太田述正コラム#15004(2025.6.13)
<渡辺信一郎『中華の成立–唐代まで』を読む(その44)>(2025.9.8公開)
この政秦王/始皇帝の人格の歪み・・普通人性・・に基づく「個人的」言動を補佐したのが趙高だった、ということではなかろうか。
しかしながら、さすがに、以上のような人格欠陥者たる始皇帝は批判され否定され、当然のことながら、範例化されることにはならず、漢からの歴代王朝の皇帝は私人としても人格者であることを少なくとも装うことが求められるようになった。」(コラム#15002)
(5)範例化c:軍事軽視・緩治者たる皇帝
銘記されるべきは、こんな秦政王/始皇帝によって、中原文化(華夏文化)地域と江南文化地域とを統合した最初の支那(拡大中原)統一王朝が作られた結果、この、秦の法家的墨家的統治思想が爾後の支那の歴代王朝の統治思想の理念型になったことだ。
その核心だが、秦政王/始皇帝に、「史実」として軍事に関する師が(どころか商人インテリでしかなかった呂不韋を除けばいかなる師も)いなかった可能性があることも気になるが、直接的な軍事的事蹟が皆無であること
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A7%8B%E7%9A%87%E5%B8%9D 前掲
や、天下統一の過程で重用した名将揃いの王氏一家の人々が統一後全く用いられた形跡がないこと
https://dot.asahi.com/articles/-/238082?page=1
に加え、BC221年の天下統一時の秦の丞相の王綰(おうわん。?~?年)に軍事に関する事績が皆無であること、
https://zh.wikipedia.org/zh-tw/%E7%8E%8B%E7%BB%BE
BC213年に右丞相になった馮去疾(ふうきょしつ。~BC208年)についても左丞相になった李斯についても同様であること(上掲)、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A6%AE%E5%8E%BB%E7%96%BE ←
https://kotobank.jp/word/%E6%9D%8E%E6%96%AF-148671
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%8E%E6%96%AF
から、文官の武官に対する圧倒的優位とそれと裏腹の軍事軽視は明確だ。
補足するが、この馮去疾は馮亭(ふうてい。?~BC260年)・・韓の地方官吏として一時的に上党で守を務め、後に趙に降って華陽君の地位を与えられ・・・長平の戦いにおいて・・・白起の率いる秦軍に大敗した際に戦死した・・の孫で、馮劫(ふうこう。?~BC208年)は曾孫、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A6%AE%E4%BA%AD
だが、この馮劫はBC221年の天下統一時の秦の御史大夫(副丞相)で、後に将軍となるが、やはり、それまで軍事に関する事績は皆無だ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A6%AE%E5%8A%AB
(「紀元前208年(二世2年)、馮劫は李斯や馮去疾らとともに「関東で反乱が続発しているのは、軍役や労役の負担が重く、租税が高いからであり、阿房宮の造営を中止し、辺境の軍役を減らすようにお願いしたい」と二世皇帝に上奏した。しかし二世皇帝は聞き入れず、李斯・馮去疾・馮劫の3人は獄に下され、余罪を追及された。馮去疾と馮劫は「将相は辱められず」といって自殺した。」(上掲))
そもそも、天下統一後、秦墨思想に基づき総力戦体制が解除され、BC215年から、軍隊中の最精鋭30万は軍事に関する事績の豊富な蒙恬に率いられて北方辺境に匈奴対処目的で置かれており、「オルドス地方を奪って匈奴を北へ追いやると、<そこ>に陣して長城、秦直道(直線で結ぶ道)の築造も担当し<てい>た<ところ、>・・・「始皇帝に焚書を止める様に言って遠ざけられた長男の扶蘇が蒙恬の元にやって来て、扶蘇の指揮下で匈奴に当たるようになった<けれど、>扶蘇は始皇帝に疎まれたために蒙恬の所へ送られたとなっているが、蒙恬の監視役であったとも考えられる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%92%99%E6%81%AC
のであって、中央政府が直接軍事に関与することは殆どなくなっていたのではないか。
だから、私がこれまで繰り返し指摘してきた(コラム#省略)ように、軍事力の整備維持のために必要なシステムが殆ど構築されないまま、ということは、(総力戦体制が解除された、仁もへったくれもない)緩治のまま、その後の支那史は展開していくことになった。
「<支那で>は王朝交代の混乱期に人口が驚くほど減少する。そのため、王朝が成立して社会が安定すると、為政者は安民と言って税金を下げるなどの民衆を安んじる施策をとり、その結果、人口が爆発的に増加する・・・。・・・
現在の<支那>の領土の<大>部分を占める<拡大>中原を大きく超える領土を誇った元と清を除くと、<支那>の人口は6000万人に近くなると大きく減少する傾向がある。
これは<拡大>中原の農業生産力の限界が6000万人程度であったようで、この人口を大きく超えると、飢餓が発生するなどの社会不安に陥り、最悪の場合は王朝が滅亡してしまうからである。
・・・人口が急減し<た>三国時代の発端となった黄巾の乱、唐末期に起こった黄巣の乱などの農民反乱はこのような背景があったと言われている。
ちなみに、明→清の王朝交代期にも人口が大きく減少しているが、この時期は戦乱と異民族による征服という中で様々な虐殺が行われた。」
https://chinastyle.jp/gdpjinkou/
https://www.isc.meiji.ac.jp/~katotoru/jinkou996.html ←参考になる
という、世界史において極めてユニークな支那史は、基本的に、軍事軽視/(仁なき)緩治、に起因するところの、歴代王朝の、内乱/外患の予防/対処能力の低さによって説明できよう。
このことについては、法家的「墨家的」統治思想を形成した李斯の責任ではなく、そんな李斯の重用を続け李斯の統治思想を実行に移した始皇帝の責任だ。
(6)漢における微修正付皇帝諸範例継受
ア 微修正点
非本質的なことではあるが、秦由来の法家的墨家的統治思想に対して、漢の途中以降に加えられた唯一の微修正が、この統治思想に孟子流の(絵に描いた仁とでも形容すべき)儒学的建前が纏わせられたことだ。
それは、大部分が普通人であるところの、漢人、の仁者化(人間主義者的化)の試みなどハナから諦めた上での、極度に単純化して言えば、少なくとも皇帝自身は人格破綻者(普通人=阿Q)でないのは当然のことだが、それに加えて仁者(人間主義者)であることを装わなければならない、という注意書きが加えられた程度の代物だが・・。
もちろん、そんな装いができなかったり、単に装わなかった皇帝は枚挙に暇がないだけでなく、人格欠陥者の皇帝すら何名かは出た。
人格欠陥者であった始皇帝が天寿を全うすることができた・・不老不死を追求したことから、水銀入りの薬を服用していたために死期が早まったとも言われている(上掲)イタイ人格欠陥者だったが、・・こともまた「先例」となり、それに倣って、あえて人格欠陥者たることに甘んじた、暴虎馮河的な諸皇帝中、隋の煬帝、北宋の徽宗こそ天寿を全うできなかったものの、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%85%AC%E5%B8%9D
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%BD%E5%AE%97
明の万暦帝は、物の見事に天寿を全うする・・自分の代で王朝交代を引き起こさない・・ことに成功したところだ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%87%E6%9A%A6%E5%B8%9D
なお、上記以外の、法家的墨家的統治思想がもたらした諸弊害については、2025.6.14東京オフ会「講演」原稿に譲る。
(完)
「・・・荀子は、<彼>の眼前<の秦>を観察し、・・・分析した<上で、>孟子の「労心」「労力」の分業論を継承し、これをさらに展開して社会的分業にもとづく礼制国家論<を、>・・・君子=王権・官僚制による小人=百姓の支配<を正当化する形で>・・・を集大成した。・・・
<そして、>「士以上は必ず礼楽によって秩序化し、衆庶百姓は必ず法制によって統治する」と述べて・・・礼楽と法制による政治社会の秩序化・・・<すなわち、>専制国家の形成・・・を主張する<。>・・・
封禅祭祀は、伝説上の聖王を覗けば、始皇帝が創始し、実行した祭祀であり、・・・こののち漢の武帝、光武帝、唐の高宗、周の則天武后、唐の玄宗、北宋の真宗の6人がおこない得たに過ぎなかった。
始皇帝の政治は、統一された制度・法制の現実的運用と祭祀・祭儀の全国的統合をめざしてなされたのである。」(70~71、81)
(続く)