太田述正コラム#15118(2025.8.9)
<丸橋充拓『江南の発展–南宋まで』を読む(その29)>(2025.11.4公開)
「・・・中華王朝が掌握する人口は、徽宗のころ1億人を突破したとされる。・・・
2000年来立ちはだかってきた「6000万人の壁」が破られたわけである<。>・・・
唐と宋の間にはまた、人口比率の南北逆転という現象も起こった。
8世紀半ばに45%だった南方の人口は、11世紀後半には65%に上昇している。
⇒これだけ世界有数の圧倒的な人口/経済力をもってしても、北宋、というか、宋、は滅亡を免れなかったというのですから、いかに、その軍事政策が拙劣極まるものであったかが分かろうというものです。(太田)
こうした人口動態の主因は、何といっても江南における生産力アップである。・・・
長く課題とされてきた塩湖対策は北宋期になると低湿地でも実を結び始め、堤防によって塩湖を防ぐ「圩田<(注83)>(うでん)」「囲田<(注84)>(いでん)」の造成と、水路による淡水の供給を組み合わせて、水田化が図られた。・・・
(注83)「江湖の周辺に強固な堤防を築き、その中を囲い込んで水田としたもの。・・・堤防には門があり,排水や灌漑を自由に行うことができた。・・・ただしその維持には多大な労力を必要とするので,有力地主層によって運営され,彼らの台頭を招いた。・・・
[有力地主層は囲田によって江湖の水利を独占し,一般農民の田の水利を阻害する弊害が起こったため,堤防の開掘令がしばしば出されたが守られず,南宋以降もますます発展した。]」
https://kotobank.jp/word/%E5%9C%A9%E7%94%B0-34961
(注84)「圩田<と>・・・構造上は同じである。・・・圩田は堤防(圩)が数十里にもわたる大規模な・・・囲田・・・をさして名づけられた。・・・
この地方はほとんど海面と同じ高さのうえ,長江の増水や,南の天目山山系からの流水で,定期的に溢水状態となる。そのため隋・唐時代まではだいたい低湿地をすて,丘陵の中腹などの小高い所を耕地として,陂渠灌漑による水田耕作が行われていた<。>」
https://kotobank.jp/word/%E5%9B%B2%E7%94%B0-31623 (「注83」の[]内も)
家産均分慣行は、「兄弟は父の「気」を等しく継承する」という「父子一気」「兄弟一体」の原理によって説明する理解が有力視されている。
この慣行は、戦国時代、商鞅変法における大家族の解体政策(単婚小家族の創出)に端を発し、つづく漢から魏晋南朝時代にかけ、兄弟間における嫡庶・長幼の差別が解消される過程で定着した。
それでも貴族制の時代であれば恩蔭<(注85)>特権をフル活用し、官僚身分を維持することで家運を保つことも可能だった。
(注85)「父祖の功績によりその子孫に官職が与えられる制度。漢代に始まるこの制度は,清代に至るまで維持され,科挙制のもとでは「恩蔭(おんいん)」と称して,国子監生(こくしかんせい)などの資格が与えられた。」
https://www.historist.jp/word_w_o/entry/040161/
しかし、科挙が定着した宋代において、その手を使える家系は少ない。
そこで不安定な地位を維持するための手立てとして「宗族<(注86)>(そうぞく)」の結集を試みるものが現れはじめた。
(注86)「<支那>では早くから戸(こ)と呼ばれる単位の小家族が一般化し、この戸の把握(戸籍作成)が王朝の政治経済力の源泉となったが、土地を集積して地主として成長した豪族は集積した資産の散逸を防ごうとしたこともあって同族間の結合が強く、漢・六朝の豪族勢力は、郷里における累代同居の形をとった。・・・
隋・唐ではこの結合は弱まったが、唐末に名族と呼ばれた門閥貴族が没落した後、新興地主ができるだけ没落を防ぐための相互扶助手段として宗族を強化した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%97%E6%97%8F
宗族とは、もともと周代に存在していたと観念される大家族主義の男系血縁集団であるが、上述の商鞅変法以降、存続が難しくなっていた。
この宗族を人為的に復活し、血縁集団内における相互扶助を強めようという動きが、宋代に起こったのである。」(116~117)
⇒私は、漢人文明における、タテマエとしての法家/儒教、ホンネとしての墨家の思想、ということを申し上げてきた(コラム#省略)ところ、科挙と儒教の結びつきによって、儒教が、兄弟間における嫡庶・長幼の差別化といった形で部分的にホンネ化した、という認識を抱く至っています。(太田)
(続く)