太田述正コラム#15116(2025.8.8)
<丸橋充拓『江南の発展–南宋まで』を読む(その28)>(2025.11.3公開)
「・・・ところが最近の研究では、<徽宗>が兄の遺志を継いで新法政治の推進に意欲を持っていたこと、実務を側近任せにせず、皇帝の指令を直接担当部署に伝える御筆手詔(ぎょひつしゅしょう)を活用して、政治に積極関与していたことなどが明らかにされている。<(注81)>
(注81)「前近代<支那>は、皇帝に政治・財政・軍事・司法の大権が集中する専制国家としての特質を一貫して有してきたが、政策決定システムに目を向けると、漢代の廷議、東晋・六朝の尚書案奏(博議・詳議→参議)、唐代の宰相の議(政事堂の議→中書門下の議)、宋代の対、明代の内閣の票擬、清代の軍機処の擬旨など、それぞれの時代の中核を担ったシステムの変化を窺うことができる。更にその特質を概括すれば、宋代を挟んで性格上の変化を垣間見ることができる。即ち、前期は官僚達の合議を基軸に政策決定がなされ、その政策立案においては皇帝・官僚間に介在する宰相の存在が大きな位置を占め、又、宰相の権力を抑制する、いわば政事に対する異議申立を行う門下省系の官僚機構の発達を見、両者のバランスによって政治運営がなされてきた。一方、後期は中央集権的官僚機構の確立を背景に、宰相を介在せずに皇帝・官僚間を直接結ぶ上奏制度の発達を見、その改変とも相俟って、宰相の秘書・顧問官化が進むとともに、宰相権力抑制装置であった異議申立機構が形骸化し、結果として君主独裁が強化されて行くのである。この変化は急激に生じたのではなく、宋代に過渡的な形で進展するのである。つまり、この時代には前期的な集議が依然として見られ<る>一方、新たに皇帝に直接上殿奏事を行う対という、後期的性格を有する制度の発達が見られるのである。とりわけ、北宋期においては、宰相と相拮抗する政治勢力を形成し、異議申立を中心とした政治活動を行った台諫・侍従には二つの制度的基盤が確固とした形で存在していたのであり、この基盤の弱体化とともに北宋末から南宋期には専権宰相の政治の壟断化、異議申立機構の形骸化といった政治現象が現出する。この背後には皇帝・宰相間に通行する、御筆・手詔といった新たなる文書システムの展開が見られる。要するに、このシステムの登場は前期の官僚の合議から、後期の皇帝を中心とし、極めて限られた政治空間において政策が決定されるシステムへの移行を想起させるものである。」(平田茂樹等「宋代の政策決定システムの基礎的研究」研究概要より)
https://cir.nii.ac.jp/crid/1040000781632965120
平田茂樹(1961年~)は、東北大文(東洋史)卒、同院博士課程単位取得退学、大坂市立大博士、同大教授、大坂公立大教授。
https://enpedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E7%94%B0%E8%8C%82%E6%A8%B9
「門下省は貴族勢力の権益を代表して皇帝権と対抗する部局であったが、唐の中期以降は帝権が強まるにつれて門下省の権威は低下し、中書省に吸収されるに至る。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BE%8D%E4%B8%AD
⇒北宋の徽宗の時に、漢人文明の皇帝独裁制が「完成」したと言ってよさそうですが、これは権威と権力を完全に一体化させ、王朝交代を論理必然化させるものでした。(太田)
また漏沢苑<(注82)>(ろうたくえん)という名の、徽宗時代に造られた官営墓地の遺構が近年各地で発見され、引き取り手のない遺骸や貧しくて葬儀を出せない使者を葬る場とされていたことが知られるようになった。
(注82)「宋代に入って都市が発達し,貧しい人たちがそこに集まりはじめると,政府も本格的な救貧政策に取り組んだ。12世紀初め,北宋末の徽宗(きそう)時代はその一つのピークで,全国の府州県に居養院(養老),安済坊(医療),漏沢園(墓地)が設けられ,よるべなき貧窮者や死者を収容し,城郭内では,冬の数ヵ月間を限って食糧と寝所を提供する制度が定着化した。 南宋の国都臨安では,冬期に3日ないし5日に1回穀物を支給される貧民が5000人以上を数え,飢饉などの年には周囲よりの流入人口も加えておびただしい数にのぼった。」
https://kotobank.jp/word/%E6%BC%8F%E6%B2%A2%E5%9C%92-1440195
⇒丸橋が、徽宗によるところの、形の上での人間主義的諸施策のうちの一つだけを取り上げたというのは不思議です。
いずれにせよ、「明の文人・顧充<は、>歴史評論書『綱鑑歴朝捷録』で・・・、徽宗は造園や芸術に凝るあまりに重税を民衆にかけ・・・た・・・と厳しく批判してい」ます
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%BD%E5%AE%97 前掲
が、そのせいで、貧窮者が溢れることとなり、その救済のための人間主義的諸施策が不可欠になってしまったために、それを実施した、いわば、マッチポンプであった、ということであり、評価するには値しなさそうです。(太田)
これなどは「民間社会の自律領域に政府が積極介入する」という、いかにも新法路線の施策である。
このほか蔡京が礼制改革を主導して王権強化に努めたことも指摘されている。・・・」(115)
⇒徽宗が、「『周礼』に基づいた古代の礼制復活を図るべく『政和五礼新儀』を編纂し、自らも執筆に加わっている。・・・道教を信仰し、道士の林霊素を重用した。林霊素は「先生」の号を授けられ、道学が設置された。徽宗自身は「道君皇帝」と称し、『老子』や『荘子』に注釈を行った。その矛先は仏教に対する抑圧政策にも現れ、仏(如来)を「大覚金仙」、僧侶を「徳士」などと改名させて、僧侶には道服の着用を強制した。ただし、これは1年間で撤回された。」(上掲)の一端にも触れて欲しかったところです。(太田)
(続く)