太田述正コラム#15086(2025.7.24)
<丸橋充拓『江南の発展–南宋まで』を読む(その13)>(2025.10.19公開)

⇒「注40」の第一段落を踏まえれば、丸橋は、「中国史研究は」の前に「日本の」を付け加えるべきでした。
 また、「注40」全体及び「注39」を踏まえれば、江南文化由来の和の精神が残った日本では天皇独裁制が成立せず、陣定で政策も官吏の人事も決定されたのに対し、和の精神が失われた支那では皇帝独裁性が成立し、政策及び基本的には官吏の人事も、皇帝がトップダウンで決定したところ、六朝を含む南北朝時代においては、北朝の騎馬遊牧民の本来のリーダーの民主的選出方法の影響を受け、官吏のリクルートに関してのみ、民主的選出めいたことがなされた、というのが、私の取り敢えずの仮説です。(太田)

 「・・・南北朝の分裂は、政治面のみならず、文化的な違いも拡大させた。
 魏晋南北朝史研究者の朴漢済<(注41)>(パクハンジエ)(1946~)が北朝を「胡漢体制」、南朝を「僑旧体制」と呼んだように、北朝では北方の遊牧文化(胡)と中原の漢族文化(漢)とが出会ったのに対し、南朝では中原の移住民文化(僑)に江南の先住民文化(旧)が邂逅している。

 (注41)「ソウル大学東洋史学科卒。ソウル大学東洋史学科教授。・・・
 カール・ウィットフォーゲル以来、北魏の歴史は胡族の漢化の歴史と説明され、その象徴として洛陽遷都が取り上げられたが、朴漢済は、胡族文化と漢文化がモザイク状に融合し、胡でも漢でもない新文化が創出されたという「胡漢体制(英語: Sino Barbarian Synthesis)」理論を提唱しており、「胡漢体制(英語: Sino Barbarian Synthesis)」理論は中国や日本の中国史学界でも注目され、論争になっている。「胡漢体制(英語: Sino Barbarian Synthesis)」理論は、韓国の中国史学界における唐史研究の代表的理論となっている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%B4%E6%BC%A2%E6%B8%88

 土着文化と外来文化の結合という点では、南も北と同じなのである。・・・

⇒私は、南北朝時代は、南朝も含め、「胡でも漢でもない新文化が創出された」けれど、「胡」の要素は微弱で、唐の玄宗期における関隴集団の弱体化(コラム#15058)の時点までに、支那から「胡」の要素は、一旦、概ね消え去るに至った、と、いう見方を現時点ではしています。(太田)

 旧南朝地域が、律令に基づく一元的な行政体系下に制度上組み込まれていたことは間違いない。
 ただし、現実問題として一元的な統治がどこまで貫徹していたかは、また別問題である。
 租調役(そちょうえき)が課されていたことは確かだが、江南の租は布(麻布)で代納され、しかも資産等級(戸等)に応じて納入額に差を付けることが定められていた。
 唐において「貧富に関係なく一律に粟<(注42)>(ぞく)二石(せき)」と定められていた租の本来規定からは大きく逸脱する運用である。

 (注42)「均田制に基づく田地の支給に対して、粟(穀物)2石を納める義務を負った。これが租である。・・・当時の唐の基盤となった華北の主食は粟(アワ)であり、租の本色(基本的な納税物)は粟とされていた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%9F%E5%BA%B8%E8%AA%BF
 「漢代の・・・1石は約31キログラムとなる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3_(%E5%8D%98%E4%BD%8D)

⇒華北(旧北朝地域)で主食の粟で納入させたのなら、華南(旧南朝地域)では主食の米で納入させるのが自然のように思えるのに、麻布で納入させたのはどうしてなのか、知りたいところです。(太田)

 また兵役のうち、江南の民に課されたのは一生に一度就くか就かないかの防人(ぼうじん)のみで、府兵義務とは縁がなかった。」(68)

⇒拡大中原の民だって、府兵義務を課されたのは、基本的に、長安と洛陽の二首都周辺住民だけだったというのが私の見方(コラム#省略)であるわけです。(太田)

(続く)