太田述正コラム#15080(2025.7.21)
<丸橋充拓『江南の発展–南宋まで』を読む(その10)>(2025.10.16公開)
「・・・三世紀後半から5世紀初頭までの期間、・・・日本列島の記録<は>中国資料から途絶える<。>・・・
その<後の>最初の記録である413年の讃(さん)による<東晋への>遣使は、当時敵対していた高句麗と同時に朝貢したとされており、高句麗の仕立てた偽使との説もあって確かなことがわからない。
確実視されている最初の朝貢は、建国されたばかりの宋に送られた421年の使節である。・・・
倭国は・・・宋および・・・斉に対し、約60年間で10回ほど遣使<(注37)>している。・・・」(59~60)
(注37)「宋は<420>年の王朝創建時に周辺諸国王の将軍号を進め、高句麗王や百済王もその地位を進められたが、倭国王はこの昇進にあずからず、翌年、遣使して初めて任官された。この違いは、宋の前王朝である東晋との交渉の有無と関係があり、倭国が東晋と正式な交渉をもっていなかったことを物語る。
将軍に任じられた倭国王讃は将軍府を設置し、僚属として長史・司馬・参軍を置くことができるようになった。このうち長史は将軍の補佐で、文官をつかさどり、司馬は長史に次ぐ地位で、軍事に携わった。425年・・・讃が宋に派遣した「司馬曹達」は、当時の外交慣例からみて、この制度を利用したものである。つまり、司馬の曹達を遣宋使の長官に任じたことになる。これは、高句麗王や百済王が長史を遣宋使に任じたのと比べると倭国外交の一大特色であり、倭国王の外交姿勢を示すものとみることができる。」
https://kotobank.jp/word/%E5%80%AD%E3%81%AE%E4%BA%94%E7%8E%8B-154280
すなわち、「軍事性を重視する倭の内情や、他国より優位に立とうとする倭の外交姿勢を表す可能性が指摘される。一方で大将軍府(高句麗・百済)では長史が筆頭で、将軍府(倭)では司馬が筆頭であったとする見方もある。ただし当時の曹達の実際は、軍官の実務に従事する職(実司馬)でなく、使節のための臨時的な職(虚司馬)であったと見られる。なお、この「司馬」を姓とする異説もある。
当時の倭では、稲荷山古墳出土鉄剣銘文の「乎獲居」や、江田船山古墳出土の銀象嵌銘大刀銘文の「无利弖」のように姓を持たないのが一般的であるため、曹達は中国系渡来人と想定される(中国と通交が始まって日が浅いため、中国人でなく中国系朝鮮人か)。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9B%B9%E9%81%94_(%E5%80%AD)
⇒「438年・・・宋が許可したのは安東将軍・倭国王の称号のみであった<が、>・・・451年・・・に「使持節、都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事」を加号され、軍号も「安東大将軍」に進められ<、>・・・478年・・・「使持節、都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東大将軍、倭王」に任命した。この任官は従来の倭国王の最初の任官と比べれば飛躍的な発展であり、武の外交の成果とみることができる」
https://kotobank.jp/word/%E5%80%AD%E3%81%AE%E4%BA%94%E7%8E%8B-154280 前掲
が、北朝鮮=高句麗(宋冊封下)はもとより除かれ、かつ、南朝鮮においても百済(宋冊封下)・・倭はその軍事的支配権を求めた・・が除かれた地域の軍事的支配権を認められたとされる
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%80%AD%E3%81%AE%E4%BA%94%E7%8E%8B
ところ、長江文化系の人々が支配層を含め多数を占めていた倭において、同じ長江文化系の人々が支配層であった漢人文明嫡流の南朝が(北朝の二代目の前秦は氐(てい)系
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%8D%E7%A7%A6
だが)鮮卑系の騎馬遊牧民系の北朝と対峙状態となったことに同志的危機意識が高まり、南北両朝に朝貢するという二股外交を行っていたところの、半ば騎馬遊牧民系の高句麗
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%8F%A5%E9%BA%97
を、そして更には北朝それ自体を、南朝は南から、日本は東から挟撃して滅ぼす含みで、倭の諸王は南朝の宋等に接近した、と、私は考えるに至っています。
(続く)