感情を抱いたのには無理からぬものがあったわけだが・・。(太田)
(続く)