太田述正コラム#15132(2025.8.16)
<丸橋充拓『江南の発展–南宋まで』を読む(その36)>(2025.11.10公開)

 「したがって、富商たちは同じ職種に属する人たちと連帯して身分団体を結成し、国家に対抗するよりも(各家系が多角経営なので、業種ごとの団体を結成する前提条件がそもそも欠けているのだが)、むしろ国家権力の一角に食い込み、国家機構内で上昇することをまずはめざした。
 前近代中国の経済的成功者から、国家権力を掣肘する動機を持った身分団体は生まれなかったのである。

⇒行き着いた先が、富商たちによる国家権力の乗っ取り、すなわち、浙江財閥による中国国民党政府の乗っ取りだったと言えそうですね。↓
 「浙江財閥・・・とは19世紀後半から20世紀初頭に、<支那>最大の貿易都市である上海を拠点とした浙江・江蘇両省出身の金融資本家集団の総称である。江浙財閥(こうせつざいばつ)ともいう。幇を基盤に発展し、銀行、銭荘、儲備銀行などを中心とした金融資本があった。1927年、蔣介石の上海クーデターを支援、南京政府の経済的支柱として支配力を振るった。官僚資本である四大家族の独占的地位確立につれて没落、第二次世界大戦中から戦後にかけて解体された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%99%E6%B1%9F%E8%B2%A1%E9%96%A5 
 「四大家族は、中華民国期に政治・経済の実権を握った蔣介石・宋子文・孔祥熙・陳果夫・陳立夫兄弟の一族を指す。四家の姓を取って蔣宋孔陳と呼ぶこともある。四家のうち蔣・宋・孔家は血縁関係がある。宋子文の姉の宋靄齢は孔祥熙夫人であり、妹の宋美齢は蔣介石夫人だったことから、蔣介石・宋子文・孔祥熙は互いに義理の兄弟の関係にあることになる。ちなみにもう一人の姉の宋慶齢は孫文夫人であり、彼らは孫文とも義兄弟の関係ということになる。唯一、陳家だけが直接の血縁が無いものの、蔣介石と陳其美は義兄弟の契りを交わしており、陳其美の兄の陳其業の子にあたる陳果夫・陳立夫も特に秘密警察や特務関係で力を振るった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E5%A4%A7%E5%AE%B6%E6%97%8F 
 但し、四大家族の筆頭格の蒋介石家は軍閥でもあった点で、清までの「富商たち」とは一味違っていましたが・・。(太田)

 他方、西欧の場合、家系と職能は不可分に結びつき、しばしば世襲的に継承されていた<(注102)>(この点において、日本は西欧と類似する部分が大きい<(注103)>)。

 (注102)古代ローマもブリトン人時代の大ブリテン島も均分相続制だったが、ゲルマン化以降長子相続制になった。
https://jmedia.wiki/%25E5%258F%25A4%25E4%25BB%25A3%25E3%2583%25AD%25E3%2583%25BC%25E3%2583%259E%25E3%2581%25AE%25E7%259B%25B8%25E7%25B6%259A%25E6%25B3%2595/Inheritance_law_in_ancient_Rome
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E5%AD%90%E7%9B%B8%E7%B6%9A
 (注103)「家督を相続するもの,すなわち嫡子が,所領を単独で相続する制度。中世成立期の武士階級は,惣領制による一族の所領の共同知行を原則としており,その所領相続も一族間の分割相続が行われていた。しかし,鎌倉時代中~末期になると,有力な庶子家が自立度を強めるとともに,農民層の成長,分業流通の発展に規定されて,在地に密着した地域支配が指向されはじめる。鎌倉幕府もまた,惣領制を維持しながらであるが,蒙古襲来などの契機を軸に,これら庶子家を把握する方向をとりはじめた。南北朝時代になると,たとえば備後の山内首藤氏は元徳2 (1330) 年,安芸の熊谷氏は正平3=貞和4 (48) 年,同国竹原の小早川氏は正平 18=貞治2 (63) 年に嫡子単独相続となるといったように,一族による所領の分有と共同知行は放棄され,嫡子が所領を単独で知行するようになった。これに伴って,小さな庶子家の家督への家臣化の傾向がみられるようになり,家臣団構成が変化し,家督=嫡子の権力の強大化がはかられるようになる。また,これによって,女性の財産権が否定され,化粧料という名目のわずかな土地などしか譲与されなくなり,女性の社会的地位の決定的な低下を招くにいたるのである。」
https://kotobank.jp/word/%E5%AB%A1%E5%AD%90%E5%8D%98%E7%8B%AC%E7%9B%B8%E7%B6%9A-96670

 片や家産均分と多角経営を軸とする流動的な非身分社会、片や嫡子単独相続と家職一体を軸とする固定的な身分社会。
 この社会構造の対照性は、世界史上における近代化の「分岐」を考えるうえで極めて重要な観点である。」(145~146)

⇒西欧と日本では、封建時代があり、その時代は、相続の観点からは、女性差別、長子への特権付与、といった(それより前やそれより後の時代に比して)反動の時代であったわけですが、それが故に、西欧と日本は支那に比して産業社会化において比較優位に立つことができた、という逆説が成り立ちそうです。(太田)

(続く)