太田述正コラム#15120(2025.8.10)
<丸橋充拓『江南の発展–南宋まで』を読む(その30)>(2025.11.5公開)
「宋代の宗族においては、祖先祭祀の共同運営を軸に、共有財産の設定(范仲淹<(前出)>が蘇州に設置した「范氏義荘<(注87)>(はんしぎそう)」が有名)、系譜観念の共有(欧陽脩<(注88)>による族譜<(注89)>編纂が代表例)等を通じて、一族の団結が図られた。・・・
(注87)「義荘<は、>・・・<支那>で一族共有の田土を設け、その租入で経済的扶助を行う方法。北宋(ほくそう)の仁宗(じんそう)(在位1022~63)時代の副宰相范仲淹が華南の郷里蘇州に1000余畝(ほ)(1畝は約544平方メートル)を買って設けたのに始まるといわれる。その特色は、族人に親疎貧富の別なく平等に米を与えることにあった。范氏の義荘は明の一時を除けば発展する一方で、これに倣う官僚も各地に現われ、南宋の世には江蘇、浙江を中心に華南に多く生じ、華北東部にもみえ、明・清に及んだ。また南宋のころから孤老や貧乏な者に限る場合が多く、共同祭祀や教育費などに及ぶこともあった。・・・
義荘の〈義〉はもともと〈衆と共にする〉という意味で,同族を超える範囲までも含んでおり,義荘の中には同郷同村を救済の対象とするものもあった。」
https://kotobank.jp/word/%E7%BE%A9%E8%8D%98-50696
(注88)1007~1072年。1030年・・・に進士に及第<。>・・・散文においては韓愈の例に倣い、いわゆる古文復興運動をすすめた。・・・韻文では詩(漢詩)と詞をともに書き、気取らず、ユーモラスな作風である。・・・地方勤務中に『新五代史』を編み、中央に戻り宋祁とともに『新唐書』を編纂。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AC%A7%E9%99%BD%E8%84%A9
(注89)「唐・宋の変革によって門閥貴族が没落すると,政治的意味あいを持つ族譜の編纂は廃れてしまう。代わって宋以後には,11世紀の欧陽修《欧陽氏譜図》と蘇洵《蘇氏族譜》を初発として,新支配層となった地主・士大夫の手で族譜は盛んに作成された。これらに特徴的なことは,同族意識を持たせるための祠堂記・祭法,相互扶助のための族田に関する規定,族内統制のための族約・家訓,祖先の墓誌銘・芸文等が,新しく盛りこまれていることである。門閥の消滅した宋以後の社会では,地主の秩序維持志向が,族的結合の一手段として族譜の普及をもたらしたといえよう。」
https://kotobank.jp/word/%E6%97%8F%E8%AD%9C-89950
⇒秦以来の緩治/苛政の下、支那においては、私の言うところの一族郎党が早期から被治者達の生存を図るために生まれていたのであって、宗族は、この一族郎党中の上澄みである、というのが私の認識です。(太田)
<また、>米芾<(注90)>(べいふつ)(1051~1107)のような芸術万般に通じたマルチタレントが出現した<。>」(117~118)
(注90)「米家のルーツは・・・<イラン系であるところの>ソグド人<で、>・・・母の閻(えん)氏が英宗皇后(宣仁聖烈高皇后)の乳母として仕えていたことから、米芾は科挙を受験しないで官途につくことができた。・・・北宋末の文学者・書家・画家・収蔵家・鑑賞家であり、特に書画の専門家として活躍した。・・・書においては蔡襄・蘇軾・黄庭堅とともに宋の四大家と称されるが、米芾は4人の中で最も書技に精通しているとの評がある。他の3人はエリート政治家として活躍したが、米芾は書画の分野のみで活躍した専門家であった。・・・
古来、彼ほど臨模のうまい者はいないといわれ、その精密さは古人の真跡と区別がつかなかったと伝えられる。よって、今日に伝わる唐以前の作品の中には、彼の臨模が混じっている可能性もある。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B1%B3%E8%8A%BE
「<支那>に住むソグド人は漢字の姓を持った。その際には出身都市名を示す漢語が姓として採用された。ソグド姓は後漢から三国時代にかけて始まり、当初は康姓や安姓が多かった。ソグド人の活動が<支那>で顕著になる南北朝時代の中期以降になると多様化が進んだ。
サマルカンド→康<、>ブハラ→安(安禄山など)<、>マーイムルグ→米<、>キッシュ→史(史思明など)<、>クシャーニヤ→何<、>カブーダン→曹<、>タシュケント→石<、>パイカンド→畢<、>トカリスタン→羅<。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BD%E3%82%B0%E3%83%89%E4%BA%BA
(続く)