太田述正コラム#15094(2025.7.28)
<丸橋充拓『江南の発展–南宋まで』を読む(その17)>(2025.10.23公開)
「9世紀中期になると、こうした諸勢力に起因する混乱が顕わになる。
浙東の裘甫(きゅうほ)の乱<(注52)>(859)、徐州の龐勛(ほうくん)の乱<(注53)>(866)といった騒擾が各地で続発するようになり、さらに874年に山東で始まった黄巣の乱が、南は広州から、北は洛陽・長安までを含む広い範囲に戦火を広げたのである。
(注52)「大中13年(859年)冬12月、浙東の賊の首領である裘甫が象山を攻め落とした。官軍は敗北を重ね、明州では日中でも城門を閉ざすほどであった。賊は進撃して剡県に迫った。反乱軍の人数は100人ほどであったが、浙東地方は大騒ぎとなった。観察使の鄭祗徳は、討撃副使の劉勍と副将の范居植に命じて兵300を率いて台州の部隊と合流して討伐させた。
大中14年(860年)春正月乙卯、浙東軍は桐柏観(とうはくかん、台州天台山にある道観)の前で裘甫と戦ったが、范居植は戦死し、劉勍は命からがら逃げ帰る有り様であった。その後裘甫は仲間1000人余りを率いて剡県を陥れ、役所の倉庫を開いて壮士を募ったのでその勢力は数千人となった。
この情勢に観察使のひざ元である越州では大恐慌をきたした。当時浙江地方では長い間平和が続いていたので、武器はなまくらで戦闘の訓練もろくに行われず、兵力は300名にも満たない状況だったからである。鄭祗徳は新たに兵士を募集して増強を図ったが、軍の役人が賄賂を取ったため、集まってきたのは弱兵ばかりであった。それでも鄭祗徳は正将沈君縦・副将張公署・望海鎮将李珪の三人に命じて新兵500名をもって裘甫を討たせることにした。
2月辛卯、官軍は裘甫と剡県の西方で戦った。賊はいくつかの渓流の合流点に伏兵を置き、主力は渓流の北側に布陣した。このとき渓流の上流をせき止めて人が渡れるようにしておいた。戦闘が始まると反乱軍はわざと負けたふりをして逃げ出し、官軍が追撃のため川を半ば渡ったところで堰を切った。このため3人の将軍は戦死し、官軍はほぼ全滅した。
以上の勝利により、裘甫の勢力は3万人に達した。・・・
朝廷では鄭祗徳に代わる武将を協議していた。そのとき同中書門下平章事(宰相)の夏侯孜が「・・・前安南都護の王式は文官出身ですが、安南で漢族も異民族もともに服従させ、その威名は遠近にとどろいております」と王式を推薦し、諸将たちも賛成した」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A3%98%E7%94%AB%E3%81%AE%E4%B9%B1
(注53)「咸通3年(862年)7月、徐州の驕兵(驕れる兵隊)たちは新任の節度使である温璋を追い出してしまう。これは温璋が厳しい官吏であるという評判があり、話の分かる上司を寄越せという驕兵たちの無言の声明であったが、これが彼らの破滅につながってしまう。温璋の後任として選ばれたのが裘甫の乱を鮮やかに鎮圧した名臣、王式だったからである。
この時、王式は裘甫の乱鎮圧の直後であったため、救援に来ていた忠武藩鎮と義成藩鎮の軍勢を臨時に率いていた。2藩鎮の将兵を慰労して解散させる段となって、王式はついでとばかりに、将兵に「徐州の驕兵どもを皆殺しにしろ」と命令を下した。
予想しえない王式の攻撃により、武寧藩鎮は壊滅した。生き残りの驕兵たちは匪賊となった。政府は匪賊たちに対し、「1ヶ月以内に自首すればこれまでの罪は問わない」という布告を発した。
その後詔勅が出されて、徐州で3000人を募集し、その兵を現在の広西地域に赴任させるという事になった。唐と吐蕃の衰えを見て、大中13年(859年)に南詔の世隆が皇帝に即位して自立していた事に対処するために、匪賊化した徐州の驕兵を活用するという一石二鳥を狙った命令であった。安寧が回復するまでの赴任であり、期限は一応3年ということになっていた。こうして、徐州の驕兵800人が、桂州に赴任した。ところが3年過ぎても交替という話はなく、とうとう6年になってしまった。嘆願しても伸ばされるという事態に驕兵たちは怒り、ついには行動を開始する。
咸通9年(868年)7月、桂州の観察使が転勤し、後任が到着していないという時期を狙って、徐州の驕兵たちは都将の王仲甫を殺害。料糧判官の龐勛を盟主に祭り上げると徐州への帰還を開始したのであった。公的にはこれが龐勛の乱の始まりとされている。・・・
龐勛の反乱の動機は政府転覆ではなく、ただ自分たちが贅沢をしたいという自堕落的な欲求に基づくものであった。このため、反乱軍はあっという間に堕落してしまった。兵隊は強制連行、物資も豪族や富豪から根こそぎ略奪するようになり、隠匿した者は一族皆殺しにされるという有様であった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BE%90%E5%8B%9B%E3%81%AE%E4%B9%B1
こうした反乱の多くは、本籍地から逸脱したアウトローたちを、藩鎮や塩の密売集団などが吸収し、膨れあがったものであった。」(93)
⇒唐末の荒廃ぶりが実感できるというものです。
地方において軍備がというか治安が失われていて、裘甫の乱の初期についての「注52」から分かるように、わずか100人の叛乱を鎮圧できないというのですからね。
しかも、鎮圧部隊の指揮官に任ぜられたのは文官と来ているわけです。
案の定、龐勛の乱の初期についての「注53」から分かるように、この同じ文官が、別地域の、叛乱を起こしたわけでもない「最精鋭」の兵士達、の全虐殺を命じるなどというトンデモ命令を発して龐勛の乱発生の「布石」を打ってしまうことになります。
叛乱側の堕落ぶりも「注53」から明らかですよね。(太田)
(続く)