太田述正コラム#15066(2025.7.14)
<丸橋充拓『江南の発展–南宋まで』を読む(その3)>(2025.10.9公開)
「・・・楚<では、>・・・戦国中期<の>・・・懐王<の頃>・・・において・・・極めて広範な免税適用範囲を設定していたことが判ってい<て、>・・・なお地方に県と封邑とが併存してい<たという>・・・点で、郡県制(複数の県を郡が束ねる国制)への一本化を進めた秦との違いが<みられた。>・・・
一君万民体制の構築過程は、春秋以来の氏族制の解体を軸に進められる。・・・
<そ>の裏で・・・大量のアウトロー(遊侠<(注6)>(ゆうきょう))たちが社会に流出した・・・。・・・
(注6)「仁義を重んじ他者に自分の利害を超えて接する事が出来る人物<。>・・・
司馬遷は遊侠列伝の中で、「世間が遊侠を忘れて、朱家<(後出)>や郭解<(後出)>をゴロツキやヤクザのように思っているのは悲しい事だ」と慨嘆しており、BC90年頃の<支那>では既に任侠・遊侠という概念が廃れていたという事になります。
これは社会規範・道徳が変遷していた事でもあるのですが、それまでの<支那>ではこうした任侠の気風は「美徳」でもあったという事も示していると私は思います。」
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q11163579106
アウトローたちは自ら伝手をたどり、個人間の信頼関係を基礎によりどころを求めていく。
・・・「幇の関係」の先駆けである。
各国王や戦国四君のような大パトロンに出会える場合もあれば、仲間内の水平的なネットワークで身の保全を図る場合もあったろう。
彼らはこうした関係を大切にし、命がけで守った。
「<士は>己を知る者のために死す」<(注7)>(『史記』刺客列伝)。
(注7)「男子たる者は、自分の真価をよくわかってくれる人のためには命をなげうっても尽くすものだとの意。・・・晋の智伯(ちはく)が趙の襄子(じょうし)に滅ぼされたとき、<智伯>の臣であった予譲は、いったんは山中に逃れたものの、このことばによって復讐を誓い、姓名を変え、顔面を傷つけるなどして別人を装い、襄子をつけねらったが捕らえられ目的を果たせず、襄子の計らいで与えられたその衣を・・・ずたずたに切り刻んでから、・・・自らも返す剣の刃に伏して命を絶った、と伝える・・・などの故事による。」
https://kotobank.jp/word/%E5%A3%AB%E3%81%AF%E5%B7%B1%E3%82%92%E7%9F%A5%E3%82%8B%E8%80%85%E3%81%AE%E7%82%BA%E3%81%AB%E6%AD%BB%E3%81%99-1542851
これが彼らの唯一無二の行動規範である。
友を守るためなら、他者を害したり、法を侵したりすることも厭わぬ彼らの価値観は、各時代の為政者からは警戒されたが、社会的には称賛の対象となった。
中国古代史研究者の増淵龍夫<(注8)>(1916~1983)は、人と人とを結ぶこうしたつながりが、遊侠者のみならず社会全体を広く覆っていることを重視し、こうした価値観を「任侠的習俗」と呼んだ。・・・」(14、26~27)
(注8)東京商科大(現一橋大)卒、招集兵となり、東京産業大学東亜経済研究所参事、東京商科大副朱、同大経済研究所研究員、同助教授、同大経済学部助教授、教授、同大社会学部教授、同大経済学博士、同大名誉教授、成城大経済学部教授。
研究分野は東洋史(経済史)。
「古代中国人行為規範に任侠精神を見出し、前漢の遊侠の持つ任侠精神は、全ての人間関係に敷衍されており、皇帝と官僚の関係も任侠精神に基づくとした。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A2%97%E6%B7%B5%E9%BE%8D%E5%A4%AB
⇒遊侠であれ幇であれ、私の言う人間主義とは違って偏愛であって、要するに普通人の世界の話であるわけです。(太田)
(続く)