太田述正コラム#15100(2025.7.31)
<丸橋充拓『江南の発展–南宋まで』を読む(その20)>(2025.10.26公開)
 「・・・これらの国々の多くに共通する特徴として、仮父子<(かふし)>結合などを用いて強力な親衛軍を組織している点が挙げられる。
 後梁の庁子都<(注55)>、呉越の杭州八都<(注56)>などが著名である。
 (注55)不詳。
 (注56)「乾符五年[878]夏,浙西・浙東地域は黄巣の乱の煽りを受け,その余波に対応するため杭州近傍の都市群はそれぞれ武装集団を形成し,相互に連繋して在地の防衛と治安維持を担った。杭州八都(臨安,銭塘,富春,新城,餘杭,塩官,龍泉,臨平の鎮)と称されるこの武装集団」
https://www.bing.com/ck/a?!&&p=5d7235749c95ffb41cfa03cf77a3abe15f086503bf7fd0c870b6584ccf30d714JmltdHM9MTc1MzA1NjAwMA&ptn=3&ver=2&hsh=4&fclid=14e97463-d0d3-67d4-0bbd-61bcd1a96641&psq=%e6%9d%ad%e5%b7%9e%e5%85%ab%e9%83%bd&u=a1aHR0cHM6Ly9vY3Utb211LnJlcG8ubmlpLmFjLmpwL3JlY29yZC8yMDE3ODM0L2ZpbGVzLzExMUUwMDAwMDE0LTctMi5wZGY&ntb=1
中原の五代王朝は、後唐の明宗<(注57)>(めいそう)(在位926~933)が侍衛親軍を組織して以来、親衛軍の動きが政治を大きく左右した。
 (注57)李嗣源(りしげん。867~933年)。「出自ははっきりしないが、少なくとも漢民族ではなく、いわゆる応州出身の「雑胡」<。>・・・五代の後唐の第2代皇帝。廟号は明宗。・・・李克用の長男の荘宗(李存勗)・・・の不慮の死により皇帝に即位した。この時代の皇帝では、李嗣源は後周の世宗(柴栄)に次いで高い評価があり、五代十国時代の中では珍しい安定期を築き上げた名君。・・・
 李嗣源は荘宗を倒して軍部に擁立されたため、後唐を受け継ぐか、新たな王朝を創設するかで問題になった。しかし、皇帝に即位した時点で60歳と当時としては既に高齢だったこと、荘宗の義理の兄にあたるという縁戚関係から、新王朝設立は難しいと考えて、後唐の第2代皇帝に即位する道を選んだという。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%8E%E5%97%A3%E6%BA%90
後周を創設する郭威<(注58)>(かくい)、その養子の柴栄<(注59)>、宋を建てた趙匡胤<(注60)>は何れも親衛軍トップから皇帝の位に即いている。」(96)
 (注58)郭威(904~954年。皇帝(太祖):951~954年)は後漢の枢密使・天雄軍節度使だった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%83%AD%E5%A8%81
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%B4%E6%A0%84
 「枢密院(すうみついん)は、唐代中期に設置された主として軍制を掌った中央官庁である。軍政を統轄したが、軍隊の指揮権はなかった。以後、五代の各王朝、遼、金、宋、元と歴代王朝に継承され、明代に廃止された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9E%A2%E5%AF%86%E9%99%A2_(%E4%B8%AD%E5%9B%BD)
 (注59)さいえい(921~959年。皇帝(世宗):954~959年)。「郭威が皇帝に即位して周を建てると、柴栄は澶州(現在の河南省濮陽市)節度使となった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%B4%E6%A0%84 前掲
 (注60)柴栄の死の時点で、趙匡胤は殿前都点検・検校太尉・帰徳節度使だった。
 「むかし世宗は、袋の中から長さ三尺あまりの木を見つけた。そこには「点検が天子になる」とあった。当時、張永徳が殿前都点検だったので、〔匡胤に〕交替させた。しかし、結局、〔点検であった匡胤が〕周に代わって王朝を立てることになった。」
http://awatasan.web.fc2.com/soushi/honmatu/01.html
⇒「いわゆる五代十国の華北を支配した五代王朝のうち後唐、後晋、後漢の三つは・・・西突厥の構成員でテュルク系遊牧集団のひとつで<ある>・・・沙陀人の君主が沙陀系軍閥の軍事力を背景に建国しており、漢人系とされる孟知祥の地方政権である後蜀をはじめ、郭威、柴栄といった君主を戴く後周ですら、彼ら王朝創始者たちは沙陀族の劉知遠に見出されて沙陀系軍閥の一員として台頭し、やはりこの軍閥の軍事力を背景に建国している。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%99%E9%99%80%E6%97%8F
ことこそが、五代十国/宋の王朝創始者達が軍人であった最大の理由でしょう。(太田)
(続く)


