太田述正コラム#15369(2025.12.13)
<皆さんとディスカッション(続x6464)/大分岐・・準備開始の時期及び地域、並びに、開始の時期及び最初の相手地域>
<E4AuIl9/>
≫<その理由は単純にして明白。↓>
「米国防総省の機密報告書、中国の台湾侵攻時「米軍は中国に毎回敗戦」・・・」
https://japanese.joins.com/JArticle/341973 ≪(コラム#15365。太田)
人民解放軍の軍艦を核攻撃するというのはどうなってしまったの?
飛行機が迎撃される等で効果的な打撃が与えられないということで良いのかな?
それとも「一旦海戦は無視して上陸を許したら」という想定だと「バカスカ米兵は死ぬし負ける」なのかな?
もしくは人民解放軍に対して一方的に打撃を与えられるけど、経済的な<策>で撤退して敗北?
<太田>
中共は、核時代である以上、台湾に上陸作戦を行って占領することは半永久的にできないけれど、その気になれば、既に現状でも、台湾軍を支援する米軍に対しても、そしてもちろん台湾軍そのものに対しても、大打撃を与えることはできる、ってことは、その結果、台湾を事実上海上封鎖することもできるってってことを意味するから、貿易立国である台湾
https://www.globalnote.jp/post-1614.html
を降伏させ、併合することだってできるってこと。
ということは、事実上、台湾の海上封鎖を宣言するだけで台湾を降伏させることができる可能性が大だってことだ。
じゃ、なぜそうしないかって?
現時点じゃあ、台湾を得る種々のメリットよりも、欧米との間で、ロシアのソ連時代や現在のように、冷戦状態に入るデメリットの方が、依然、圧倒的に大きいからさ。
(ロシアとつるんだとしても、欧米(プラス米属国日本)、との科学力格差は致命的だ。)
なお、上陸作戦はできなくっても、支援米軍と台湾軍に大打撃を与えた後、空挺部隊を使った着陸作戦はできるんじゃないか、と、思うかもしれないけど、空挺部隊の装備なんて、(ある程度の重装備なら別途輸送機で運んで空挺降下させて使うこともできるが、いずれにせよ、)たかが知れており、空爆だけで、台湾海空軍と違って、有事には更に台湾島内に分散することとなる台湾陸軍を壊滅させるなんてことはほぼ不可能だから、着陸作戦は決行できないだろう。
繰り返すが、台湾を占領することはできないってこと。
とまれ、米国は既に台湾を守れなくなってんだから、台湾国内でもこういうことになってるってことさ。↓
Distrust of Trump, fear of China propel new political force in Taiwan–The Kuomintang party’s new leader, Cheng Li-wun, is pushing much closer ties with China, reflecting growing fears Washington would not help in a war over Taiwan.・・・
https://www.washingtonpost.com/world/2025/12/12/us-taiwan-china-relations-uncertainty-kmt/
<kPfJoIfA>(「たった一人の反乱(避難所)」より)
≫人肉ハムをイランの豚のハムだという触れ込みで売ったら大当たり、というこの映画、まんざらウソついてないのね、という結論に≪
恐らくこの映画の元ネタになったフリッツ・ハールマンは犠牲者の肉を闇市場で缶詰の豚肉として売り歩いたとされている(これを裏付ける証拠は無い)。
またカール・デンケは1921年から人肉しか口にしていなかったと語った。
まあ味付けすれば通常の肉と対して変わらないのかも。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%AA%E3%83%83%E3%83%84%E3%83%BB%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%9E%E3%83%B3
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%87%E3%83%B3%E3%82%B1
⇒ダンケ。(太田)
<UXADenz.>(同上)
竹取物語と紫式部
https://note.com/momokan_create/n/nc26f90abb306
おとぎ話『かぐや姫』が「はしょってる」、『竹取物語』の幕切れとは?
https://tenki.jp/lite/suppl/itovich/2016/08/07/14371.html
太田さんの『竹取物語』解釈より「死んだ娘への思慕である」という意見の方が説得力がある。年を取ってから生まれた末娘の死が紀貫之に『土佐日記』と『竹取物語』を書かせたのだ。順序から考えても説得力がある。↓
土佐日記:『田辺聖子は、娘を亡くした悲しみを書くにあたって、「男が日記を書く場合、普通は漢文です。しかし漢文では、「泣血(きゅうけつ)」のような固いことばでしか悲しみを表現できません。自分の悲しみ、細やかな心のひだ、そういうものでは書き尽くせない。そう思ったときにおそらく、貫之は仮名で書くことを思いついたのです」』
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%9F%E4%BD%90%E6%97%A5%E8%A8%98
⇒読者投稿が活発だった頃はオフ会前日や当日は投稿がまずなかったものだが、準備に大変な私への配慮だと勝手に思ってたけれど、投稿が少なくなった現在、逆に投稿が立て込んだってのは、現在の読者諸氏の大部分が、オフ会「講演」原稿になど関心がなくなっちまった人達だってことなのかねえ。
で、『竹取物語』についてだが、「死んだ娘への思慕」物語であるってのはシチュエーションで、私が指摘した騎馬遊牧民の脅威ってのはこの物語のテーマだとすりゃあ、全く矛盾しないのでは?(太田)
<太田>
安倍問題/防衛費増。↓
<その問いを、岸カルトの御用紙として始まった「大昔の産経新聞は無理でも今の産経新聞なら<岸カルト批判へと>変えられたのではないか」と、安倍チャン批判ができるか、胸に手を当てて考えてみな。未だに安倍チャン批判すら封じてるチミらには全くできねーだろ。しかも、産経新聞が今更安倍チャン批判をしたって、なーんも変わらんが、山上サマは、安倍チャン除去に成功し、その結果、日韓での旧統一教会撲滅に成功しつつあるんだぜ。恥ずかしいと思え。↓>
「親は無理でも自分は変えられたのではないか 安倍晋三元首相銃撃裁判・・・」
https://www.sankei.com/article/20251213-D2QFOZUQQJKRTIWBERLQQF4HXE/
<カリョーの習ちゃんへの身も蓋もないゴマスリ続く。↓>
「日本の軍事拡張の動きがもたらす危険性とは?・・・」
http://j.people.com.cn/n3/2025/1212/c94474-20401765.html
「外交部「日本軍国主義は全世界の人々の敵」・・・」
http://j.people.com.cn/n3/2025/1212/c94474-20401844.html
「日本の軍事拡張の動きがもたらす危険性とは?・・・」
http://j.people.com.cn/n3/2025/1212/c94474-20401765.html
「北海道をソウルに…雪に覆われた中国観光地、日本語看板を撤去しハングルに変更・・・」
https://japanese.joins.com/JArticle/342086
「中国、今度は別の理由で国民に日本渡航自粛呼び掛け・・・」
https://www.recordchina.co.jp/b966019-s25-c30-d0192.html
<これだけは、チョイ、ささるけどね。↓>
「731部隊の元隊員が残忍な人体実験の詳細を証言する映像が公開・・・」
http://j.people.com.cn/n3/2025/1212/c94475-20401752.html
<「に資するものではない」と「を脅かすものだ」とは雲泥の違い。トラとヘグセスの間に違いはないで。↓>
「中日葛藤にもかかわらず、トランプは“中立”…米日国防相だけが「懸念」メッセージ・・・」
https://japanese.joins.com/JArticle/342106
ウクライナ問題/ガザ戦争。↓
なし。
妄想瘋癲老人米国。↓
<米国が全面協力したのならそんな心配は無用だったのでは?↓>
Machado escape planner feared US strike on her vessel as it fled Venezuela・・・
https://www.theguardian.com/world/2025/dec/12/maria-corina-machado-escape-venezuela-us-norway
<こりゃ、気が付かなんだ。
キューバにまで手を出すのはやめとき。↓>
Behind the Seized Venezuelan Tanker, Cuba’s Secret Lifeline–Firms with ties to Cuba are getting a larger share of Venezuelan oil exports, as the island’s security agents boost President Nicolás Maduro’s defenses.・・・
https://www.nytimes.com/2025/12/12/world/americas/venezuela-cuba-oil-tanker.html
For Rubio the Cuba Hawk, the Road to Havana Runs Through Venezuela・・・
https://www.nytimes.com/2025/12/12/us/politics/rubio-cuba-venezuela.html
<北東アジアと違って中東じゃあ、米国は軍事的優位にあるからこそ、トラは、タリバん治下のアフガニスタンのバグラム基地跡にまで食指を伸ばしてるわけだ。↓>
Trump wants Bagram back. Satellite images show how the Taliban are using it.・・・
https://www.washingtonpost.com/world/interactive/2025/bagram-air-base-afghanistan-trump/
それでは、その他の国内記事の紹介です。↓
福間さん、世界に鳴り響く。↓
Japanese chess player calls out association’s pregnancy bias・・・
https://www.bbc.com/news/articles/cvg8mkz227zo
日・文カルト問題。↓
<文カルト健在?↓>
「少年院上がりが李舜臣や安重根と同じ? 俳優チョ・ジヌンの美化ポスターに韓国ネット騒然・・・」
https://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2025/12/12/2025121280012.html
<日韓交流人士モノ。↓>
「「観月堂」を自己負担で韓国に返還した高徳院・佐藤孝雄住職に大統領表彰 ・・・」
https://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2025/12/12/2025121280010.html
<どーなっとんや。↓>
「駐日韓国総領事館10カ所のうち5カ所、半年以上トップが空席・・・」
https://www.donga.com/jp/article/all/20251212/6008185/1
<ヨユーの韓国。日本の自衛隊と違って、朝鮮国連軍の一員になってる韓国軍、を通じて、韓国は、事実上NATOに加盟してるからなあ。↓>
「台湾有事なら荒波押し寄せる…安保で同舟の韓日台、韓国の悩み [新JAKOTA時代]・・・」
https://japanese.joins.com/JArticle/342102
<本件に関心を示すことを許す。↓>
「青森県沖で再びマグニチュード6.7の地震…津波注意報発令・・・」
https://japanese.joins.com/JArticle/342105
<報道、ありがとう。↓>
「米、対中牽制の半導体・AI同盟「パックスシリカ」発足…韓日など8カ国結集・・・」
https://japanese.joins.com/JArticle/342114
何度も繰り返すが、どうして、まだ、パキスタンなんてけったいな国が存続しとんのかしら?↓
A new Bollywood film is dividing opinions in India and Pakistan・・・
https://www.bbc.com/news/articles/c0q5pygel84o
中共官民の日本礼賛(日本文明総体継受)記事群だ。↓
<日中交流人士モノ。↓>
「<卓球>張本智和、勝利後のパフォーマンスは中国選手への憧れ=中国ネット「かわいい」「素直な子」・・・」
https://www.recordchina.co.jp/b966080-s25-c50-d0052.html
<ご愛顧に深謝。↓>
「「春節旅行はやっぱり日本」との・・・中国のSNS・小紅書(RED)<上の>・・・投稿に中国ネットで共感続々「完璧」「いろいろ調べて結局日本」・・・」
https://www.recordchina.co.jp/b966092-s25-c30-d0052.html
<変わらずご愛顧の人もおり、深謝。↓>
「中国人観光客減、日本の百貨店にすでに影響か・・・中国メディアの鳳凰網・・・中国ネット「来ないでと言ってたろ」「正直言うと…」・・・」
https://www.recordchina.co.jp/b966076-s25-c30-d0052.html
一人題名のない音楽会です。
ドヴォルザーク(Antonín Dvořák)の小特集をお送りします。
Romance for piano and violin, Op.11 弦楽四重奏:Bamberg String Quartet 12.46分
https://www.youtube.com/watch?v=XZTeavJ9frA&list=RDXZTeavJ9frA&start_radio=1
Serenade for strings in E major 指揮:Neville Marriner 室内楽:Academy of Saint Martin-in-the-Fields 6.35分
https://www.youtube.com/watch?v=bRrP3ESM6sQ
Silent woods チェロ:Yo-Yo Ma 指揮:Seiji Ozawa オケ:Boston Symphony Orchestra 6.59分
https://www.youtube.com/watch?v=R6z4hA3JzZ4&list=RDR6z4hA3JzZ4&start_radio=1
8 Humoresques, Op. 101, B. 187: No. 7, Poco lento e grazioso チェロ:YO YO MA ヴァイオリン:ITZHAK PERLMAN 指揮:小澤征爾 オケ:Boston Symphony Orchestra 3.39分
https://www.youtube.com/watch?v=JZnzjzjYkK0
–大分岐・・準備開始の時期及び地域、並びに、開始の時期及び最初の相手地域–
1 プロローグ
2 本論
(1)これまでの私のアングロサクソン論の核心箇所の復習(暫定的コメント付き)
(2)イタリアの繁栄と停滞
ア イタリアの繁栄
イ イタリアの停滞
(ア)科学の弱体
(イ)非統一
[中世イタリアの世界への「言語」的貢献]
(ウ)総括
[黒死病とイタリア、イギリス]
一 始めに
二 黒死病
三 イタリア
四 イギリス
五 感想
[ブリトン人と縄文人]
一 類似点
(一)人間主義
ア ブリトン人
イ 縄文人
(二)匠の精神
ア ブリトン人・アングロサクソン
イ 縄文人
ウ 各論
(ア)庭園
・イングリッシュガーデン(English landscape garden)
・日本庭園
(イ)妖精/お化け
・妖精(fairy)
・お化け
(ウ)祖先崇拝行事
・ハロウィン
・お盆
(エ)円い結界の存在
・ケルト十字
・茅の輪
(オ)口伝の伝統
二 相違点
(一)時期
(二)社会
ア ブリトン人
イ 縄文人
(三)戦争
ア ブリトン人
イ 縄文人
(3)大分岐の起点・・アングロサクソン文明の成立
[ヴァイキング]
[私の言う弥生人の生誕について]
一 ゲルマン人(第一弥生人)の生誕
二 騎馬遊牧民(第二弥生人)の生誕
三 総括的感想
[十字軍のヴァイキング性]
[欧州外への進出を開始した欧州勢力のヴァイキング性]
[巡幸王権(移動宮廷=Itinerant Kingship)]
3 エピローグ
1 プロローグ
私が全く新しい日本史、ひいては世界史を自ら創り出す必要に迫られた理由は、既存の日本史ひいては世界史が私の個人的疑問に碌に答えてくれなかったからだ。
個人的疑問とは、第一に、幼少時の1950年代のエジプト滞在中、日本とはいかなる国か、を、どうしてうまく説明できないのか、というものであり、次いで、第二に、防衛庁(当時)に入庁したところ、それまでに『菊と刀』を読んでいて、というよりは、そのタイトルを通じて、日本は二元論的原理で成り立っている社会である、と、漠然と思っていたのに、1970年代の防衛庁/自衛隊においてすら、「刀」、つまりは「武」がほぼ壊滅状態であることに驚き、一体どうしてそんなことになってしまったのか、というものだ。
そして、第二の疑問は第一の疑問を解く鍵であることに気付く。
やがて、それは、「武」が、トップダウンで身にまとわされた借り着のようなものだったからで、だからこそそんなものは簡単に脱ぎ捨てられてしまったのではないか、一体どういった経緯でそんなことになったのだろうか、という、具体的な疑問へと私を誘った。。
そして、防衛庁勤務は、この私の個人的な実存的疑問への解答を得るために不可欠な認識と経験を私に与えてくれることになる。
それは、軍事が歴史を動かす最も主要なファクターであるという認識、と、「秘」密は(暴露に対するペナルティの存在やその程度いかんに関わらず)、重要なものであればあるほど、意外に遵守されるものである、という経験、だった。
前者に関しては、比較的良く知られているところの、ハードたる技術面だけではなく、ソフトたる制度面・・近代国家制度全般を含む・・においても言える、ということを、私自身が仕事上、(そんなことまでは全く求められていなかったけれど、)色々勉強することを通じて認識するに至ったものだ。
また、後者に関しては、一例を挙げれば、世界中の海底に米国の、潜水艦探知のためのケーブル、が張り巡らされていて、日本が、タテマエだけ自衛隊が単独で運営する形をとって、このケーブル網の北西太平洋(オホーツク海、日本海、東シナ海を含む)部分を日本の国費を使って担当させられていること、と、このケーブル網が実際にどのように展張されているか、という秘密だ。
これらを踏まえ、私は、まず、既存の世界史・・但し、ローマ/漢の盛時より後の世界史、に係る教科書的説明・・が、(私にとって)役に立たないのは、イギリス人も、イギリス人以外の欧州人も、ひいては全世界の人々もが、イギリスと欧州とが同じ文明に属するという、客観的には誤った前提に立脚した世界史の見方を当然視させられてきたからであることに気付いた。
(イギリスと欧州とが同じ文明に属していないということには、私は、「スタンフォード大留学中の1975年の春に車でメキシコ旅行をした時、サンディエゴから、・・・母国がそれぞれイギリスとスペインである<米国とメキシコの>国境の検問所を通過したら、突如、「片道六車線のハイウェーが魔法のように消え失せ、片道二車線のでこぼこ舗装の道路に変わってしまったというショック<を経験した後、>少し行くと、工事中の区間となり、何と舗装道路どころか砂利道になってしまったのです。道の両脇に立ち並ぶ建物も小さく安普請で薄汚れた感じで、何もかもが米国とは様変わり<し、>缶入りのコーラが姿を消し、瓶詰めコーラしかなくなったことにもびっくりし・・・た」(コラム#131)瞬間に気付いた。
なお、その後、「<まだ>スタンフォード大学に留学していた1976年<の>夏に、車でバンクーバー、ジャスパー、バンフ、と<カナダの>観光地を回った」(コラム#641)折に、コーラの缶が小さいのになっていたことから、カナダ(≒英国)と米国もまた、文明が少々異なるのではないかと思い始め、その折、メキシコではコーラは瓶のであったことを思い出したものだ。
こういったことを踏まえ、後に、米国は、イギリス(アングロサクソン)文明と欧州文明とのキメラ文明の国である、という認識に私は到達することになる。)
そうであるとすれば、我々には偽りの欧州史しか与えられていないのであって、正しいイギリス史も欧州史も、ひいては正しい世界史も、まだ与えられていない、ということになる。
そして、そんなことになってしまったことの元凶は、ドーバー海峡の向こう側から野蛮が始まるという認識(コラム#省略)を抱きつつも、イギリスのエリート達が、自分達イギリス人が、傲慢だ、独善だ、と袋叩きにあうことを避けるために、欧州大陸の西欧諸国を自国の風よけに使うこととし、あえて「真実」であるところの、イギリス(アングロサクソン)文明と欧州文明の異質性、及び、前者の後者に対する優位、なる「秘」密を明かさないようにしてきたこと、そして、西欧諸国のエリート達も、そのプライドが邪魔をして、意識的無意識的にイギリスと自分達の国が同じ文明に属すると思い込もうとし、実際思い込んできたからだ、と、考えるようになった。
次いで、私は、自分にとって日本史の教科書が役に立たないのは、日本史が天皇家や近衛家等のエリート達によって、「秘」密を守るために口伝で家の代々の筆頭者に引き継がれていくところの、家論、に基いて上から推進されてきた可能性が高いにもかかわらず、この可能性が無視されてきたところにある、ということに気付いた。
(つい最近、近松茂矩が1764年に『円覚院様御伝十五ヶ条』の中で、尾張徳川家に、当時の徳川本家の家論に真っ向から背馳する家論が存在し、それが口伝によって、代々の藩主が伝えてきたことを明かしている(コラム#15215)ことを知った。
可能性があるどころか、そうだった、ということが、粗忽者が一人いてくれたおかげで、裏付けられたわけだ。)
とはいえ、イギリス史も日本史も、世界史の一部に過ぎないというのに、どうして世界史の説明全体が極めて出来の悪いものになってしまうのだろうか?
それは、私見では、世界史の中の、19世紀までの大分岐の時代の世界史、と、20世紀からの大分岐解消の時代の世界史、の中心的推進国が、それぞれ、イギリスと日本、であるからだ。
そして、イギリスと日本が、かかる中心的推進国となったことには、後述するように、両者が非常に似通った側面があることも無縁ではないところの、必然性、があったのだ。
(なお、それはそれとして、日本と欧州(西欧)にも、イギリスを含む世界の他の地域が持ち合わせていない、似通った側面がないわけではない。↓
「西欧と日本<と>では、封建時代があり、その時代は、相続に関<する>、女性差別、長子への特権付与、といった(それより前やそれより後の時代に比して)反動の時代であったわけ<だ>が、それが故に、西欧と日本は支那に比して産業社会化において比較優位に立つことができた、という逆説が成り立ちそう<だ>。」(コラム#15132)
しかし、これは、全く別の話だ。)
日本の方については、前回の私のオフ会「講演」原稿(コラム#15215)を参照してもらうとして、今回は、イギリス(アングロサクソン)の方について、既にこれまで縷々述べてきたところ、大分岐という、今回のテーマに関係している部分を中心に、修正を施しつつ、更に深く掘り下げたものだ。
2 本論
(1)これまでの私のアングロサクソン論の核心箇所の復習(暫定的コメント付き)
「後にアングロサクソンと呼ばれることになったところの、イギリスに移住・侵攻したゲルマン人は、西欧に移住・侵攻したゲルマン人とは違って、ローマ文明の影響を殆ど受けず、ゲルマン人としての純粋性を失わなかった人々であると私が考えている(注1)ことは、ご承知の方も多いと思います。
(注1)これは人種的な純粋性を保ち続けた、という意味ではない(コラム#461、482参照)。
「では、そのゲルマン人とは、どのような人々だったのでしょうか。
私はかつて(コラム#41で)、タキトゥスの「ゲルマーニア」(岩波文庫)の中の以下のようなくだり・・「人あって、もし・・ゲルマン人・・に地を耕し、年々の収穫を期待することを説くなら、これ却って、・・戦争と[他境の]劫掠<のために>・・敵に挑んで、[栄誉の]負傷を蒙ることを勧めるほど容易ではないことを、ただちに悟るであろう。まことに、血をもって購いうるものを、あえて額に汗して獲得するのは<懶>惰であり、無能であるとさえ、彼らは考えているのである。」(77頁)・・を引用して、「これは、ゲルマン人の生業が戦争であることを物語っています。つまり、戦争における掠奪(捕獲)品が彼らの主要な(或いは本来の)生計の資であったということです。」と指摘したことがあります(注2)。
(注2)戦争にでかけていない時、つまり平時においては、男性は「家庭、家事、田畑、一切の世話を、その家の女たち、老人たち、その他すべてのるい弱なものに打ち任せて、みずからはただ懶惰にのみ打ち暮らす。」(79頁)というメリハリのきかせ方だった。
ゲルマーニアには、「彼らは、公事と私事とを問わず、なにごとも、武装してでなければ行なわない。」(70頁)というくだりも出てきます。
つまり、ゲルマン人の成人男性は全員プロの戦士であったわけです。
しかも、以下のくだりからも分かるように、ゲルマン人の女性もまた、その意識においては男性と全く同じでした。
「妻・・らはまた、・・戦場に戦うものたち(夫や子息たち)に、繰りかえし食糧を運び鼓舞・激励をあたえさえする・・。」(53頁)
戦争が生業であったということは、ゲルマン人はハイリスク・ハイリターンを求める人々(リスク・テーカー=ギャンブラー)であったということです(注3)。
(注3)「彼らは・・賭博を・・あたかも真摯な仕事であるかのように行ない、しかも・・最終最後の一擲に、みずからの自由、みずからの身柄を賭けても争う・・。」(112頁)
注意すべきは、ハイリスクであるとはいえ、戦争は、それが生業である以上、合理的な経済計算に基づき、物的コストや自らの人的被害が最小になるような形で実行されたであろう、ということです。
⇒本来のゲルマン人にも、弥生性度にバラツキがあったことを無視している。(太田)
ここで、女性も戦場に赴いた、という点はともかくとして、このようなゲルマン人と似た特徴を持った民族なら、例えば、モンゴル等の遊牧民を始めとしていくらでもある、という反論が出てきそうですね。
それはそうなのですが、ゲルマン人がユニークだった点が二つあります。
その個人主義と民主主義です。
「彼らはその住居がたがいに密接していることには、堪えることができない・・それぞれ家のまわりに空地をめぐらす。」(81~82頁)、「蛮族中、一妻をもって甘んじているのは、ほとんど彼らにかぎられる・・。・・持参品は・・夫が妻に贈る・・。妻はそれに対して、またみずから、武器・・一つを夫に齎す。」(89~90頁)が個人主義を彷彿とさせる箇所です。
また、「小事には首長たちが、大事には・・[部族の]<成人男子たる>部民全体が審議に掌わる。・・最も名誉ある賛成の仕方は、武器をもって称賛することである。・・会議においては訴訟を起こすことも・・できる。・・これらの集会においては、また郷や村に法を行なう長老(首長)たちの選立も行なわれ・・る。」(65~69頁)のですから、古典ギリシャのポリスのそれ並に完成度の高い直接民主制であったと言えるでしょう。
以上をまとめると、ゲルマン人は、個人主義者であり、民主主義の下で、集団による戦争(掠奪)を主、家族単位による農耕(家畜飼育を含む)を従とする生活を送っており、合理的計算を忘れぬギャンブラーであった、というわけです。
そして以上は、アングロサクソンの属性でもある、ということになるのです。」(コラム#852(2005.9.5))
⇒ゲルマン人の印欧語族中の位置づけが抜け落ちている。
また、ゲルマン人部族民集会⇒ヴァイキングThing➡アングロサクソンWitan⇒ノルマンコンケスト後のCuria Regis➡マグナカルタ後のCuria Regis➡議会(Parliament)、という発展において、最初の「➡」において、直接民主制が、日本の平安時代摂関期の陣定
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%A3%E5%AE%9A
的な君主の諮問機関に堕したのが、マグナカルタ後のCuria Regisにおいて君主に対する拒否権を有するに至り、地区代表たる非直接受封者が招集されるところの、間接民主制の議会が、イギリスで世界で初めて生まれたこと、そしてかかる発展がヴァイキング起源諸国においてすら生じなかったこと、の指摘もまた抜け落ちていた。(太田)
「今から1900年以上前の1世紀末に、タキトゥスによって描写されたゲルマン人の特徴が、仮に5世紀にイギリスに移住・侵攻したゲルマン支族たるアングル人・サクソン人・ジュート人にそのまま受け継がれていたとしても、現在のアングロサクソン(注4)にまでそのまま受け継がれているという保証がどこにあるのか、と首をかしげる人もあることでしょう。
(注4)ゲルマン人たるアングル人・サクソン人・ジュート人と基本的にブリトン人(ケルト人)であるアングロサクソンとは、人種的に全く異なる(コラム#461、482)。また、米国は人種のサラダボールであり、米国においてアングロサクソンは今や、人種的には少数派にすぎないことはご存じの通りだ。にもかかわらず、米国は、まぎれもないアングロサクソン文明に属する国家なのだ。
そういう人のためにも、再度ゲルマーニアから引用することにしましょう。ここは、ゲルマーニアで最も有名なくだりなのですが、うっかり引用し忘れるところでした。
「ゲルマーニア族は、・・[共和制時代の]ローマ国民より執政官の軍を一時に五つ、[帝政時代にはいっては]カエサル皇帝・・からさえ、・・三つの軍団を奪ったのである。・・ゲルマーニア族ほど絶えずわれわれの緊張を惹き起こしたものはなかった。――これもひとえに、ゲルマーニア族のもつ自由の意気と精神が、・・強烈であったためにほかならない。」(169頁)
このゲルマン人の「自由の意気と精神」、及びそれと密接な関わりのあるところの「戦争における無類の強さ」、についてのくだりは、あたかもタキトゥスが、20世紀初頭に世界史上最大の帝国を築きあげ、21世紀に入った現在において、世界に覇を唱えるに至った現在のアングロサクソンについて、語っているかのようではありませんか。
⇒繰り返すが、本来のゲルマン人にも、弥生性度にバラツキがあったことを無視している。(太田)
これで少しは納得されたでしょうか。
1世紀のゲルマン人の特徴=5世紀のアングル人・サクソン人・ジュート人の特徴=アングロサクソンの特徴、であることを(注5)。
(注5)西ローマ帝国に侵攻・移住してこれを分割支配したゲルマン人は、ローマ化して・・ローマ法を採用して・・旧ローマ帝国臣民並びに市民の上に君臨する王族ないし貴族階級となり、「自由の意気と精神」を失ってしまうが、ずっと以前にローマ勢力が撤退していたイギリスに侵攻・移住したゲルマン人(アングル人・サクソン人・ジュート人)は、欧州時代に培ったコモンロー(実体的・手続き的に「自由の意気と精神」を体現化した慣習法体系。コモンローについては、まだ、私が「アングロサクソン=ゲルマン人」を当然視していた頃に書いたコラムだが、コラム#80参照)を持ち込み、原住民のブリトン人をゲルマン化し、ここにゲルマン人の「自由の意気と精神」と「戦争における無類の強さ」を忠実に受け継いだアングロサクソンが誕生する。唯一の変化は、アングロサクソンの社会単位の規模がゲルマンの社会単位に比べて大きかったことから、会議(議会)制度は残ったものの、「自由」にとって脅威と考えられるに至った民主主義は放棄されたことだ。アングロサクソンが再び民主主義化するのは、19世紀以降だ(コラム#91)。
⇒ここは、私の認識不足であり、民主主義は直接民主主義と捉えられるべきである以上、イギリスの間接民主主義は、男女普通選挙が実現されたとしても、民主主義とは言えないのだ。(太田)
その後も、アングロサクソンは、11世紀(のバイキングの巨頭ウィリアムによるイギリス征服)に至るまで、絶えることなく、これまた純粋なゲルマン人であるバイキングの侵攻・移住にさらされ続けることによって、「自由の意気と精神」及び「戦争における無類の強さ」を注入され続けます。
⇒むしろ、イギリス人(アングロサクソン)はほぼヴァイキングである、と言っていいと今や思うに至っている。(太田)
それからのアングロサクソンの膨張の歴史はよくご存じでしょう。
アングロサクソンはまず、欧州(フランス等)への侵攻・移住に乗り出しますが、15世紀にフランスに敗れ、その試みは一旦挫折します。しかし、16世紀からは目を欧州から世界に転じ、全世界への侵攻・移住を開始し、20世紀に至って、ついに欧州を含め、全世界を手中に収めるのです。
言うまでもなく、このアングロサクソンの世界支配を担保しているものは軍事力です。
そして、先の大戦後、米国が、世界のどこでも戦略核兵器で攻撃する能力、並びに世界のどこにでも軍事力を投入する能力、を持つに至ったことでアングロサクソンの世界支配が完成したのです(注6)。」(コラム#854(2005.9.7))
(注6)戦後、米国が全世界をいくつかの地域に分割し、それぞれの地域に、太平洋軍等の統合地域軍を割り当てた時点で、アングロサクソンの軍事力による世界支配が形式的に完成し、ソ連の崩壊によって、実質的にも完成した。
⇒画竜点睛を欠いているのは、ヴァイキングがゲルマン人の中でも特異な人々であって、「ゲルマン人の特徴=アングロサクソンの特徴」が、より的確には、「ヴァイキングの特徴=アングロサクソンの特徴」である、というところまで踏み込んでいないことだ。(太田)
「私のアングロサクソン文明・欧州文明峻別論の種本がマクファーレンが1979年に上梓した「イギリスにおける個人主義の起源」(コラム#88)である(注7)とすれば、そのマクファーレンの種本が1895年にメイトランドが上梓したHistory of English Law before the Time of Edward Ⅰ であったことが分かりました。
(注7)口幅ったいが、私のオリジナリティーは、この両文明峻別論を援用しつつ、欧州文明の特徴を掘り下げた点にある、と自分では考えている。
さて、これまで読んだマクファーレンの本では、アングロサクソン文明の起源が明確ではありませんでしたが、メイトランドが、タキトゥスの「ゲルマニア」等を引用して(PP41等)ゲルマン人起源論を主張していたことを知りました(注8)。
(注8)私が、「ゲルマニア」を引用しつつ、先回りしてアングロサクソン文明・ゲルマン人起源論を展開していた(コラム#41、125、372、852、854、857)ことは、ちょっぴり自慢してもよかろう。しかも、メイトランドは、イギリスがアングロサクソンの侵攻以降も、何度もゲルマン系の侵攻を受けたことが、イギリスがゲルマン的純粋性を維持できた要因の一つとして挙げている・・・のを知ってまたもやびっくりした。たまたま私もおなじことを以前(コラム#854で)指摘しているからだ。
また、メイトランドが、アングロサクソン文明と欧州文明の最初の岐路について、イギリスではアングロサクソンが侵攻した時にローマ文明が拭い去られた(swept away)のに対し、欧州(フランス・イタリア・スペイン)ではゴート族やブルグンド族は侵攻先のローマ=ガリアの人々の中の圧倒的少数派に過ぎず、しかも彼らが(征服者ではなく)ローマ皇帝の家来ないし同盟者に他ならなかったことからローマ文明の法・宗教・言語が生き残った(注9)ことを挙げている(PP77)ことも知りました。
(注9)この点も私は先回りして以前(コラム#41で)指摘している。
⇒アングロサクソンが侵攻した時ではなく、ローマ軍が大ブリテン島から引き揚げた後、急速にローマ文明が拭い去られた、というのがより正確だろう。(太田)
以上は、私にとっては目新しい話ではないのですが、瞠目させられたのはメイトランドが指摘している、アングロサクソン文明と欧州文明の二回目の岐路が欧州の再ローマ化(12~16世紀)であり(PP75)、また、アングロサクソン文明で個人主義により社会が瓦解することを食い止めている大きな要素の一つが14世紀に生み出された信託(trust)(PP90)の思想である、という二つです。」(コラム#1397(2006.9.4))
⇒「アングロサクソンが侵攻した時」は、「ヴァイキングの累次の侵攻の形で」でなければならない。
また、「信託」説について、掘り下げていなかった点も問題だが、社会が瓦解しなかった最大の要素は常続的な外からの脅威の存在と間歇的に生起した戦争(への参加)であることを指摘し忘れていた。(太田)
「科学史の本に通常書かれている話とはかなり異なりますが、私は近代科学はイギリスに生まれたと考えています。しかも、ギリシャ文明が存在しなかったとしても、その上、欧州大陸が存在しなかったとしても、早晩、近代科学はイギリスに生まれたであろうとさえ考えています。
近代科学は、イギリスのコモンロー的自由の精神に育まれた経験論的伝統の中から生まれました。
そのイギリスの伝統が押しつぶされそうになった時代がありました。11世紀です。ノルマン公ウイリアムによるイギリス征服に伴い、ローマ法が移植された上、壮大にして華麗、しかし空虚な欧州大陸のスコラ神学、及びこのスコラ神学の土壌の上に咲いたあだ花である合理論がもたらされ、イギリスに押しつけられたからです。
しかし、被征服民たるイギリスのエリート達は、これに反発し、コモンロー的自由の精神とイギリス古来の天文学、博物学、史学等を中心とする実証的な経験論の灯火を守り続けました。
⇒コモンローと自由がなぜ結び付くかというと、コモンローは、法の非専門家が陪審制を通じて参加した上で法の専門家によって下された判決群が法になったものであって、法は権力者が定める制定法を意味するローマ法やこのローマ法を祖法とする大陸法(西欧法)とは、ボトムアップとトップダウンの違いがあるからだ。
なお、コモンローはゲルマン法由来であるところ、このゲルマン法を支えた法意識が、ヴァイキングを起源とする北欧諸国からさえも失われ、それが維持されたのはイギリスにおいてだけであったことを、この際、付け加えておきたい。(太田)
その代表的な人物がロバート・グロステスト(12-13世紀)です。(グロステストを始め、本稿で登場する人物は、すべてイギリス人です。)
彼は、アリストテレス等のギリシャ科学書を批判的に読解するとともに、星の輝き、音の発生、ナイル川の氾濫、雷の原因、動物の形態論等について、自らの自然観察に基づいて、次々に新しい見解を打ち出しました。彼はまた、ローマ法王の言や聖書の解説書ではなく、直接聖書そのものにあたれと主張し、法王庁の堕落を厳しく批判しました。(R.W. Southern, Robert Grosseteste, The Growth of an English Mind in Medieval Europe, 2nd edition, Oxford University Press 1992)
グロステストの経験論の継承者が、ロジャー・ベーコン(13世紀)であり、コモンロー的自由の精神の継承者がウィリアム・オッカム(13-14世紀)です。
ロジャー・ベーコンは、実験科学の創始者であり、飛行機、蒸気船や自動車の出現を予言したことで有名です。この系譜に連なるのが、経験科学方法論を完成したフランシス・ベーコン(16-17世紀)であり、近代社会科学の創始者であるトマス・ホッブス(16-17世紀)、そして近代自然科学の祖であるアイザック・ニュートン(17-18世紀)等です。
ウィリアム・オッカムは、「教皇が「異端」に陥るならば、・・その・・異端的信仰を・・信徒全員に対して強制できるから・・「異端的」教皇への抵抗<は>・・正統信仰という「共通善」・・への奉仕という・・平信徒・・の義務である」と主張し(将基面貴巳「反「暴君」の思想史」平凡社新書2002年3月145-148頁)、「スコラ・・神学体系を・・その根底から破壊し、・・宗教改革への道を開いた」(将基面 前掲書138頁)人物です。ここに宗教、イデオロギー、あるいは権力による個人の思想・信条の自由の侵害を許さない、近代自由主義思想がイギリスにおいて確立します。このように強靱な自由の環境のもとで、近代科学は育まれたわけです。
(実験科学、近代自然科学の発展をイギリスの職人的伝統が支えたということも忘れてはなりません。17世紀末から18世紀初頭にかけてイギリスを訪問した人々は、異口同音に「英国人は実に手先が器用だ。」「イギリスには職人がゴマンとおり、しかも彼らは世界のすべての国の職人の中で最も工夫に長けている。」といった評を残しています。(Joel Mokyr, The Lever of Riches, Oxford University Press 1990)) 」(コラム#46(2002.7.10))
⇒イギリスの職人的伝統のよってきたるゆえんの説明が抜けていた。(太田)
反産業主義については、コラム#81を参照のこと。
⇒決して間違っていないのだが、イギリスの反産業主義と言っても、それは、大陸の西欧諸社会と比較してそうだということであって、それでも、アングロサクソンが海を渡ってやってきた頃に比べれば、反産業主義は大幅に減衰し、減衰したまま推移して現在に至っている、ということを併せて指摘すべきだった。(太田)
豊かさについては、コラム#54、4009、4016を参照のこと。
(2)イタリアの繁栄と停滞
ア イタリアの繁栄
イギリスは、通常の時代区分でいう中世後期から、1人当たりGDPが拡大していくフェーズに入る。
このイギリスの大分岐をはっきりさせるために、中世後期からルネッサンスまで欧州文明のメンバーの中では最も栄えたイタリアをとりあげ、これとイギリスとを対比させて考察してみたい。
イタリアは、かつてローマ帝国の中心だったわけだが、その遺産のおかげで繫栄したとは必ずしも言えない。
例えば、インフラに関しては、全く引き継げなかったからだ。↓
「帝政期のローマの人口は約6000万人<(注10)>、属州は50州、常備軍が40万人という大所帯にもかかわらず、国家官僚はわずか300人ほど、公務員ですら1万人程度です。・・・
(注10)奇しくも、これは、ほぼ同時期の東の帝国の漢の盛時の人口とほぼ同じだ。
https://ancient-history-of-china.blogspot.com/2019/06/blog-post.html
国費のほとんどを占めていたのは国防費で、・・・ローマの財政の7割は国防費だったようです。・・・
ローマ<の>・・・インフラは・・・今のように国家予算で造っているのではありません。富裕層が私財で造ったり、市民が寄付を募つのって造ったりしているので、国家がインフラに責任を持つという意識も希薄でした。
富裕層の立場からすれば、新しいものを造るときには、自分の名前がついたり、記念碑が建てられたりと、自分の行為をアピールできますが、修復ではお金がかかるわりに誰も賞賛してくれません。出資に見合った名誉が得られないことにも、問題の種はあったと思います。その結果、富裕層は、積極的にインフラの補修はしていません。・・・
<こうして、>帝政末期のローマはインフラの整備、インフラの維持が限界に来ており、それがローマの体力を著いちじるしく奪っていったのです。」(木村凌二『はじめて読む人のローマ史』より)
https://hypertree.seesaa.net/article/2014-08-22.html
ローマ帝国のインフラ遺産の活用で有名なのはこのケースだが、実に18世紀にもなってからのことだ。↓
「アッピア街道<は、>・・・ローマ帝国の滅亡後、・・・永らく使用されなかったが教皇ピウス6世の命により修復され再び利用された。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%83%E3%83%94%E3%82%A2%E8%A1%97%E9%81%93
「ピウス6世(Pius VI、1717年12月25日 – 1799年8月29日)は、ローマ教皇(在位:1775年2月15日 – 1799年8月29日)。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%94%E3%82%A6%E3%82%B96%E4%B8%96_(%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%9E%E6%95%99%E7%9A%87)
しかし、ローマの、・・全域の全員なのかその中のローマ市民なのか、はたまた、ローマ市の住民なのか、不明ながら、・・男性識字率の高さには驚異的なものがあり、かかるソフト・インフラを、その後のイタリア住民が継承した可能性は極めて高い。
生きざまは受け継がれるものだからだ。↓
「古代ローマ時代の男性の50%以上が読み書きできたとされる。平均的な識字率は5-30%以上と推定されている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A4%E4%BB%A3%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%9E
このことは、少年期を含め、二度のイタリア滞在経験を持つ、イギリスのアルフレッド大王が自国民の識字率向上に尽力したことが間接的に証明している(コラム#15320)と思うのだ。(太田)
ソフト・インフラとしてもう一つ指摘すべきは、ローマ時代以来、カトリック教会の本山がローマ市にあり、その状態が基本的に維持されたことだ。
(教会大分裂の1378年から1417年の間、ローマとアヴィニョンにそれぞれローマ教皇が立ち、カトリック教会<は>分裂し<てい>た」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%95%99%E4%BC%9A%E5%A4%A7%E5%88%86%E8%A3%82
けれど、その間も、ローマは、一応、一方の派の本山ではあった。
なお、11世紀以降の中世における歴代教皇の大半はイタリア人だ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%9E%E6%95%99%E7%9A%87%E3%81%AE%E4%B8%80%E8%A6%A7
そして、このローマ・カトリック教会が下掲のような経緯で、ローマ法の西欧における保存者となっていたところ、この教会が主導して行われた十字軍を契機にして、イスラム経由で、古典ギリシャ文化ともども古代ローマ時代のヘレニズム文化も再継受され、ローマ法の研究、活用が、(識字率が高かったこともあり、)イタリアにおいて活発化した。↓
「東ローマ帝国においては、古代ローマ帝国最後の皇帝であるユスティニアヌス帝が市民法大全を創造した。<この>ユスティニアヌス1世は・・・、古代ローマ時代からの自然法および人定法(執政官や法務官の告示、帝政以降の勅法)を編纂させ、完成した『旧勅法彙纂』を529年に公布・施行した。ついで、・・・法学者の学説を集大成させた。これが533年に公布された『学説彙纂<(いさん)>』である。これと同時に、初学者のための簡単な教科書『法学提要』も編纂させ、これまた533年に公布・施行された。このあと、新しい勅法が公布されており、かつ『学説彙纂』や『法学提要』の編纂によって、『旧勅法彙纂』を改定する必要が生じた。ユスティニアヌス帝は・・・新たに勅法の集成を命じた。これで生まれたのが『勅法彙纂』であり、534年に公布・施行された。
東ローマ帝国においては、ユスティニアヌス法典が法実務の基礎となった。レオーン3世は、8世紀前半にエクロゲーという新たな法典を公布した。
9世紀には、バシレイオス1世とレオーン6世がユスティニアヌス法典中の勅法彙纂と学説彙纂を総合的にギリシャ語に翻訳させ、バシリカ法典として知られるようになった。ユスティニアヌス法典やバシリカ法典に記録されたローマ法は、東ローマ帝国の滅亡とオスマン帝国による征服の後でさえ、ギリシャ正教の法廷やギリシャにおいては法実務の基礎となり続けた。
西<欧>では、ユスティニアヌスの権威はイタリア半島やイベリア半島の一部までしか及ばなかった<が、>東ローマ帝国が東ゴート王国を滅ぼし、わずかな間ではあるが、イタリア半島を制圧したことから、ローマ・カトリック教会がユスティニアヌス法典の保存者となった。
その他の地域では、ゲルマン諸王が独自に法典を公布し、多くの事案で、かなり長い間、ゲルマン諸部族には彼ら独自の法が適用されたが、ローマ市民の末裔には卑属法<(注11)>が適用されていた。
(注11)ローマ卑俗法(römisches Vulgärrecht)。「西ローマ帝国の滅亡後 (476) ,ゲルマン部族国家の王の支配するイタリアを中心とする西<欧>においてローマ人とゲルマン人との接触,融合によってゲルマン化したローマ法。民族大移動の結果,ローマ古典法を支えた・・・政治的,経済的体制は崩壊し,ローマ法の使命は,法学的論理の学的構成よりも,辺境地方に住むローマ住民の実際生活上の要求をいかに満たすかということに変質していった。帝国末の低俗なラテン語が衰退してロマンス語に変っていったと同じ過程をたどって,ローマ法も卑俗化し,主として慣習法の形をとって生残ることになった。ローマ卑俗法はときとしてゲルマン部族法と結合し,ローマ法の早期継受という現象を生ぜしめ,部族法の成文化,統一化を促した。」
https://kotobank.jp/word/%E3%82%8D%E3%83%BC%E3%81%BE%E5%8D%91%E4%BF%97%E6%B3%95-3189199
もっとも、それらの中にも先行する東ローマの法典の影響を確かに見て取ることができるが、中世初期には法実務に対する影響力はわずかであった。ローマ法は、教会法に影響を与えることにより細々と生き続けていた。西<欧>でもユスティニアヌス法典のうち勅法彙纂と法学提要は知られていたが、勅法彙纂は雑多な法の集合にすぎず、法学堤要は初心者向けの内容にすぎなかった(それでも当時のゲルマンの法律家のとってはその内容は難解で十分に理解できるものではなかった。)。西<欧>では、学説彙纂は何世紀もの間おおむね無視されていたが、その理由はあまりに大部で理論的に難解であったことにあり、十字軍をきっかけにヘレニズム文化がイスラムを通じて伝播されることによりようやく学説彙纂の真の価値が再発見される下準備が整った。
1070年ころ、イタリアで<ローマ法>学説彙纂の写本(いわゆるフィレンツェ写本)が再発見された。この時から、古代ローマの法律文献を研究する学者が現れ、彼らが研究から学んだことを他の者に教え始めた。こうした研究の中心となったのはボローニャだった。ボローニャの法学校は次第に<欧州>最初の大学の一つへと発展していった。中世ローマ法学の祖となったのはイルネリウスであり、難解な用語を研究し、写本の行間に注釈を書いたり、欄外に注釈を書いたりしたことから註釈学派と呼ばれた。ボローニャ大学でローマ法を教えられた学生達は、皆ラテン語を共通言語に、後にパリ大学、オクスフォード大学、ケンブリッジ大学などでローマ法を広め、西欧諸国に共通する法実務の基礎を築いた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%9E%E6%B3%95
フランスでもローマ法の活用が行われるに至ったが、叙任権闘争におけるローマ法の活用から始まり、中世を通じて、一貫して、イタリアに本山を置いたと言ってよい、ローマ・カトリック教会が、ローマ法を最も活用し続けた。↓
「『12世紀ルネサンス』<(12)>の名で知られる知的復興の波は、 13世紀に西欧各地に大学を出現させ、それまでほぼ聖職者に独占されてきた知的、文化的活動の領域を大きく広げる事となった。
(注12)「<第一の「ルネサンス」は、>学問復興の基盤<の構築であり>、<欧州>の君主政体の政治的統合と中央集権化の進展によって<なさ>れた。この中央集権化は、フランク王国のカール大帝(在位768–814、800–814年に神聖ローマ皇帝)に始まり、ラテン語・ギリシア語教育を必修とする多くの教会や学校の創設へとつながった。この動向はカロリング朝ルネサンスと呼ばれる。
第二の「ルネサンス」は、東フランク王(936–973)にして962年から神聖ローマ皇帝であったオットー1世(大帝)の治世に生じた。オットーは王国を統合し、国内の司教・大司教任命権を主張して、王国で最も高学歴で有能な層と緊密に接触した。この近接によって東フランク王国および神聖ローマ帝国に多くの改革が導入され、彼の治世はオットー朝ルネサンスと称される。
・・・12世紀ルネサンスは、中世の三つのルネサンスのうち第三にして最後のものと位置づけられる。ただし、12世紀ルネサンスは、先行するカロリング朝やオットー朝のそれよりはるかに徹底的であった。実際、カロリング朝ルネサンスはカール大帝個人に特有な側面が強く、「変わりつつある社会に施された表層」にすぎなかったとも評され、同様の指摘はオットー朝ルネサンスにも当てはまる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/12%E4%B8%96%E7%B4%80%E3%83%AB%E3%83%8D%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%82%B9
世俗権力もこの新しい流れに注目し、特に政治文化(culture politique)、政治知.science politique)と称されるものを、積極的に自らの権威確立や政策に利用していくこととなる。中でも法学-の注目とその発展は目覚しく、例えば13、 4世紀のフランス王権が、法学に精通し、その技術を基に権力者の政治的活動に参与するレジスト<(注13)>と呼ばれる人々を宮廷に集め、積極的に登用したことは良く知られているところである。
(注13)légiste。「中世フランスの法曹官僚。カペー朝王権のもとで,13世紀後半に姿を現し,14世紀前半まで顕著な役割を果たした。13世紀フランスにおける王権の強化と,法学教育・研究の発展とによって,国王の周辺に専門的法学知識をもつ官僚が集結した。法学とは,この時代にようやく体系的適用の手法を確立しはじめたローマ法学であり,慣習的封建法の圏域にいたるまで,普遍的適用を主張した。他方,王権は封建的権力分散を克服すべく,国家統合原理を求めており,とりわけフィリップ4世(在位1285-1314)は,諸政策を通じて成果を目ざしていた。以上のようなフランスの政治状況において,レジストの活動が可能かつ必要となったのである。レジストは最高法院,尚書局,財務局,大学法学部などに属し,また国王の私的執事,地方行政官ほか,多様な職務にもついた。・・・レジストは,公的法技術によって国家統合に貢献し,かつみずからは封建支配層ではなく市民階層出身であったとして,近代フランス国家の淵源をなすと,高く評価された。しかし,果たして予想されるほど緊密な集団であるか,またその活動が国王の私的利益をこえた公共的なものであるかどうかには,疑問がある。カペー朝の断絶とともに,レジストと称しうる官僚層は急速に姿を消した。」
https://kotobank.jp/word/%E3%82%8C%E3%81%98%E3%81%99%E3%81%A8-3224963
ところで、この世俗権力の動きに対し、宗教的権威である教皇は政治文化、政治知と言うものをどのように活用したのだろうか。グレゴリウス改革以降、教皇権の伸張に勤めた教皇達もまた、これらの知を自らの政策に積極的に利用した・・・。
宗教的権威である教皇にとり、神学論争が政治色を帯びることは少なくない。よって神学も時として重要な政治知となりえる。とはいえ「中世末期の教会は、托鉢修道会を除けば、神学者というより寧ろ法学者の教会であった」という言葉が意味するように、この時期、教皇権にとっても法学が最も重要であったことは否定できない。」
https://www.bing.com/ck/a?!&&p=b16129f7fe153f067cfd5f8e24bbe2b153ce0aa4b8a14b44ac9f755cb38a4cffJmltdHM9MTc2MzQyNDAwMA&ptn=3&ver=2&hsh=4&fclid=14e97463-d0d3-67d4-0bbd-61bcd1a96641&psq=%e5%8f%99%e4%bb%bb%e6%a8%a9+%e3%83%ad%e3%83%bc%e3%83%9e%e6%b3%95%e5%be%a9%e8%88%88&u=a1aHR0cHM6Ly93YXNlZGEucmVwby5uaWkuYWMuanAvP2FjdGlvbj1yZXBvc2l0b3J5X2FjdGlvbl9jb21tb25fZG93bmxvYWQmaXRlbV9pZD0xMjIwJml0ZW1fbm89MSZhdHRyaWJ1dGVfaWQ9MTYyJmZpbGVfbm89MQ
「ローマ=カトリック教会の階層制組織上の大司教・司教・修道院長など高位聖職者の任免権は、オットー大帝以来の帝国教会政策に基づき、世俗の権力である神聖ローマ皇帝(ドイツ王が兼任)が有し、下位聖職者任免権もイギリス、フランスなどの国王や領主ににぎられていた。それに対して、10世紀にクリュニー修道院から始まった修道院運動が強まるなかで、俗権による支配が教会堕落の原因であると自覚したカトリックの改革派のローマ教皇レオ9世やグレゴリウス7世によって始まった。それは聖職売買や聖職者妻帯などの堕落の要因は俗権が聖職者の任命権を持っていることにあるとおいう認識し、聖職者叙任権を教皇以下教会の手に奪回する運動として進められた。それが11世紀中頃から始まった叙任権闘争といわれる歴史的な動きであり、教皇と皇帝の政治的な対立にまで深刻化し、中世<欧州>の動きに重大な影響を与えた。
この闘争は1075年、グレゴリウス7世が神聖ローマ皇帝以下の世俗権力の聖職者叙任権を否定する決定を出してから本格化し、それに反発した皇帝ハインリヒ4世を破門としたことから起こった1077年の「カノッサの屈辱」事件で頂点に達した。このときは皇帝が教皇に謝罪し、聖職叙任権の否定を認めた上で破門を解かれたことによって教皇の優位を示そうとした。
しかしその後、ハインリヒ4世はドイツ諸侯をまとめて反撃に転じ、対立教皇を即位させてグレゴリウス7世をローマから追放し、優位を回復したが、ローマ教皇側も諸侯を味方に付けながら勢力を回復し、しばらく両陣営の対立が続いた。皇帝位がドイツ諸侯の内紛のため弱体化したこともあって、次第に教皇側が優勢となる中、1095年、クレルモン宗教会議を召集したウルバヌス2世が、聖職者叙任権を改めて否定し、同時に十字軍運動を提唱したことで、教皇の存在が際立つようになった。しかも派遣された十字軍が当初の勝利によって聖地回復を実現したことなどから教皇の権威が高まり、1122年、ヴォルムス協約が成立、皇帝が教皇の聖職叙任権を認める妥協が成立して叙任権闘争は終わりを告げることになる。」
https://www.y-history.net/appendix/wh0601-171.html
東ローマ帝国に継承されていたローマ法の遺産を、ローマ教皇は継承していた。教皇はローマ法を使って、世俗の王、皇帝たちとの、叙任権を巡る争いを、自分の有利な方に導こうとした。イタリア、ローマのアドバンテージはローマ法の継承だけには限定されない。
目を、高等教育研究に移すと、フランスとイタリア、とりわけ、イタリアにおいて、欧州で初めて、(というか、事実上、世界で初めて、知のセンターと言うべき)大学が生まれる。↓
「11世紀から12世紀の十字軍遠征の結果、東方からもたらされた都市の経済発展を背景として、<欧州>で初めて大学が成立する。最初のものは、ボローニア、サレルノ、そしてパリの各大学である。特にボローニアとパリのものは、その成り立ちに学生の組合、教師の組合と特徴があり、後年の諸大学の範となった。・・・
正確な創立年は定かでないが、すでに11世紀には法学校としてペポやイルネリウスによる市民法の教育活動が行われて<おり、>・・・1088年<が>正式な創立年<で>、アルキジンナジオ館<が>初の大學棟<であった>。創立時の背景として、1075年に始まる叙任権闘争において、ローマ教皇グレゴリウス7世が、自らの主張の裏付けをローマ法に求め、法体系の研究を強力に奨励したことが挙げられる。ボローニャ大学にはローマ法を学びに<欧州>中から学生が集まり、彼ら留学生は相互扶助や自衛を目的としたコンソルティアを結成。その後、教授契約関係に基づく教師と学生の共同体ソキエタスへと発展。この共同体は古代ギリシアのソフィストや古代ローマの弁論家における個別的な教授関係と、中世のギルド的な家族的性質の両面を持っていた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E6%B4%8B%E6%95%99%E8%82%B2%E5%8F%B2
これに加えて、イタリアの分裂状態が続いたことから、外敵との戦争だけではなく、イタリア内における「内戦」が間歇的に継続し、戦争対処のための科学技術や制度の進歩をもたらし、イタリア全体としての繁栄が維持された。
まず、分裂状態についてだが、中世において、「イタリア北部はさまざまな都市国家が乱立する状態で<あって(注14)、かつ、その中でもヴェネツィアは特殊であり(注15)、>・・・イタリア中部は・・・8世紀半ば、カロリング朝フランク王国のピピンは、イタリアのラヴェンナ地方をローマ教皇に献上した<結果成立した>・・・教皇領<(注16)>であって、>・・・南部イタリアでは、・・・ノルマン人が侵入し<て>・・・建国<した(注17)>・・・両シチリア王国がシチリア王国とナポリ王国の2つに分裂し<た状態で推移した。>・・・
<加えて、>各都市同士は、ローマ教皇を支持する教皇党(ゲルフ)と神聖ローマ皇帝を支持する皇帝党(ギベリン)の2派に分かれて争い<続けた。(注18)>
https://easy-sekaishi.com/italy/ 」
(注14)「イタリア王国(・・・ラテン語: Regnum Italiae/Regnum Italicum)はドイツ王国、ブルグント王国と共に皇帝を君主とする神聖ローマ帝国を構成した王国の一つ<として始まった>。北イタリアと中央イタリアの大部分を占め、11世紀まで首都はパヴィアだった。名目上は帝国の中核だったが実際には・・・ドイツ・・・の従属国だった。8世紀後半に成立して以来1000年以上の歴史を持つものの、独立した政体だったのは9世紀から10世紀にかけての100年足らずである。13世紀には実態が失われ、16世紀後期には王号も帝位に統合されて消滅。それでも皇帝を頂点とする封建的ネットワークは18世紀末まで維持され、「帝国イタリア」とも呼ばれた中北部イタリアは<、>ヴェネツィア共和国・教皇領・<両>シチリア王国<系2王国、>とは明確に異なる領域であった。・・・
神聖ローマ帝国の統治者としてイタリア王を兼ねるという理念を忘れたローマ王は一人もいなかった。イタリア人自身もまたローマ皇帝がカトリック世界に対する普遍的支配権を持つという概念を忘れていなかった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%BF%E3%83%AA%E3%82%A2%E7%8E%8B%E5%9B%BD_(%E7%A5%9E%E8%81%96%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%9E%E5%B8%9D%E5%9B%BD)
(注15)「伝説では、アクイレイア、パドヴァなどの北イタリアの都市の住民が、5世紀のフン族やランゴバルド人のイタリア侵攻からのこの湿地帯へと避難してくることから、452年にヴェネツィアの歴史が始まる。・・・
彼らは12のおもな島からの護民官たちを中心とした政府を組織し、アドリア海沿岸地域はもともと東ローマ帝国の支配下にあるため、名目上は東ローマ帝国に属したが、実質的には自治権を持っていた。697年、ヴェネツィア人は初代総督を選出して独自の共和制統治を始めた。これがヴェネツィア共和国の始まりである。つづく1世紀間は政府内部の不和のため不安定な政治が続いたが、外敵の脅威に対して結束し、836年にはイスラムの侵略を、900年にはマジャールの侵略を撃退した。10世紀後半からはイスラム諸国と商業条約を結んだが、これはムスリム(イスラム教徒)と戦うよりも貿易をしようというヴェネツィア人の現実的な政策によるものである。
9世紀始め、フランク王国がヴェネツィアを支配下に置こうとして軍を派遣したため、トルチェッロにいた人々はさらなる避難を余儀なくされ、現在のヴェネツィア本島へと移り住むことになった。このときにたどり着いたのが今の「リアルト地区」である。810年に東ローマ帝国・フランク王国間で結ばれた条約で、ヴェネツィアは東ローマ帝国に属するが、フランク王国との交易権も持つこととなり貿易都市への布石が置かれた。・・・
11世紀、弱体化した東ローマ帝国の要請でアドリア海沿岸の海上防衛を担うことになり、その代償として東ローマ帝国内での貿易特権を得た。・・・
1204年、第4回十字軍とともにヴェネツィア艦隊は東ローマ帝国首都のコンスタンティノープルを攻略、援助への代償としてクレタ島(ヴェネツィア領クレタ)などの海外領土を得て東地中海最強の海軍国家となり、アドリア海沿岸の港市の多くがヴェネツィアの影響下に置かれた。ヴェネツィア共和国は東ローマ帝国分割で莫大な利益を獲得し、政治的にも地中海地域でヨーロッパ最大の勢力を誇るようになった。東地中海から黒海にかけての海域が、いわば「イタリア商人の海」ともいうべき状況になったことは、同じ13世紀に、ヴェネツィアのマルコ・ポーロが黒海北岸から中央アジアを経て元へ向かうことを容易にさせた。
富裕な貴族たちは政治の支配権の獲得をくわだて、13世紀末ごろには寡頭政治が行われるようになった。13 – 14世紀には商業上の宿敵であるジェノヴァとの戦いが続いた。1378 – 81年の戦いで、ジェノヴァはヴェネツィアの優位を認めた。そのあとも侵略戦争で周辺地域に領土を獲得したヴェ」ネツィアは、15世紀後半にはキリスト教世界でも屈指の海軍力を持つ都市国家となった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A7%E3%83%8D%E3%83%84%E3%82%A3%E3%82%A2
(注16)「ランゴバルド王国を牽制したかった教皇ザカリアスは、751年に名目だけの王と成り下がっていたフランク王国(メロヴィング朝)のキルデリク3世を廃し、カロリング家のピピン3世の王位簒奪を支持してカロリング朝が創設された。本格的に教皇領が世俗の国家のように成立するのは、翌752年にこの国王ピピン3世がランゴバルド王国から奪ったイタリアの領土を寄進してからである。この時期、ラヴェンナ大司教は東ローマ皇帝の利益を代弁し、ローマ教皇と北イタリアの教会の管轄権を争っていた。ピピン3世はランゴバルド族を討伐すると、ラヴェンナを征服してローマ教皇に献じ(ピピンの寄進)、教皇の世俗的領土として教皇領が形成された。・・・
教皇は教皇国家といえるような世俗的な領土を持っていたとはいえ、基本的には教皇領も帝国の一部で皇帝から独立していたわけではない。しかし、教皇は東ローマ帝国のコンスタンティノープル総主教とは異なり、皇帝の官僚であることはなく、教皇選挙によって皇帝の承認を必要とせずに選ばれたのであって、教皇選任に対する皇帝の統制は制度としては介在することはなかった。またカール大帝が帝冠を教皇から与えられたことは、のちに世俗君主が皇帝を名乗るのに教皇の承認を必要とするという観念につながり、教皇に優位性を与える根拠となった。・・・
教皇ヨハネス12世は、教皇領拡大政策で周辺国と争いが絶えなかったが、東フランク王国の国王オットー1世に救援を要請し窮地を脱した。962年、ヨハネス12世はオットー1世にローマ皇帝の帝冠を与え(神聖ローマ帝国)、この見返りとしてオットー大帝は教皇領を保障した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%95%99%E7%9A%87%E9%A0%98
(注17)「11世紀半ば、フランスのノルマンディー地方から兄弟と共にイタリアにやってきたノルマン人の騎士ロベルト・イル・グイスカルド<(Roberto il Guiscardo d’Altavilla)>は東ローマ帝国領だった南イタリアを占領した。1071年、弟のルッジェーロ(Ruggero)1世はシチリア全島を占領した。 ・・・
1189年、シチリア王グリエルモ<(Guglielmo)>2世が後継者なく死去すると、その叔母にあたるコスタンツァ<(Costanza)>とその婿・神聖ローマ皇帝ハインリヒ<(Heinrich)>6世がはじめ後継候補となった。だが外国の支配を嫌った臣下たちは、王の従兄(伯父ルッジェーロ3世の庶子)にあたるレッチェ<(Lecce)>伯タンクレーディ<(Tancredi)>を新王に推した。皇帝の勢力に南北から挟まれることを嫌った教皇クレメンス3世もこれを支持し、タンクレーディが王位につくが、彼はまもなく1194年に死んでしまう。王位はその幼少の息子グリエルモ3世に渡ったが、皇帝ハインリヒ6世はこれに反対して侵攻、同年の内にパレルモを制圧してしまう。オートヴィル<(Hauteville)>朝はここで終焉を迎えた。
妻コスタンツァがオートヴィル家のルッジェーロ2世の娘であることによって、ホーエンシュタウフェン家の皇帝ハインリヒ<(Heinrich)>6世はシチリア王国の共同王位の座を獲得した(シチリア王としての名はエンリーコ)。だが彼はそれから間もなく、1197年に死去する。幼少の息子フェデリーコ<(Federico)>がシチリア国王となり、母コスタンツァはその摂政となったが、彼女もまた翌年世を去った。
1220年、フェデリーコは神聖ローマ皇帝フリードリヒ<(Friedrich)>2世(シチリア国王としてはフェデリーコ1世)になったが、シチリア育ちのフェデリーコはローマ王というよりシチリア王であり、ノルマン朝の後継者であった。この当時、シチリア王国は<欧州>の中でも先進的な強国と見られていた。フェデリーコはイタリア半島の支配に乗り出したり、十字軍で微妙な態度をとったり、イスラム側と和議を結ぶなどしたことにより、教皇とは激しく対立し、何度も破門を受け、対立王を立てられた。
フェデリーコの死後、シチリア王国は息子たちが後を継いだが、フランス国王ルイ<(Louis)>9世の弟でアンジュー=シチリア家の祖となるアンジュー伯シャルル<(Charles)>が教皇の要請を受けて征服した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%81%E3%83%AA%E3%82%A2%E7%8E%8B%E5%9B%BD
(注18)「北イタリアではホーエンシュタウフェン<(Hohenstaufen)>朝が積極的にイタリア政策を進めたため、これを支持する都市がギベリン<(Ghibelline)>、これに抵抗して教皇の支持を求めたロンバルディア同盟<(Lega Lombarda)>などの都市がゲルフ<(Guelph)>と呼ばれた。一般的には、貴族は皇帝派が多く、都市市民は教皇派が多かったといわれるが、単に対立勢力が皇帝派になったから教皇派になるといった例も多かった。・・・
主に皇帝派だった都市 フォルリ<、>モデナ<、>ピサ<、>シエーナ
主に教皇派だった都市 ボローニャ<、>ブレシア<、>ジェノヴァ<、>ペルージャ<、>フィレンツェ」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%95%99%E7%9A%87%E6%B4%BE%E3%81%A8%E7%9A%87%E5%B8%9D%E6%B4%BE
こういった次第で、イタリアは繁栄し、その繁栄がしばらく続くことになったと考えられる。
具体的には以下の通りだ。↓
「シチリア<には、>・・・1102年には紙の製法が伝えられた(<一般に、欧州>で最初とされるイベリア半島のシャティヴァの1144年よりも早かった)。・・・
1197年よりハインリヒ6世<(注19)>の子フェデリーコ1世(フリードリヒ2世)がシチリア王となり、当代随一の広い学識、合理性、科学的好奇心から畏敬の念も含めて「世界の驚異」と呼ばれ、のちには、その合理的思考から「王座の最初の近代人」と評価された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%81%E3%83%AA%E3%82%A2
(注19)シチリア王ルッジェーロ(ロジャー)2世の子のコンスタンツァと結婚後、シチリアに二度にわたって遠征し、シチリア王位を奪った。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%B3%E3%83%84%E3%82%A1_(%E3%82%B7%E3%83%81%E3%83%AA%E3%82%A2%E5%A5%B3%E7%8E%8B)
「アレマン人<は、>・・・「ドイツ」/「(形容詞形)ドイツの・ドイツ語・ドイツ人」を意味するフランス語の「Allemagne/allemand・Allemand」、スペイン語の「Alemania/alemán」、ポルトガル語の「Alemanha/alemão」の由来になった民族名である。・・・
紀元前後にスカンジナビア半島あるいはユトラント半島から南下し<た、いわば最初のヴァイキングの後裔である(後述)ところの、>・・・アレマン人有力貴族は、神聖ローマ帝国の部族大公としてのツェーリンゲン家のバーデン辺境伯、ホーエンシュタウフェン<(上出)>朝のシュヴァーベン公国として発展させたのである。
さらにアルザス系スイスの小貴族であり、神聖ローマ帝国・オーストリア帝国の君主となったハプスブルク家(アルザス系スイス貴族)、ニュルンベルク城伯・ブランデンブルク公・プロイセン王、さらにドイツ帝国の君主となったホーエンツォレルン家、ドナウヴェルトに起源を持つリヒテンシュタイン家も、元来はアレマン人の有力貴族であった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AC%E3%83%9E%E3%83%B3%E4%BA%BA
⇒ルネッサンスの魁が、広義のヴァイキング(アレマン人)(後述)と第三次ヴァイキング(ノルマン人)(後述)の交錯によって、南イタリアで始まった、という感があるが、その後、シチリア王国が南北に分裂しても、比較的強国群として安定的に推移したことが、その後の南イタリアの後進地化をもたらした、と、言えそうだ。(太田)
「重要なルネッサンスの技術には、 新機軸と既存技術の改良を含め、次がある:
・鉱山と冶金 (metallurgy)
・高炉 (blast furnace) により鉄を多量に生産することが可能となる。
・精製炉 (finery forge) により、 (高炉の) 銑鉄を板鉄 (錬鉄) にすことが可能となる。
・細断ミル (splitting mill) が、釘製造のための鉄棒の製造を機械化した。
・溶解ミル (smeltmill) はそれ以前の方法 (bole hill) から鉛の生産を増大した。・・・
クランクと連接棒のメカニズムは、円運動を往復運動 (reciprocal motion) に変換し、作業工程の機械化には最大に重要なことであった。 これはローマ<帝国>の水力鋸ミル (sawmill) で始めて証明された。 ルネッサンスの最中に、この利用は随分と多様化し、機械的に洗練された; 今や連接棒は2重複合クランク (double compound crank) にも 応用され、一方、はずみ車はクランクが死点 (dead-spot) を越えるために使用された。」
https://asait.world.coocan.jp/kuiper_belt/canal17/renaissance_technology.htm
「ルネッサンス・イタリアで — 機械的に誤解しているが — 複合クランクと連接棒の最も初期の証拠がタッコラ (Taccola) のスケッチ・ブックに見つかっている。 動きの健全な理解には画家の ピサネロ (Pisanello、1455 年死亡) の絵が関連し、 彼は水車により駆動される2つの単純なクランクと2つの連接棒で操作されるピストン・ポンプ を表示している。」
https://asait.world.coocan.jp/kuiper_belt/canal17/connecting_rod.htm
「マリアーノ・ディ・ヤーコポ(Mariano di Jacopo。1382~1453年?)、通称タッコラ(「カササギ」の意)は、初期ルネサンス期のイタリアの博学者、行政官、芸術家、そして技術者であった。タッコラは、革新的な機械や装置を多数描き注釈した技術論集『デ・インゲネイス』および『デ・マキニス』によって知られている。彼の著作は後世のルネサンス期の技術者や芸術家に広く研究され、模倣され、その中には・・・レオナルド・ダ・ヴィンチも含まれていた。
https://en.wikipedia.org/wiki/Taccola ←英語典拠はCopilotに翻訳させ私が手を入れた(以下同じ)。
⇒古代ローマで発明されたものの大部分は土木技術だ
https://europa-japan.com/euro-history2/acient-rome/entry1403.html
が、イタリアに残ったインフラは荒廃しても、こういった技術の継承、改善は、イタリアでなされ続けたと考えられる。(太田)
「チェリニョーラの戦い<(Battle of Cerignola。1503年)は、>・・・南イタリアのナポリ王国領チェリニョーラにおいてフランス軍とスペイン軍の間で行われた戦闘。ゴンサロ・フェルナンデス・デ・コルドバ率いるランツクネヒト<(注20)>2,000、火縄銃兵1,000、大砲20門を含むスペイン軍が、主に貴族主体の重装騎兵とスイス傭兵の槍兵から成るフランス軍9,000を撃破し、フランス軍の指揮官ヌムール公ルイ・ダルマニャックは戦死した。
(注20)Landsknecht。「1486年に神聖ローマ帝国のローマ王マクシミリアン1世によってスイス傭兵を模範として編成されたヨーロッパ(主にドイツ)の歩兵の傭兵である。・・・
公式には神聖ローマ皇帝に仕えなければならなかったが、より多くの報酬や略奪を求めて、条件のよい雇用主と契約する形態が広まっていった。・・・
スイス傭兵とはいわば師弟の関係になるが、同時に商売敵でもあったため、戦場で両者が対面した時は特に凄惨な戦闘が繰り広げられたという。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%84%E3%82%AF%E3%83%8D%E3%83%92%E3%83%88
<欧州>において火器が勝負を決した最初の戦闘の1つであり、壕の後ろから射撃するスペインの火縄銃兵がスイス槍兵とフランス騎兵の突撃を撃退した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%82%A7%E3%83%AA%E3%83%8B%E3%83%A7%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
「アーキバスの有用性は、1503年のチェリニョーラの戦いで証明された。これは、火器が戦闘の行方を決した最初の戦いであった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%82%AD%E3%83%90%E3%82%B9
⇒「外国」勢力によって戦われたものだが、中世において、イタリアで最も先端的な編成・装備による戦争が続けられてきたらしいことが推認できる。(太田)
「
・浮きドック (Floating dock)
浮きドックの最も初期の既知の記述は1560年にベニスで印刷された小さなイタリアの本にあり、この本は『巧妙な機械の説明』 (Descrittione dell’artifitiosa machina) と題されていた。この小冊子で、無名の著者が座礁した船を引き上げる新しい方法を使用する許可を求め、更に進んで彼の方法を記述・描写している。収録された木版画が見せるのは、船の側面の2つの大きな浮き架台と 船の上の屋根である。 船は上部構造に取り付けた幾つかのロープで上向きの位置にして曳航されている。・・・
・リフティング・タワー (Lifting tower)
リフティング・タワー (Lifting tower、[訳注:クレーンのこと]) が ドメニコ・フォンターナ (Domenico Fontana) により、 ローマの一枚岩のバチカン・オベリスク (Vatican obelisk) の位置を変えるのに使用され、とても効果があった。 これは 361 トンの重さがあり、ローマ人がクレーンで持ち上げたことが知られているどのブロック (block) よりもはるかに重かった。・・・
・鉱山機械と化学
ルネッサンスの時期の機械的技術 (mechanical art) の状態に関する 標準的な言及は鉱山技術の論文 (treatise) である『デ・レ・メタリカ』 (De re matallica、1556 年、 [訳注: アグリコラ参照]) で 与えられ、この本は 地質学 (geology)、 鉱山 (mining)、そして 化学 (chemistry) の節も 含んでいる。 『デ・レ・メタリカ』 (De re metallica) はこれに続く 180 年間に標準的な化学の参考文献であった。」
https://asait.world.coocan.jp/kuiper_belt/canal17/renaissance_technology.htm 前掲
イ イタリアの停滞
(ア)科学の弱体
古代ローマで、科学と言えば、医学のガレノス、天文学のプトレマイオス、地理学のストラボンくらいしか聞こえてこないが、ガレノス(129?~216年?)も、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AC%E3%83%AC%E3%83%8E%E3%82%B9
プトレマイオス(83?~168年?)も、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%82%A6%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%AA%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%97%E3%83%88%E3%83%AC%E3%83%9E%E3%82%A4%E3%82%AA%E3%82%B9
そして、ストラボン(BC64/63~AD24年?)も、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%9C%E3%83%B3
ギリシャ人であり、古代ローマの科学は、要はヘレニズムの主役であったギリシャ人達の産物であって、ローマ人はもちろんのこと、ギリシャ人を含む数多の民族から構成されでいた古代ローマおいて、ヘレニズム期以降はギリシャ人すら科学で貢献できなくなったことからすると、ローマ人及びそのローマ人が創ったローマ文明には、科学を育まない要素があった、ということなのだろう。
この「伝統」がその後のイタリアをも規定してしまったように思われる。
すなわち、ルネサンス期欧州においても、イタリア発の科学的新発見は皆無に近いのであって、そもそも、近代科学方法論は、ガリレオ(1564~1642年)・・ピサ大中退で後に同大とパドヴァ大の教授になり、それまでのように幾何学だけを活用するのではなく代数学も活用し始めた功績はある・・ではなく、(私はイギリスのロバート・グロステストであると主張しているわけだが、一般には、その弟子である)イギリスのロジャー・ベーコンによって確立された(コラム#46)とされているところだ。
https://en.wikipedia.org/wiki/History_of_experiments
なお、振り子の等時性(The Principle of the Pendulum)と落下の法則(The Law of Falling Bodies)の発見がガリレオに帰される
https://www.sciencing.com/list-discoveries-galileo-galilei-8249749/
が、前者を1073年に(数式化という意味で)科学的に確認したのはホイヘンス(Huygens)なので、
https://en.wikipedia.org/wiki/Pendulum_(mechanics)#cite_ref-1
結局、ガリレオの科学的発見は落下の法則
https://en.wikipedia.org/wiki/Equations_for_a_falling_body
だけ、ということになるが、この程度のことが発見と果たして言えるのかどうか疑問だ。
(数学のフィボナッチ(Leonardo Fibonacci。1170?~1242年?)には、実は独自の発見はなく、
https://it.wikipedia.org/wiki/Leonardo_Fibonacci
医学のヴェサリウス(Andreas Vesalius。1514~1564年)はパドヴァ大学で博士号こそ取得しているが、(現在のベルギーの)ブリュッセル出身だ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%AC%E3%82%A2%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%B4%E3%82%A7%E3%82%B5%E3%83%AA%E3%82%A6%E3%82%B9 )
このヴェサリウス(上出)は、オランダ語地区のルーヴァン大
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%B4%E3%82%A7%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%AB%E3%83%88%E3%83%AA%E3%83%83%E3%82%AF%E5%A4%A7%E5%AD%A6
に最初に入学していることからオランダを母語としていたと思われる(上掲)し、地動説を提唱したコペルニクス(Nicolaus Copernicus。1473~1543年)・・「シレジア地方は13世紀のモンゴルによるポーランド侵攻で住民が避難して散り散りとなるか逃げ遅れて殺されるかして人口が大きく減少したため、ポーランドの当地の諸侯は復興のために西方から多くのドイツ人移民を招いている(ドイツ人の東方殖民)。そのなかでコペルニクスの父方の先祖(の少なくとも一部)もドイツの各地からやってきて、そのため一族<は>ドイツ語を母語としていたものと推測される」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%82%B3%E3%83%A9%E3%82%A6%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%B3%E3%83%9A%E3%83%AB%E3%83%8B%E3%82%AF%E3%82%B9
ことから、どちらも、ヴァイキング系の人々の影響を強く受けていたと私が見ているところの、ゲルマン人、であったところ、ロジャー・ベーコンに至っては純粋なヴァイキング系であって、要は、広義のヴァイキング系の人々が、近代科学を興した、と言ってよさそうだ。
グロステストやベーコンはパリ大学留学だが、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%BB%E3%82%B0%E3%83%AD%E3%82%B9%E3%83%86%E3%82%B9%E3%83%88
ヴェサリウスとコペルニクスはイタリアの大学に留学しており(それぞれのウィキペディア)、ガリレオももちろんそうだが、それだけ、当時のイタリアには秀でた研究環境があったにもかかわらず・・。(太田)
(イ)非統一
中世イタリアにおいて、言語に関しては、統一の試みがなされ、それは成功を収めた。↓
「イタリア語は近世のイタリア・ルネサンスにおいて、イタリア人共通の言語を形成しようとする文化人の運動の中で形成された。とりわけその主導権を握ったのはトスカーナ出身の詩人ダンテ・アリギエーリで、彼は当時古典ラテン語で書くのが一般的であった文学作品を、中央イタリア語のトスカーナ方言に南部のナポリ語・シチリア語の語彙を取り入れた言葉で執筆した。・・・1321年 – ダンテによる『神曲』がイタリア語(フィレンツェ方言)で書かれる。・・・この言葉が現在のイタリア語と呼ばれる言語である・・・
<すなわち、>ラテン語<に>最も近いトスカーナ方言をベースにした<のが>イタリア語(ラテン語との同一性は75%に達する)<なのだ。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%BF%E3%83%AA%E3%82%A2%E8%AA%9E
[中世イタリアの世界への「言語」的貢献]
イタリア語はイタリアに普及しただけだが、イタリア発で世界に普及した「言語」が二つある。
一つは、平均律(注21)であり、これは、いわば、世界音楽言語になった。
(注21)周波数比2:1であるところの「オクターヴを均等に・・・十二・・・分割した音律」。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%9D%87%E5%BE%8B
十二音律(十二律)そのものは、「<支那>や朝鮮、日本の伝統音楽で<も>用いられ<てい>る」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E4%BA%8C%E5%BE%8B
しかも、それは、ガリレオの父親の功績であると言ってもよさそうなのだ。
Vincenzo Galilei(1520以降~1591年)は、「1573年頃から、ローマ在住の古典文献学者ジローラモ・メーイ Girolamo Mei(1519-1594) の教えを<受>けるようにな<り、彼>から古代ギリシャの理論を学ぶうち、・・・等分律(現在では「平均律」と呼ばれる)を主張<するに至ったが、これは、>革新的なことだったに違いない。等分律は古代ギリシャの時代以来、理論家によってしばしば論じられてきたが、彼はその優位をリュート奏者としての実践をもとに<具体的に>主張した<からだ>。・・・
<なお、彼>は<、>フィレンツェで音楽家、文学者のグループ「カメラータ」の一員として活躍し<た>・・・音楽理論家、リュート奏者<であったところ、>・・・<この>「カメラータ<(注22)>」では、のちにオペラを生み出すカッチーニらの功績が喧伝されるが、・・・ガリレイがこのグループの理論的な支柱であったのではないか、という想像が抑えきれない。
(注22)「16世紀末、フィレンツェのカメラータにより古代ギリシャの演劇を復興しようという動きが始まった。ギリシャ悲劇を模範に、歌うような台詞を用いる劇が考えられた。今日、オペラと見なされる知られる限り最古の作品は、1597年頃のヤコポ・ペーリ(1561年 – 1633年)による『ダフネ』(Dafne)であるが、作品は現存しない。のちのペーリの作品である『エウリディーチェ』は1600年以降に作曲されたもので、今日に残る最初のオペラ作品である。
ペーリはしばしばオペラの発明者であると考えられているが、今日でも上演される最古のオペラは1607年にマントヴァで初演されたクラウディオ・モンテヴェルディ(1567年 – 1643年)作曲の『オルフェオ』である。この作品では先駆者の様式に従いながらも、調性や強弱の変化による緊張感を高めた、より劇的な表現が見られる。モンテヴェルディは後にヴェネツィアのサン・マルコ聖堂で楽長の地位を得て、同地に新設された専用のオペラ劇場のために優れた作品を生み出す。この時期にはイタリア各地でオペラが上演されるようになり、18世紀にかけてナポリで隆盛を極めた。・・・
オペラの一種である台詞と踊りのある歌劇オペレッタが、18世紀後半から19世紀初頭にかけてアメリカに持ち込まれ、より大衆化されたものがミュージカルであ<る。>・・・ また、オペラとポピュラーミュージックの音楽性が融合したジャンルとしてオペラティック・ポップがあり、代表曲として1995年に発表されたアンドレア・ボチェッリの『君と旅立とう』(伊: Con Te Partirò、英: Time To Say Goodbye)があるほか、広義には19世紀後半から20世紀初頭にかけて流行したカンツォーネも含まれる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%9A%E3%83%A9
「カメラータまたはカメラータ・デ・バルディ(Camerata de’ Bardi)とは、16世紀後半のフィレンツェの人文主義者や音楽家、詩人、その他の知識人が、ジョヴァンニ・デ・バルディ<(Giovanni de’ Bardi)>伯爵の邸宅に集って結成した音楽サークルの名称を指す。・・・
イタリアの歴史家で当時の古代ギリシャ研究の第一人者ジローラモ・メーイ<(Girolamo Mei)>・・・の主張の中でも、とりわけ、古代ギリシャの演劇は、話すというよりもっぱら歌うような性格のものだった、とする説がカメラータに影響した。メーイは誤っていたかもしれないのだが、古代の音楽の方法論を発見しようという点で、結果的にほかに類を見ないような音楽活動が花開いたのである。・・・
カメラータの人々は、古代ギリシャ演劇のせりふが、単純な器楽伴奏と単旋律<・・欧州の中世、ルネサンス期で盛んであった音楽/声楽は多声音楽(ポリフォニー=polyphony(注23)>)だった(太田)・・>によって歌われたと予想したのである。・・・
(注23)実は西欧のポリフォニーを創り出したのも、西ローマ帝国滅亡直後のイタリア人達だった。
Boethius(480?~524年)
https://en.wikipedia.org/wiki/Boethius
やCassiodorus(485?~585年?)
https://en.wikipedia.org/wiki/Cassiodorus
がそうだ。
https://en.wikipedia.org/wiki/Scolica_enchiriadis
https://en.wikipedia.org/wiki/Polyphony
しかし、その後、ポリフォニーの中心はフランスに移った。(上掲)
なお、ポリフォニー(多声音楽)「そのものは<欧州>音楽の独創ではなく世界各地に見られるものであ<る。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%83%AA%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%8B%E3%83%BC
西欧において、ポリフォニー音楽は中世後期とルネサンスの音楽がそうだが、バロック(及びそれ以降も)西欧音楽はポリフォニー的であると言え、例えば、バロック音楽中のフーガ等はポリフォニーなのだが、一般に対位法(contrapuntal)音楽と呼称される。
https://en.wikipedia.org/wiki/Polyphony 前掲
1582年にヴィンチェンツォ・ガリレイは、ダンテの『煉獄篇』に基づくウゴリーノ・デッラ・ゲラルデスカ伯爵への哀歌に、自ら曲付けした音楽を上演した。その音楽は不幸にも現存しないが、ガリレイが「古代ギリシャ音楽の典型」と予想したものを真似ていたという。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%A1%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%82%BF
このような地道な積み重ねなくして、オペラのような新しい創作は生まれなかったはず<だからだ>。」(東京音楽大学付属民族音楽研究所講師・チェンバロ奏者 坂 由理(Ban Yuri)。2024年)
https://tcm-minken.jp/publication/IE_B13202301.pdf
https://en.wikipedia.org/wiki/Equal_temperament ←参考
つまり、父親の方のガリレオは、平均律の提唱と実践、及び、オペラ/ミュージカル/カンツォーネの提唱と実践、を世界で最初に行った人物であると言えそうであり、考えようによっては、息子の方のガリレオよりもはるかに巨大な影響を後世に残したとも言えそうだ。
付言すれば、楽器の奏でる音色も一種の言語と言ってよいが、現在の楽器の頂点に位置づけられるピアノもヴァイオリンもルネサンスイタリアの産物であり(注24)、こうなると、私はクラシック音楽の租をドイツとしてきた(コラム#省略)けれど、この際、訂正する必要がありそうだ。
(注24)「1397年のパドヴァの法律家による「ヘルマン・ポールという人物がクラヴィチェンバルムと呼ばれる楽器を発明したと主張している」という記述がチェンバロについての最古の記述である。 1425年のドイツのミンデンの大聖堂の祭壇の彫刻にはチェンバロとこれを奏する人が確認できる。1440年頃にはアンリ・アルノー・ド・ズヴォレがチェンバロとその発音機構の詳細な図面を残している。 現存する最古のチェンバロは、1480年頃おそらくドイツのウルムで作られたクラヴィツィテリウムで、ロンドンの王立音楽大学に保存されている。
製作者名と製作年代の分かる最古のチェンバロは、1515年から1516年にフィレンツェのヴィンチェンティウスによって作られたものであり、次に1521年のボローニャのヒエロニムスによるものが続く。イタリアのチェンバロの側板は薄く、ケースの外形は細長い。イタリアでは多少の変化がありながらも、18世紀末まで独自の様式のチェンバロ製作の伝統が維持された。1700年頃イタリアのバルトロメオ・クリストフォリがピアノを発明した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%82%A7%E3%83%B3%E3%83%90%E3%83%AD
「世にヴァイオリンが登場したのは16世紀初頭と考えられている。現存する最古の楽器は16世紀後半のものだが、それ以前にも北イタリアをはじめ<欧州>各地の絵画や文献にヴァイオリンが描写されている。レオナルド・ダ・ヴィンチの手稿にもヴァイオリンに似た楽器の設計図が見られる。現存楽器の最初期の制作者としてはブレシアのガスパーロ・ディ・ベルトロッティ(通称ガスパーロ・ダ・サロ)、クレモナのアンドレア・アマティ、ガスパール・ティーフェンブルッカーが有名である。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%82%AA%E3%83%AA%E3%83%B3
もう一つは、複式簿記(Double-entry bookkeeping system)であり、これは、いわば、世界会計「言語」になった。)↓
「世界で最初に出版された複式簿記の理論書は、1494年にイタリアの商人出身の数学者ルカ・パチョーリ(1445年ごろ – 1517年)<(注25)>によって書かれた「スムマ」(算術・幾何・比及び比例全書)と呼ばれる本の中の「簿記論」である。
(注25)「修道僧でもあった。・・・中部イタリア、現トスカーナ州アレッツォ県のサン・セポルクロに生まれ<た。>・・・
1477年以降、ペルージャ大学、ザダル(現在クロアチア、当時ヴェネツィア共和国領)、ナポリ大学、ローマ大学などで数学の講義・執筆を行った。1482年には博士の学位を習得し、1489年にサン・セポルクロに帰郷した。
1494年、『スムマ』と呼ばれる数学書を著した。この書で初めて複式簿記が学術的に説明されたことにより、パチョーリは「簿記会計の父」と呼ばれている。ただし、パチョーリ自身が「複式簿記の祖」でないことはいうまでもなく、これは『スムマ』の中でも述べている。・・・<なお、この書は、>確率を数学的に取り上げた最初の文献であるとも言われている。・・・
1490年代後半にはミラノのスフォルツァ家をパトロンとし、1496年43歳前後のレオナルド・ダ・ヴィンチに数学(純粋数学)と複式簿記(会計学)の教育を施し<たところ>、・・・マントヴァ滞在中の1497-1498年に『神聖比例論』を著した(1509年出版)<が、>同書にある正多面体の挿絵は、レオナルドの原図によるものとされる。
1500年、ピサ大学で幾何学の教員となった。以降、ボローニャ大学、ペルージャ大学、ローマ大学で教鞭をとった。
1517年、サン・セポルクロで死去した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%82%AB%E3%83%BB%E3%83%91%E3%83%81%E3%83%A7%E3%83%BC%E3%83%AA
それは当時行なわれていた簿記についての理論的解説である。その後複式簿記は広くヨーロッパで行われた(このため、「イタリア式簿記」又は「大陸式簿記」とも呼ばれている。「複式簿記」の命名者<は、>・・・ベネデット・コトルリ<である。>」(コラム#15294))
としていたが、ベネデット・コトルリ(Benedetto Cotrugli。1416~1469年)こそが、恐らくは複式簿記の発明者であったことを、その後、知った。
彼は、ギリシャ人とスラブ人が形成したと言ってよい、ラグザ(Ragusa)・・現在のクロアチアの一部・・の出身だが、ラグザは、1000~1030年、と、1205~1358年、はヴェネツィア領だったけれど、コトルリの当時はオスマントルコ領だったものの、
https://en.wikipedia.org/wiki/Republic_of_Ragusa
彼は、ボローニャ大を卒業し、1451年から1469年までナポリに住んでその間ナポリ王国の外交官を務め、アキーラ(Aquila)で亡くなっているので、事実上のイタリア人と見てよい。
https://en.wikipedia.org/wiki/Benedetto_Cotrugli ←全般
しかし、「 「一般民衆の自立化」によって共和制フィレンツェで民主主義が機能し、ファシスト的メディチ「王朝」が始まることになった、と言ってよいの<だが>、・・・15~16世紀にかけてのこのファシスト的メディチの歴代「王」達が、誰一人として、全イタリアとは言わないまでも、全北イタリア統一のために、フィレンツェの経済、文化、軍事力を総結集してあたろうとしなかったこと<が問題なのだ>。
すなわち、この「王朝」の創始者のコジモ・デ・メディチ(1389~1464年)が、その1世紀余前の同じフィレンツェ人のダンテ・アリギエーリ(1265~1321年)のイタリア統一の志を継がなかったこと<が・・>。
私見では、これを行わなかったことが17世紀央での大分岐・・イギリスの一人当たり<実質>GDPのイタリア、ひいてはその他の全世界、のそれの凌駕・・を必然たらしめたの<だ>。」(コラム#15314)
具体的には、以下の通りだ。↓
「最初に海軍を創ったのはポルトガルの1317年で、スペインの1479年が2番目で、オランダ、デンマーク(1510年)、スウェーデン(1522年)、と続き、イギリスがそれに次ぐ1546年であり<(注26)>、フランスに至っては、・・・1624年という遅さだった」(コラム#15274)けれど、中世のイタリアは、ついに、商船兼用ならぬ専用軍船からなる海軍を創るだけの、経済力/マンパワーを持つことができなかった。
(注26)根拠不明。「王として、ヘンリー8世<(Henry VIII。1491~1547年。イギリス王:1509~1547年)が>王立海軍の責任を担い、その治世を通じて艦隊を大幅に強化した」
https://tudorstuartperspectives.wordpress.com/2015/10/28/a-tudor-and-his-navy/
ことや、「大砲を備えた軍艦の艦隊を建造し、海軍の行政機構を創設した。」
https://www.britannica.com/topic/Royal-Navy
は確かだが・・。
その結果、イタリアは、海外交易を自力で守ることができなくなっていった。
結局、植民地の維持も困難になり、新規に、欧州外で植民地を獲得することは不可能になった。
その結果、下掲の経過を辿って、北イタリアでの毛織物工業は没落していった。↓
「毛織物は、<欧州>全域で、古くから家庭で共同体・首長のためや自家消費のために加工されていたが、その大半は未染色の粗野な織物であった。低地地方(現在のオランダ、ベルギー、ルクセンブルクなどを含む地方)では、ローマ占領時代からゴール人(アトレベート人)が染色毛織物をローマに輸出し、人気を博していた。
西<欧>の毛織物生産が新たな展開をみせるのは8世紀ごろのことである。庶民の日常の、自家製毛織物生産がしだいに発展し、地域内の週市(いち)に売り出されるようになり、それが中世都市の手工業に吸収され、どこでも中心的手工業の一つとして発展していった。このなかから、国際的商品として取引される上質毛織物(染色仕上げされた高級毛織物)を生産するフランドルなど低地地方の諸都市や、フィレンツェなどイタリア北部の諸都市が「商業の復活」とともに台頭してくる。
10世紀にイギリスの良質の羊毛を輸入して生産を拡大したブールジュを中心とするフランドルの毛織物は、12世紀には全<欧州>の商人の集まるシャンパーニュ大市やサン・ドニの大市で売りさばかれ、13世紀にはイタリア諸都市を経て東方に、ハンザ商人の手で北欧に運ばれたが、13世紀末にはフィレンツェに未染色・未仕上げの白布のまま輸出されるようになった。この白布は、フィレンツェ近在で組合アルテ・ディ・カリマーラに参加した仕上げ業者によって染色加工され、東方諸国に再輸出されたが、これはフィレンツェ産の毛織物(イギリスからの輸入羊毛を織布工に前貸しし加工させる問屋制前貸しによってつくられた)と並んで、香辛料など東方からの輸入品に対する対価物として重要な位置を占めるに至り、14~15世紀を通じて、ジェノバやベネチアの商業上の利益の多くをフィレンツェに引き寄せたのである。
アメリカ大陸の「発見」と東方貿易路の転換は、毛織物工業を、各国重商主義の盛衰を決定する重要産業に押し上げた。銀を代価とするアメリカ大陸植民地への毛織物の輸出は、当初スペインの毛織物工業の発展を促したが、16世紀の南ネーデルラント(フランドル、ブラバント)における薄手毛織物(ウーステッド)の生産の発展がスペインの毛織物工業を圧倒し、スペインによるこの地方の武力的制圧は、北ネーデルラントその他への織物業者の大量亡命とオランダの独立(1609)を引き起こした。独立後のオランダではライデンその他の諸都市で毛織物の織布が盛んに行われ、イギリスから輸入される白地広幅織物とともに、アムステルダムやロッテルダムで染色・仕上げされ、スペイン経由でアメリカ大陸に輸出された。スペイン植民地の銀はオランダ、イギリスに還流した。これは、17世紀の国際商業戦でオランダを優位にたたせた条件の一つとなった。」(殿村晋一(注27))
https://kotobank.jp/word/%E6%AF%9B%E7%B9%94%E7%89%A9%E5%B7%A5%E6%A5%AD-1530360
(注27)商業史を専攻し、2008年、専修大学商学部教授で退職。
https://www.senshu-u.ac.jp/albums/abm.php?d=2290&f=abm00005499.pdf&n=%E3%83%8B%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%82%B9%E5%B0%82%E4%BF%AE%E3%82%A6%E3%82%A7%E3%83%96%E7%89%882008%E5%B9%B43%E6%9C%88%E5%8F%B7%EF%BC%88%E7%AC%AC450%E5%8F%B7%EF%BC%89%EF%BC%BF2%E9%9D%A2.pdf
繰り返すが、この「毛織物産業の北イタリアでの没落とイギリスでの隆盛<に象徴されているところのもの>が、一人当たりGDPの伊英逆転をもたらした」(コラム#15282)と言えるのであって、それは、「16世紀後半から17世紀にイタリアは深刻な経済的・社会的衰退に陥り始め<、>教皇国家を含むイタリア諸国は列強国(とりわけハプスブルク家の神聖ローマ帝国・スペインとヴァロワ朝/ブルボン朝のフランス)の代理戦争の場と化した」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%BF%E3%83%AA%E3%82%A2%E7%B5%B1%E4%B8%80%E9%81%8B%E5%8B%95
という形をとって現れ、基本的に、このような状態が、普墺戦争によってイタリア統一が達成される
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%BF%E3%83%AA%E3%82%A2%E7%B5%B1%E4%B8%80%E9%81%8B%E5%8B%95#%E3%82%A4%E3%83%AC%E3%83%87%E3%83%B3%E3%82%BF%E5%9B%9E%E5%8F%8E%E4%B8%BB%E7%BE%A9%E3%81%A8%E4%BA%8C%E3%81%A4%E3%81%AE%E4%B8%96%E7%95%8C%E5%A4%A7%E6%88%A6
まで続くことになるわけだ。
(ウ)総括
イタリアで内外戦争こそ頻発的に推移したけれど、科学の弱さが技術革新の質と量を制約するとともに、統一不能状態が継続したことによって、地域内戦争の頻発が続く一方で地域外の敵による地域内蹂躙を許し、それらのことが経済成長のブレーキ要因になり、イタリア領域内の経済が停滞し続けた結果、イタリアはイギリスの後塵を拝することになってしまった、と言えよう。
帰するところは、イタリアの上澄みがイギリスのそれに比して、弥生性においても人間主義的統治志向性においても、甚だしく遜色があったからである、というのが私の考えだ。
甚だしく遜色があったからこそ、統一による域内平和の達成と、戦争の域外での成功裏での間歇的実施、こそ地域被支配層にとっての最高の福祉である、という発想が出て来ず、だから、当然、アルフレッド大王のような偉大な支配者もイタリアでは出現することがなかった、と。
[黒死病とイタリア、イギリス]
一 始めに
15~16世紀のルネサンスという中世イタリアの絶頂期の終わりにイギリスの実質一人当たりGDPがイタリアのそれを追い抜いたこと、と、このルネサンスが14世紀の黒死病パンデミックの後に花開いたこと、に、いささか得心がいかないので、少々調べてみた。
二 黒死病
「黒死病(・・・Black Death)とは、1346年から1353年にかけてアフロ・ユーラシア大陸でパンデミックを起こした腺ペストの俗称である。・・・
黒死病は後期中世<欧州>を襲った2番目に大きな自然災害 (一番目は大飢饉 (1315年-1317年))であり、これにより欧州人口の30-60%が死亡したと推定されている。この疫病が、14世紀に世界人口を約4億7500万人から3.5-3.75億人へと減少させた可能性がある。中世後期を通して追加の感染爆発があり、他の要因も相まって、1500年まで欧州の人口は1300年の段階へと回復することがなかった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%92%E6%AD%BB%E7%97%85
⇒その後、火山噴火⇒大飢饉⇒黒死病、という因果関係があって、大飢饉と黒死病は一括りにされるべき大災害だったことが、判明したわけだ。(コラム#15355)(太田)
三 イタリア
「黒死病は1347年から1348年にかけて<、最初に、>イタリアで流行った。黒死病による人口減少は、支配層にとって税収や収入の減少をもたらすと同時に、労働力の縮小を招いた。その結果、労働者はより高い賃金やより良い条件を要求するようになり、支配層はその要求に対して抑圧や暴力で応じた。並行して、疫病の最中に農村で崩壊した法と秩序は長期にわたり回復せず、失業した傭兵たち――コンドッティエーレ(Condottiere)<(注28)>として知られる者たち――が農村の住民を支配するようになった。」
https://en.wikipedia.org/wiki/Black_Death_in_Italy
(注28)「中世から近世のイタリアは東方貿易によってヨーロッパの文化と経済の中心地として栄えており、特にヴェネツィア共和国やフィレンツェ共和国、ジェノヴァ共和国、シエナ共和国など規模の大きい地方国家は莫大な富を得ていた。しかし、同じく利潤を得ている存在でも既存の権力機構に組み込まれているミラノ公国やナポリ王国とは違って、これらの国々は周辺国から常に妬みと野心の対象とされていた。したがって彼らは、市民軍の他に大量の傭兵部隊を雇用するのが伝統となっていた。
最初のうち、これらの受け皿となったのはイタリアに野心を持つ神聖ローマ皇帝、アンジュー家、アラゴン家など外国人君主に伴われてイタリアへ来た外国兵、それに比較的少数ではあったが、貧困な地方の流民たちだった。この傭兵需要は、「冒険団」(Compagnie di Ventura)を生み出した。主として外国人からなるこの冒険団は程なくしてイタリア人自身が担うようになり、さらには地方の小領主(シニョリーア)が自国の徴用兵ごと「傭兵」として自身を売り込むようになっていった。彼らと雇い主の間では契約(コンドッタ)が結ばれ、そこからコンドッティエーレと呼ばれるようになった。
こうしたイタリア独自の傭兵制度の中で、傭兵隊長たちは栄達の機会をつかむことも少なくなかった。・・・またイタリア人の傭兵隊長たちは、ルネサンスの万能人思想に影響されてか、粗野で野蛮であるよりも、洗練され教養のある人間であることを尊んだ。戦術にしてみても、騎士道精神に立脚する蛮勇よりも、自らの祖先であるラテン人が古代ローマで行った戦術を模倣することを好んだ。すなわち、勝てる状況を作り出した上で戦うのが戦の上策であり、負け戦は積極的にかかわるのを避けたし、また全滅するまで戦うのではなく、勝つ見込みがあるまで戦うのが基本だった。このことは、同時代人のマキャヴェッリによって辛辣に批判されたが、これは市民軍の組織に失敗したマキャヴェリの私怨も多分に含まれている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%83%E3%83%86%E3%82%A3%E3%82%A8%E3%83%BC%E3%83%AC
⇒どうやら、イタリアでは、一人当たり実質GDPは上がらずじまいだったようだ。(太田)
「多くの人々は、黒死病を神の罰、あるいは何らかの超自然的なものだと考えていた。・・・
「都市人口の減少:
・フィレンツェ:人口のおよそ50%が減少
・シエナ:人口の60%が減少
・ローマ:死亡率40〜50%
・ヴェネツィア:人口の33%が減少
一般的な反応:
・都市の通りを練り歩く大規模な行列
・教会への寄付の増加
・贖罪として公衆の面前で自らを鞭打つ鞭打ち苦行者(フラジェラント(Flagellants))
・疫病に立ち向かうために新しい聖人や聖堂が奉献された」
https://historyrise.com/the-black-death-in-italy-how-the-plague-reshaped-italian-society/
⇒ローマ帝国の国教であったカトリック教会の総本舗の地元ということを割り引いても、中世イタリア人は、何とまあ、良く言えば信心深い、悪く言えば迷信の塊のような、人々であったことよ、という感想だ。(太田)
「黒死病によってフィレンツェが被った壊滅が、14世紀イタリアの人々の世界観の転換をもたらしたとする説がある。イタリアはとりわけ深刻な打撃を受け、死への慣れが、人々に精神性や来世よりも地上での生活に思いを致させたと推測されている。他方で、黒死病が宗教芸術の後援という形で新たな敬虔の波を引き起こしたとも論じられている。しかし、こうした説明だけでは、なぜ14世紀のイタリアにおいて特にルネサンスが生じたのかを十分に説明しえない。黒死病の流行はイタリアに限らず<欧州>全域に同様の影響を及ぼしたパンデミックであったからである。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%83%8D%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%82%B9
⇒ルネサンスは、ペロポネソス戦争によって最後のとどめを刺された古典ギリシャ文明の滅亡直前の、人文学や政治の輝き(典拠省略)に準えられるべきであって、黒死病によって最後のとどめを刺された古代ローマ文明嫡流のイタリア中世亜文明の滅亡直前の芸術や工学の輝きであったのではないか、という気がしてきた。(太田)
四 イギリス
「黒死病は・・・、1348年6月にイギリスへ到達した。1349年の夏までには全国に広がり、同年12月には収束したが、人口の40〜60%が死亡した。1361年から1362年にかけて、黒死病は再びイギリスに戻り、今度は人口のおよそ20%が死亡した。
黒死病のイギリスにおける最も直接的な影響の一つは農業労働力の不足であり、それに伴って賃金が上昇した。これに対し、エドワード3世は「労働者条例(the Ordinance of Labourers)」を制定し、賃金を疫病以前の水準に固定した。この条例は、1351年に議会によって「労働者法令(the Statute of Labourers)」が制定されることで強化された。
これらの立法措置は・・・ほとんど効果を発揮しなかったが、それを強制するための政府の抑圧的な手段は民衆の反感を招いた。こうした状況は1381年の農民反乱(the Peasants’ Revolt)の要因となった。・・・彼らは農奴制の完全廃止を要求し、若き王リチャード2世が自ら介入するまで鎮静化しなかった。
反乱は最終的に鎮圧されたが、それによって促された社会的変化はすでに不可逆的なものとなっていた。1400年頃までには農奴制は事実上イギリスから消滅し、代わって「コピーホールド(copyhold)<(注29)>」と呼ばれる土地保有形態が広まった。
(注29)「コピーホールド (copyhold) は フリーホールド (freehold) と対比して作られた言葉です。 フリーホールドを「自由土地保有権」と翻訳すれば、コピーホールドは「コピー土地保有権」となりますが、 こちらの方は実際は借地権 (tenure) です。・・・
土地を与えられる見返りに、コピーホールド賃借人 (tenant) は特別な荘園の責務 (duties) や奉仕を実施することが要求された。・・・
19 世紀までに、多くの慣習的義務は地代の支払いで代替されて行った。
コピーホールドは封建制度 (feudal system) の農奴制に直接由来し、 農奴制では土地の見返りに、奉仕と農産物を与えることが必要であった。イギリスの封建制は 1500 年代はじめに終了したが、 コピーホールド借地権 (copyhold tenure) は・・・継続し、 「1925 年の資産法」 (Law of Property Act in 1925) により完全に廃止された。」
https://asait.world.coocan.jp/kuiper_belt/canal18/copyhold.htm
⇒封建制は、ノルマンコンケストでイギリスに持ち込まれたものだが、部分的にしか定着しなかった(コラム#省略)ところ、黒死病によってとどめをさされた、というわけだ。(太田)
<黒死病に伴う>14世紀半ばの危機に際して、イギリス政府がいかにうまく対応したかは顕著であり、フランスのヴァロワ王朝政府のように混乱や完全な崩壊に陥ることはなかった。これは大部分において、財務官ウィリアム・ド・シェアシュル(William de Shareshull)や首席判事ウィリアム・エディントン(William Edington)といった行政官たちの功績であり、彼らの非常に有能な指導力が国家統治を危機の中で導いたのである。
⇒政府がパンデミック下で十全に機能したのは、総力戦体制が続いていて社会全体が政府も含めて十全に機能しなければならなかったからであり、しかも、イギリスの場合、政府は、人間主義統治とまでは言えなくても、人間主義「的」統治を行う努力はしてきたからだろう。(太田)
人口減少による労働力不足の結果として、イギリスの実質賃金が上昇したことは西<欧>全体に共通する特徴であり、1450年の実質賃金は、19世紀あるいは20世紀までほとんどの<西欧の>国のそれを上回り続けた。
⇒イギリスは9世紀末に既に離陸(注30)していた(後述)のだから、とっくの昔に(イタリア以外の)西欧諸国の実質一人当たりGDPを上回っていたのだから、これは当たり前のことだ。(太田)
(注30)テイク・オフ(take off)。「W・W・ロストウがその経済発展段階説のなかで初めて用いたことばである。・・・ちょうど飛行機が離陸するときのように、経済が高い率で本格的な成長・発展の段階に突入する時期で、その要件としては、投資比率が10%を超えること、少なくとも一つ以上の主導産業が高い成長を達成すること、離陸のための制度的条件が満たされること、などがあげられている。ロストウによれば、日本のテイク・オフ期は明治10年代以降の1878~1900年ごろであったとされている。」
https://kotobank.jp/word/%E3%81%A6%E3%81%84%E3%81%8F%E3%81%8A%E3%81%B5-1745866
私は、国家等の地域の経済において、景気循環はあっても、基調として、一人当たり実質GDPが長期持続的上昇を始めること、というより一般的な意味で用いている。
労働者の賃金上昇と穀物価格の下落が結びついたことで、地主階級(ジェントリー)にとっては厄介な経済状況が生じた。その結果、彼らは治安判事、保安官、議会議員といった官職により強い関心を示すようになった。ジェントリーの間では、新たな地位を利用しところの、以前より体系的な腐敗が広がった。その結果、ジェントリーという階層は庶民から強く嫌われるようになった。
⇒これは、イギリス流人間主義「的」統治の一環でもあり、支配階層の積極的戦争参加に象徴されるノブレスオブリ―ジュの一環でもあるところ、「体系的な腐敗」といっても、他の西欧諸国を含む世界諸地域に比べれば物の数ではあるまい。(太田)
黒死病による死の遍在は上流階級により深い敬虔さを促し、その証拠として黒死病の最中あるいは直後にケンブリッジで三つのカレッジが創設されたことが挙げられる。イギリスでは、大陸で一般的であった鞭打ち苦行者の流浪集団のような動きは見られなかった。
⇒これは、この文章でも示唆されているところの、イタリアで見られた信心深い/迷信的動き、とは対照的な、建設的慈善活動であると言うべきだろう。(太田)
教会自体が黒死病の原因を人間の不品行にあると説明したため、聖職者の間でより高い死亡率が生じると、人々は制度としての教会への信頼を失った。
さらに、カトリック聖職者の腐敗はイギリスの人々を怒らせた。多くの司祭は恐怖におののく民衆を見捨て、また他の者は埋葬を必要とする裕福な家族から利益を得ようとした。この不満は反聖職者主義を生み、イギリスの聖職者のジョン・ウィクリフ(John Wycliffe)の台頭につながり、彼の思想は、イギリスにおけるキリスト教改革への道を切り開くことになった。」
https://en.wikipedia.org/wiki/Black_Death_in_England
⇒だからこそ、そして、もともと自然宗教志向であったイギリス(後述)では、イタリアとは正反対に、脱カトリック教会、要は、反キリスト教、更に踏み込んで言えば、脱教義宗教、的な動きが明確に生じたわけだ。(太田)
五 感想
一事が万事、これでは、イタリアの一人当たり実質GDPが停滞を続け、ルネサンス明けにイギリスが実質GDPにおいて、イタリアを抜き去ることは、当然だったと言うべきだろう。
と、私(わたくし)的には、相当程度、得心がいった次第だ。
蛇足ながら、「なぜ日本だけ無事だった?世界を滅ぼしたペストを阻んだ正体とは」
https://www.youtube.com/watch?v=2WAV2bP7Xkc
なんていうのもご覧あれ。
[ブリトン人と縄文人]
一 類似点
(一)人間主義
ア ブリトン人
ブリトン人の人間主義(じんかんしゅぎ)性が下掲から窺える。↓
ブリトン人の、キリスト教化時に生まれたペラギウス主義。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9A%E3%83%A9%E3%82%AE%E3%82%A6%E3%82%B9%E4%B8%BB%E7%BE%A9
「ペラギウス(Pelagius, 354年 – 420年/440年)・・・ペラギウスは、[ヒッポのアウグスティヌス(Augustine of Hippo)、アキタインのプロスペル(Prosper of Aquitaine)、マリウス・メルカトル(Marius Mercator)、パウルス・オロシウス(Paul Orosius)といった同時代人によって、ケルト系<で、大>ブリテン<島>出身であると伝えられている。エルモス(ヒエロニムス)(Jerome)は、ペラギウスをアイルランド人と考え、彼が「アイルランドの粥で満たされている」(Scotorum pultibus praegravatus)と述べている。
https://en.wikipedia.org/wiki/Pelagius ]・・・
彼がいなくなった後も教えは弟子たちに受け継がれ、主にブリタ・・・ニア<(大ブリテン島)>・パレスティナ・北アフリカで、ペラギウス主義は数世紀のあいだ存続した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9A%E3%83%A9%E3%82%AE%E3%82%A6%E3%82%B9
⇒私は、かねてより、ペラギウス(派)のキリスト教は、ケルト化したバスク人たるブリトン人らの常識を反映している、と、指摘してきた。(コラム#省略)
この私の指摘と似た指摘を、「ペラギウス主義」の邦語ウィキぺディアが行っているのは興味深い。(引用後段は余計だが・・。)↓
「ペラギウス・・・の説は、その多くが、ケルト人である彼の出自ないし彼の学んだギリシア語からギリシア哲学の影響を受けている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9A%E3%83%A9%E3%82%AE%E3%82%A6%E3%82%B9%E4%B8%BB%E7%BE%A9 (太田)
「ペラギウス主義によれば、人間は神の似姿として創造され、良し悪しを判断するための良心と理性、そして正しい行為を実行する能力を授けられている。もし「罪」が避けられないものであるならば、それは罪とは見なされ得ない。・・・
⇒神に似せて創られた人類に原罪などない、と、ペラギウス(派)は主張した、というのだから、ペラギウスは、人間の人間(じんかん)主義性を当然視していたわけだ。(太田)
[洗礼以外の思寵を認めず,・・・恩<寵>は、本来意志が独力でなしうることを、いっそう容易にできるよう助けるもの<でしかない>、とした。
https://kotobank.jp/word/%E3%81%BA%E3%82%89%E3%81%8E%E3%81%86%E3%81%99-3169661 ]
ペラギウスは、アダムの違反によって人間が死すべき存在となり、悪しき模範を与えられたと考えた。しかし、それによって人間の本性が堕落したわけではないと主張した。・・・
⇒しかし、聖書の記述を全く無視するわけにはいかないので、アダムが犯した非違行為により、人類には、神と違って、死が与えられることになった、と、説いたわけだ。(太田)
キリスト教教義において罪なく生きたとされるイエス・キリストは、自己の生活において完全を追い求めるペラギウス派にとって究極の模範であった。しかし、罪を犯さなかった人間は他にも存在し、その中には著名な異教徒や、とりわけヘブライの預言者たちが含まれていた。・・・
⇒ユダヤ教の・・旧約聖書に出てくる者を含む・・預言者達の中にも、また、キリスト教徒やユダヤ教徒以外の人々の中にも、人間主義者はいる、的な主張もペラギウス(派)は行っていた(※)わけだ。
ここには、事実上のキリスト教否定の含意がある!(太田)
原罪の不存在を説き、人間が善と悪の間で選択しうるとする思想を教えることによって、ペラギウス主義はユダヤ教に近い立場を主張した。」
https://en.wikipedia.org/wiki/Pelagianism
⇒ペラギウス(派)はユダヤ教に近い、と、この英語ウィキペディア執筆陣は考えているわけだが、それは違うだろう。
※から分かるように、ペラギウス(派)に選民思想はないからだ。」(コラム#15272)(太田)
また、ブリトン人には、アニミズムと裏腹の関係にあった自然崇拝・・自然崇拝は人間主義の一環だ・・があった。↓
「ケルト神話は、物語・信仰・伝統が織りなす豊かな綴れ織り(tapestry)であり、ケルト人が自然界と深く結びついていたことを反映している。アイルランド、スコットランド、ウェールズなどの地域で栄えたこの古代文化は、自然を神性の顕れとして捉えていた。ケルト人は、大地――山々、河川、樹木、動物――を聖なるものと考え、さまざまな儀式や祭礼を通じてそれを敬った。
ケルトの精神世界において、自然は人間の存在の背景にすぎないものではなく、生命そのものに不可欠な要素であった。月の満ち欠け、季節の移ろい、生命の律動はすべて相互に結びつき、環境との調和を重視する全体的な世界観を形成していた。自然へのこの敬意を象徴する最も重要な祭礼のひとつが「ベルテイン祭(Beltane)」である。」
https://celtic.mythologyworldwide.com/the-celts-reverence-for-nature-how-beltane-celebrates-the-earth/
だからこそ、イギリスのほぼ統一を成し遂げたところの、アングロサクソン・・ブリトン人を征服したヴァイキング(後述)・・ところの私の言う弥生人・・であるアルフレッド大王は、ブリトン人の影響を受け、「司法の運営を精査し、無知あるいは腐敗した裁判官による圧制から弱者を守るための措置を講じた。彼は『出エジプト記』における立法の原則、さらにケントのエゼルベルト(Æthelberht)王、ウェセックスのイネ(Ine)王(688–694)、マーシアのオファ(Offa)王(757–796)の法典を研究したうえで、重要な法典を公布した。その際も、弱者や被扶養者の保護に特別な注意を払った<上、>・・・十分な資力を持つすべての若い自由民が英語を学ぶべきだと命じ、自らの翻訳や協力者たちの翻訳によって「万人が知るべき最も必要な書物」、すなわち人々を知恵と徳へ導く書物の英語版を提供した」
https://www.britannica.com/biography/Alfred-king-of-Wessex
という人間主義的統治を行ったのであり、この伝統は、爾後のイギリス支配層によって概ね継承されていくことになった(コラム#113、114)。
また、ヤマト王権以降の日本と違って、アングロサクソンが持ち込んだ個人主義でブリトン人を含む全イギリス人が染め上げられたこと、かつ、第二次ヴァイキング侵攻(後述)以降、アングロサクソン社会、と、その後継たるイギリス、は、常に外からの脅威に晒され続け、有事において固い組織(コラム#3879)である軍や軍支援諸機関へと人々を結集する必要があった(後述)ことから、日本のようにエージェンシー関係の重層構造からなる社会を形成することこそできなかったけれど、まあまあ他者を信頼できるところの、人間主義「的」社会ではあったことから、単層ないし二層からなる信託(trust)(注31)を生みだした。
(注31)信託は、「物的所有権を譲渡したあとに用益の受益を保証する行為」。用益の受益するのが自分の場合と第三者の場合とがある。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%A1%E8%A8%97
https://en.wikipedia.org/wiki/Trust_(law)
であり、個人主義の核心であるところの、所有権の用益や(譲渡を含む)処分の自由に抵触する行為であり、比較的最近まで、広義のアングロサクソン文明においてのみ存在した仕組みだ(上掲)。
なお、やがて、平時においても、軍や軍支援諸機関は維持されたところ、これら以外でも、営利・非営利の固い組織群が活躍するようになる。
イ 縄文人
歴史上の縄文人の人間主義性については説明は省略する。(コラム#4098等参照。)
だからこそ、人間主義と歴史上の弥生人・・私の言う弥生的縄文人・・によって人間主義的統治がなされた(コラム#省略)のであるし、他者を基本的に信頼できる人間主義社会であった(コラム#113、114)ことから、ヤマト王権当時から、エージェンシー関係の重層構造からなる社会(コラム#40、42、43)を形成し、現在に至っている。
(二)匠の精神
ア ブリトン人・アングロサクソン
イギリスには、ブリトン人とアングロサクソンの融合が生んだイギリスの職人的伝統がある。↓
「キリスト教の到来とともに、アイルランド美術は地中海とゲルマンの伝統の両方の影響を受け、後者はアイルランド人とアングロサクソン人との接触を通じて、いわゆるインシュラー様式(Insular Style)またはヒベルノサクソン様式(Hiberno-Saxon style)を生み出しました。この様式は8世紀から9世紀初頭にかけて黄金期を迎えましたが、その後ヴァイキングの襲撃によって修道院生活は深刻な混乱に陥りました。この時代後期には、ヴァイキングやノルウェー人とゲール人(Gaels)<(注32)>の混血人口を通じてスカンジナビアの影響も加わり、1169年から1170年のノルマン人の侵略とそれに続く<欧州>ロマネスク様式の導入により、ケルト美術は終焉を迎えました。 [要出典]
(注32)「北西ヨーロッパの先住したケルト系民族である。ケルト語派に属すゲール語を話す。ゲール人は子孫として現在のアイルランド人、スコットランド人を含む」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B2%E3%83%BC%E3%83%AB%E4%BA%BA
7世紀と9世紀に、アイルランドのケルト人宣教師がブリテン島のノーサンブリアへ旅し、アイルランドの写本装飾の伝統を持ち込みました。これは、アングロサクソン人の金属細工の知識やモチーフと接触しました。ノーサンブリアの修道院でこれらの技術が融合し、おそらくそこからスコットランドとアイルランドに伝えられ、<イギリス>の他の地域のアングロサクソン美術にも影響を与えました。制作された金属細工の傑作には、タラのブローチ、アーダの聖杯、デリーナフランの聖杯などがあります。採用された新しい技法はフィリグリー(filigree)<(注33)>とチップカービング<(注34)>であり、新しいモチーフにはインターレースパターンと動物の装飾がありました。
(注33)「伸ばして細い糸状にした金や銀などの貴金属を巻きつけたり、撚ったり、編み込んだり、曲げたり、プレートにロウ付けしたりして作り出す繊細な細工」
https://maisonmaheas.com/blogs/antiques/filigree
(注34)「木材などの素材に対して、刃物を使って小さな切り込みを入れる技法で、主に装飾的な模様やデザインを作成するために使用されます。この技法では、素材の表面から小さな「チップ」を削り取ることで、立体的な装飾が生まれます。」
https://goong.com/ja/word/chip-carving-%E3%81%A8%E3%81%AF-%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%AA%9E%E8%A8%B3%E3%81%A8%E6%84%8F%E5%91%B3/
ダロウの書(Book of Durrow)は、島嶼部で完全に彩色された福音書であり、約 700 年、リンディスファーン福音書(The Lindisfarne Gospels)によって、アイルランドサクソン様式が完全に発達し、幅広い色彩で輝いているように見える詳細なカーペットページが作られました。この芸術形態は、8世紀後半に最も精緻なインシュラー写本であるケルズの書(The Book of Kells)の成立によって頂点に達しました。反古典主義的なインシュラーの芸術様式は大陸の宣教地へともたらされ、中世の残りの期間、カロリング朝、ロマネスク様式、ゴシック様式の芸術に影響を与え続けました。」
https://en.wikipedia.org/wiki/Celtic_art
イ 縄文人
縄文文化は職人的文化でもあった。↓
「ドングリやトチノミなどの堅果は、食料とするために小河川などに作業場を設け、水漬けや灰汁を使ってアクの成分であるサポニンを渋抜きをする工程が必要であり、そのため灰が必要であった。灰を得るために大量の草木を燃やした事が、土器製法の発見につながった。あるいは土器を製作する際に生まれた灰から、ドングリやトチノミを渋抜きする方法が発見されたと考えられる。土器の製法と渋抜きの方法のどちらが先に発見されたかは不明だが、日本列島において世界的に見て最初期に土器が普及したのは、こうした事情によると想像される・・・
縄文土器は表面を凹ませたり粘土を付加することが基本で彩色による文様は少ない。しかし、文様が変化に富み多く用いられ、装飾は時には容器としての実用性からかけ離れるほどに発達した。この特徴は、日本周辺の土器にはみられない。・・・
岡本太郎は1952年に著した論評『縄文土器 民族の生命力』によって、現代美術の立場から縄文土器の再評価や意義付けを行い、その後の日本文化論に大きな影響を与えた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B8%84%E6%96%87%E5%9C%9F%E5%99%A8
「遅くとも縄文中期(紀元前5000年)ごろには翡翠製勾玉<(注35)>が作られていた」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B8%84%E6%96%87%E6%99%82%E4%BB%A3
(注35)「日本産のヒスイを、日本の工房で加工した物<。>・・・5世紀から6世紀にかけての新羅・百済・任那の勢力圏内で大量のヒスイ製勾玉が出土(高句麗の旧領では稀)して<いる。>・・・
勾玉に使われる宝石レベルのヒスイ(硬玉)の産地は、アジアでは日本とミャンマーにほぼ限られる事、朝鮮半島での出土例は日本より時期的にさかのぼるものが見られない事に加え、最新の化学組成の検査により朝鮮半島出土の勾玉が糸魚川周辺遺跡のものと同じ組成であることが判明し、倭から朝鮮半島へ伝播した事が明らかとなった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%92%E3%82%B9%E3%82%A4%E8%A3%BD%E5%8B%BE%E7%8E%89
ウ 各論
(ア)庭園
・イングリッシュガーデン(English landscape garden)
以下に目を通して欲しい。↓
「ルネッサンスの頃にイタリアで、傾斜や噴水、トピアリー<(topiary)>(注36)を使った整形された美しさが特徴のイタリア式庭園ができました。
(注36)「常緑樹や低木を刈り込んで作成される西洋庭園における造形物[1][2]。鳥や動物をかたどったり、立体的な幾何学模様を造る。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%94%E3%82%A2%E3%83%AA%E3%83%BC
17世紀になって、さらに平坦で花壇がシンメトリー(左右対称)に整えられたフランス式庭園ができました。
そして18世紀に入り、イギリスでグリーンをたくさん使った風景式庭園が作られるようになりました。その後19世紀に入ってから、農家などの小さな庭で自分たちが楽しむためのコテージガーデンが作られるようになりました」
https://lovegreen.net/flower/p265960/
「イングリッシュ・ガーデンは、自然の理想化された姿を提示した。ウィリアム・ケント(William Kent)<(注37)>らによって創造され、先駆けられたこの「非形式的」庭園様式は、建築的庭園への反発として生まれ、サルヴァトール・ローザ、クロード・ロラン、ニコラ・プッサンの風景画、さらに近年<欧州>の旅行者によって紹介された東洋の古典的な<支那>庭園から着想を得ており、それはアングロ=チャイニーズ・ガーデンに具現化された。
(注37)1685~1748年。「イギリスの造園家および建築家。であると同時に、画家、家具設計家。歴史的には建築家としてよりも造園家として重要な人物。今日イギリス式庭園、風景式庭園とよばれる庭園を創造し続けた。英国式は、当時にあって庭を含めたすべての自然が1つの空間としてみえる最初のものとされる。またケントの活躍した時代以降、カントリー・ハウスは景観を支配したり操作するのでほなく、調和するように設計されることとなっていった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%82%B1%E3%83%B3%E3%83%88
イングリッシュ・ガーデンには通常、湖、緩やかに起伏する芝生と樹木の林、古典的な神殿やゴシック風の廃墟、橋などの絵画的建築物が含まれ、牧歌的で理想的な田園風景を再現するよう設計されていた。ランスロット・「ケイパビリティ」・ブラウン(Lancelot “Capability” Brown)の作品は特に大きな影響を与えた。」
https://en.wikipedia.org/wiki/English_landscape_garden
上掲の教科書的記述↑では全く言及されていないが、イングリッシュガーデンは、上述の「ブリトン人のアニミズムと裏腹の関係にあった自然崇拝」が通奏低音としてイギリス人の自然観/庭園観の中に伏流水として流れていたのが、実に18世紀にもなってからだが、噴出してきたもの、というのが私の見方だ。↓
「イングリッシュ・ガーデンとして知られるようになった新しい様式は、造園家ウィリアム・ケントとチャールズ・ブリッジマン(Charles Bridgeman)<(注38)>によって考案された。
(注38)1690~1738年。「ガーデン・デザイナーで、ストウ庭園など、イギリスを代表する名園を多く造り出した人物。手がけた非対称型の庭園は、のちに自然主義的風景スタイルの庭・風景式庭園をイングリッシュガーデンデザイン型式の庭園として導き、またハハー (Ha-ha)といった庭園技法を考案した庭園史上の重要人物で、宮廷庭師をもつとめているが、彼の後継者たるウィリアム・ケント・・・などと比較すると記録も少なく、その経歴は不鮮明である。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%82%BA%E3%83%BB%E3%83%96%E3%83%AA%E3%83%83%E3%82%B8%E3%83%9E%E3%83%B3
ハハー。
https://en.wikipedia.org/wiki/Ha-ha
彼らは裕福なパトロンのために働き、その中には初代コーバム子爵リチャード・テンプル(Richard Temple, 1st Viscount Cobham)、第3代バーリントン伯リチャード・ボイル(Richard Boyle, 3rd Earl of Burlington)、銀行家ヘンリー・ホア(Henry Hoare)が含まれていた。これらの人物は広大な田園地を所有し、反王党派ホイッグ党の一員であり、古典的教育を受け、芸術の後援者であり、イタリアへのグランド・ツアーを経験していた。そこで彼らはローマの遺跡やイタリアの風景を目にし、それを自らの庭園に再現したのである。
ウィリアム・ケント(1685–1748)は建築家、画家、家具デザイナーであり、パラディアン様式の建築を<イギリス>に導入した人物である。ケントの着想はヴェネト地方におけるパラディオ<(注39)>の建築物やローマ周辺の風景と遺跡から得られた。
(注39)Palladian architecture。「<欧州>建築様式の一つで、ヴェネツィアの建築家アンドレーア・パッラーディオ(1508年-1580年)の作品から派生した。今日パッラーディオ建築として考えられているものは、彼の対称性や遠近法への理念と、ギリシャ・ローマの古典建築の伝統の原理から発展したものである。17世紀と18世紀のあいだ、パッラーディオによるこの古典建築の解釈はイギリスでパッラーディオ主義(Palladianism)として知られる様式へと発展した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%83%83%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%AA%E5%BB%BA%E7%AF%89
彼は1709年から1719年までイタリアに滞在し、古代建築や風景の数多くの素描を持ち帰った。彼の庭園は、彼が建てた邸宅のパラディアン建築を引き立てるように設計されていた。」
https://en.wikipedia.org/wiki/English_landscape_garden
・日本庭園
これは、説明を要しないだろう。↓
「庭園を庭園と建築とに分割してしまうのではなく、建築や自然さらには敷地が持つ雰囲気をも含めた総合的で都市計画的な空間構成を持って庭園とみなしている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%BA%AD%E5%9C%92
例1:池泉回遊式庭園
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9E%E9%81%8A%E5%BC%8F%E5%BA%AD%E5%9C%92
例2:枯山水
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9E%AF%E5%B1%B1%E6%B0%B4
(イ)妖精/お化け
・妖精(fairy)
「妖精<は、>・・・狭義では<イギリス>、スコットランド、ウェールズ、アイルランド、ノルマンディー等の神話や伝承の精霊や超常的な存在を指し、広義には他の国・地方・民族の同様の存在、例えばゲルマン神話のエルフ、メソポタミア地域のリリス、インド及び東南アジアのナーガ等を含む。・・・
ケルト族の神話や伝説には多種多様な数多くの妖精が登場する。ドワーフ、レプラコーン、ゴブリン、メネフネなど他の伝承の生き物と同様に、小人と呼ばれることもある。アイルランドではシー(sidhe)、スコットランドではディナ・シー(daoine sith)として知られている。
人の姿をしたもの、同じ呼び名をもつものでも、その身長については様々な言い伝えがある。昔から伝わる妖精は人間と同じかもしくは人間より背が高いとされている。ブリトン族の人々は、妖精は冷たい鉄が苦手であると信じていた。歴史家や神話の研究者は、この迷信の存在から、ケルト族<・・ケルト文化を継受することとなるバスク人(太田)・・>がやってくる前にグレートブリテン島に住んでいた人々の民間伝承が妖精の起源であると推測している。これらの人々の武器は石で作ったものだけであり、鉄の武器をもつケルト族の方が軍事的に優位に立った。
人の姿を取らない妖精も少なくない。旅人を惑わすウィルオウィスプは日本でいう鬼火、人魂である。家畜や身近な動物の姿の妖精も多い。猫は妖精的な生き物とされ、魔女の使い魔、魔女の集会に集まると考えられたり、そのものが妖精ケット・シーとされる。犬もアーサー・コナン・ドイルの『バスカヴィル家の犬』やJ・K・ローリングのハリー・ポッターシリーズに見られるように、墓守あるいは死に結びつけられる黒妖犬として登場する。馬の激しい気性は、御しがたい川の激流に結びつけられ川馬ケルピーや人を乗せて死ぬまで走る夜の白馬などとして登場する。
今日は、妖精は人間に好意的で優しい性格の生物とされることも多いが、歴史的には必ずしもそうではない。例えば妖精が人間の子供をさらって代わりに彼らの子供を置いていくという取り替え子(チェンジリング)の迷信は中世では広く伝わっていた。・・・ウィリアム・シェイクスピアの『真夏の夜の夢』ではチェンジリングでさらってきた子をめぐってオーベロンとタイターニアが仲たがいをする。
<欧州>の神話伝承やフォークロアに詳しい中世フランス文学の専門家」フィリップ・ヴァルテールは、神話群においてみられる女神の住処としての機織り場、そこで紡がれる(織られる)糸によって人間の運命が左右される、というモチーフは、「ケルトの妖精、ギリシアのニンフ、日本の女神を結びつける」と論じている。
アーサー王と円卓の騎士にまつわる伝承には、現在想像される妖精とは印象が異なるが、数多くの妖精が登場する。アーサー・ペンドラゴンにエクスカリバーを渡した湖の女性の腕、赤子のランスロット卿を養育した湖の婦人は、湖の妖精である。魔女モルガン・ル・フェイのフェイ(フェ)は、フェアリーのことである。ガウェイン卿と緑の騎士に登場する緑の騎士の不死の力は、植物の勢いや再生力に結びつけられ、パックなど緑衣をまとう多くの妖精と同じく、森林信仰に起源があるとされる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A6%96%E7%B2%BE
「ヴィクトリア時代とエドワード時代には、妖精への関心が大幅に高まった。 ケルト復興運動は、妖精をアイルランドの文化的遺産の一部として位置づけた。 キャロル・シルバーらは、このようなイギリスの古物研究家たちの魅了は、産業化の進展と古い民俗的生活様式の喪失への反動から生じたのだと示唆している。」
https://en.wikipedia.org/wiki/Fairy
かかる背景の下、ファンタジー文学がイギリスに生まれた。
実際、このうち、『ベーオウルフ』とアーサー王伝説(上出)群はイギリスのものだし、近現代に至っては、イギリスのものの独壇場だ。↓
「文学史の中にファンタジーの起源を求めると、古代・中世の書物に記された神話や伝説、英雄物語などに行き着く[要出典]。例えば『ベーオウルフ』、『ニーベルンゲンの歌』、中世ロマンス、アーサー王伝説群などが挙げられる。・・・
最初期のファンタジーは、主に児童文学の領域にみられる。すなわちチャールズ・キングスレー『水の子 陸の子のためのおとぎばなし』(1863年)やルイス・キャロル『不思議の国のアリス』(1865年)などである。これらは、すでに単に子供向けではない大人向けの含蓄が含まれる点で、初期ファンタジー文学としての特質を有している。その後の流れとしては、ライマン・フランク・ボーム『オズの魔法使い』(1900年)、ジェームス・マシュー・バリー『ピーター・パンとウェンディ』(1911年)、パメラ・トラバース『風にのってきたメアリー・ポピンズ』(1934年)などが挙げられる。これらもファンタジー文学、児童文学両方の扱いがなされる。 ・・・
ファンタジー文学のひとつの転機となったのは、J・R・R・トールキンによる『指輪物語』(1937年から1949年執筆、1954年刊行)である。・・・
J・K・ローリングの『ハリー・ポッター』(1997年 – ) は、現代のイギリスを舞台に現実空間のすぐそばに魔法が通用する仮想空間を置くことで、リアリズム文学とファンタジー文学との融合を図る独特の作風を持ち、世界的なベストセラーとなっている。 」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%82%B8%E3%83%BC
・お化け
妖精もお化けも、アニミズム由来である点は同じだ。
但し、「日本語の「お化け」のような, 好奇心とユーモアを誘う単語は英語にはない. ただし, 子供の絵本に出る「お化け」は “spook” とよばれることが多い. 」
https://ejje.weblio.jp/content/%E3%81%8A%E5%8C%96%E3%81%91 ↓
「お化け(おばけ)とは、本来あるべき姿や生きるべき姿から大きく逸脱し、変化(へんか)した姿のこと。「変化(へんげ)」や「化け」、「化け物」、「大化け」ともいう。化けて生ることから「化生(けしょう)」とも呼ばれる。
このような概念には、天気雨にかかる虹(狐の嫁入り)や、自然の木々の紅葉や、昆虫の完全変態などは、本来の状態から大きく変化することであり、科学的な考察や説明がなければ驚きであろう。これらが自然に対する畏怖や畏敬になり、観念としての自然崇拝につながっていき、幽霊や妖怪やフェアリーなどのアニミズム観の根底に流れているといえる。
人にとって潜在的にある願望として、祭りなどで、「おかめ」や「ひょっとこ」になったり、縁日でお面を被る行為は、ハロウィンの仮装とも合い通じるが、自身の変装だけでなく、西洋文学のカフカの『変身』や、狼男になった人が満月の夜に変身してしまうという西洋の伝承などから、日本においても、時代劇の水戸黄門(ただの爺が、印籠により徳川御三家の副将軍の1人に変身すると受け取れる客観からの設定)や仮面ライダーやウルトラマンなどがある。
偶然に訪れる幸運にも、この「化け」や「大化け」が使われているが、そのときには対象そのものの変化だけではなく、期待値が大きく好いほうへ変化する、という射幸心や占いなどとも、結びついている感情ともいえる。ちなみに「勿怪の幸い」の本来の意味は、期せずして訪れた幸運は物の怪(お化け)がもたらしたもの、という意味である。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8A%E5%8C%96%E3%81%91
⇒さしずめ、鳥獣人物戯画、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B3%A5%E7%8D%A3%E4%BA%BA%E7%89%A9%E6%88%AF%E7%94%BB
は、12~13世紀における日本流ファンタジー漫画であるし、
鉄腕アトム
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%89%84%E8%85%95%E3%82%A2%E3%83%88%E3%83%A0
ニュータイプ(機動戦士ガンダム)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A9%9F%E5%8B%95%E6%88%A6%E5%A3%AB%E3%82%AC%E3%83%B3%E3%83%80%E3%83%A0
サイボーグ009
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%82%A4%E3%83%9C%E3%83%BC%E3%82%B0009%E3%81%AE%E7%99%BB%E5%A0%B4%E4%BA%BA%E7%89%A9
聖闘士星矢
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%81%96%E9%97%98%E5%A3%AB%E6%98%9F%E7%9F%A2
犬夜叉
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8A%AC%E5%A4%9C%E5%8F%89
ゲゲゲの鬼太郎、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B2%E3%82%B2%E3%82%B2%E3%81%AE%E9%AC%BC%E5%A4%AA%E9%83%8E
使徒達等(悪魔くん)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%82%AA%E9%AD%94%E3%81%8F%E3%82%93
うずまきナルト(NARUTO -ナルト-)
https://ja.wikipedia.org/wiki/NARUTO_-%E3%83%8A%E3%83%AB%E3%83%88-
ガッチャマン(科学忍者隊ガッチャマン)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%91%E5%AD%A6%E5%BF%8D%E8%80%85%E9%9A%8A%E3%82%AC%E3%83%83%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%9E%E3%83%B3
ドラえもん等(ドラえもん)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%83%A9%E3%81%88%E3%82%82%E3%82%93
パーマン
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%83%B3
オバケのQ太郎、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%90%E3%82%B1%E3%81%AEQ%E5%A4%AA%E9%83%8E
ひみつのアッコちゃん、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%B2%E3%81%BF%E3%81%A4%E3%81%AE%E3%82%A2%E3%83%83%E3%82%B3%E3%81%A1%E3%82%83%E3%82%93
黒猫ルナ/妖魔(美少女戦士セーラームーン)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%8E%E5%B0%91%E5%A5%B3%E6%88%A6%E5%A3%AB%E3%82%BB%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%A0%E3%83%BC%E3%83%B3
デビルマン
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87%E3%83%93%E3%83%AB%E3%83%9E%E3%83%B3
孫悟空(ドラゴンボール)、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%83%A9%E3%82%B4%E3%83%B3%E3%83%9C%E3%83%BC%E3%83%AB
魔法使いサリー、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AD%94%E6%B3%95%E4%BD%BF%E3%81%84%E3%82%B5%E3%83%AA%E3%83%BC
ウルトラマン、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%83%AB%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%9E%E3%83%B3
キキ(魔女の宅急便)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AD%94%E5%A5%B3%E3%81%AE%E5%AE%85%E6%80%A5%E4%BE%BF
ナウシカ、蟲達等(風の谷のナウシカ)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A2%A8%E3%81%AE%E8%B0%B7%E3%81%AE%E3%83%8A%E3%82%A6%E3%82%B7%E3%82%AB_(%E6%98%A0%E7%94%BB)
アシタカ(もののけ姫)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%82%E3%81%AE%E3%81%AE%E3%81%91%E5%A7%AB
トトロ/ネコバス(となりのトトロ)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%A8%E3%81%AA%E3%82%8A%E3%81%AE%E3%83%88%E3%83%88%E3%83%AD
ポルコ・ロッソ(紅の豚)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%85%E3%81%AE%E8%B1%9A
湯婆婆等(千と千尋の神隠し)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%83%E3%81%A8%E5%8D%83%E5%B0%8B%E3%81%AE%E7%A5%9E%E9%9A%A0%E3%81%97
ポニョ(崖の上のポニョ)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B4%96%E3%81%AE%E4%B8%8A%E3%81%AE%E3%83%9D%E3%83%8B%E3%83%A7
青サギ / サギ男(君たちはどう生きるか)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%9B%E3%81%9F%E3%81%A1%E3%81%AF%E3%81%A9%E3%81%86%E7%94%9F%E3%81%8D%E3%82%8B%E3%81%8B_(%E6%98%A0%E7%94%BB)
巨人(進撃の巨人)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%80%B2%E6%92%83%E3%81%AE%E5%B7%A8%E4%BA%BA
モンキー・D・ルフィ等(ONE PIECE)
https://ja.wikipedia.org/wiki/ONE_PIECE
竈門禰󠄀豆子/鬼(鬼滅の刃)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AC%BC%E6%BB%85%E3%81%AE%E5%88%83
ポケットモンスター
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%82%B1%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%A2%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BC
ニャロメ(もーれつア太郎等)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%83%A3%E3%83%AD%E3%83%A1
ハローキティ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%82%AD%E3%83%86%E3%82%A3
マリオ(マリオシリーズ)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%AA%E3%82%AA_(%E3%82%B2%E3%83%BC%E3%83%A0%E3%82%AD%E3%83%A3%E3%83%A9%E3%82%AF%E3%82%BF%E3%83%BC)
等の「お化け」が登場するマンガ/アニメ等とは、現代における日本流ファンタジー群である、と、言えよう。(太田)
(ウ)祖先崇拝行事
・ハロウィン
ケルト(ケルト文化の社会。以下同じ)において、「サウィン<(Samhain)祭>が来ると、農作物が収穫されて貯蔵された。家畜は野原から囲い込んで集められ、繁殖のために残された数頭を除いて屠殺され、冬の保存食として備蓄された。サウィンでは、10月31日の日没に終えたばかりの収穫を祝い、饗膳が並べられた。最良の収穫物と屠殺された家畜がそれぞれ持ち寄られ、共食に供された。ケルト人がアルコールを十分に味わえたのはこの日だけだったとも言われる。
ケルトでは祖先崇拝が行われていた。サウィンは死者の魂が現世に帰ってくる日ともされ、死者たちを迎えるための祭りであった。そのために家の門や扉、窓の施錠が外され、通路には灯が点されて死者が自由に入場できるようにされた。逝去した人の席を用意して、帰ってきた先祖のような良い死者をもてなすための御供えが行われ、晩餐を共にする風習があった。また、サウィンは異界と通じるとされる時期であることを利用し、占いが行われた。正しい言葉を発し、正しい行いをすれば未来を占うことができると考えられた。これは死者たちの知恵の恵みを期待したものである。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%B3%E7%A5%AD
「子供達が仮装してお菓子をねだるというスタイルはバチカン共和国で始まり、世界各地で真似されるようになった。 名前の由来はカトリック教会の万聖節の前夜祭(All Hallow’s evening→Hallow’s even→Hallowe’en)とされるが、万聖節自体はローマやフランク王国で7世紀~9世紀に始まり、17世紀には万霊節(11月2日)として<イギリス>やウェールズ、アイルランドで、これと似たお祝いがあった。 現在、万聖節は祝われず、カトリックでもプロテスタントでも、キリスト教ではハロウィンは正式な祝祭ではない・・・。・・・
サウィン祭が死者や祖先崇拝との関連を示す強い証拠はないが、当初5月13日であった万聖節(諸聖人の日)や万霊節を11月1日~2日に移動したことは、アイルランドや英国の影響とされる。
19世紀になりアイルランドおよび英国から大量に移民が<米国>へ到着し、万聖節が伝えられた。ハロウィンは19世紀半ばまで英語圏の移民共同体の内でだけの行事として行われていたが、徐々に<米>社会で変容し、<米国>の年鑑に祝祭日として記録された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%AD%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%B3
⇒ブリトン人には祖先崇拝行事があったところ、それが、イギリスにおいて万聖節と合体して万霊節となり、米国で盛んに行われるようになったものの、イギリスでは行われなくなった、というわけだ。(太田)
、
・お盆
日本では、祖先崇拝行事であるお盆は、現在でもまだ行われている。↓
「お盆(おぼん)は、日本で夏季に行われる祖先の霊を祀る一連の行事。日本古来の祖霊信仰と仏教が融合した行事である。8月13日 – 8月16日。
かつては太陰暦の7月15日を中心とした期間に行われた。
明治期の太陽暦(新暦)の採用後、新暦7月15日に合わせると農繁期と重なって支障が出る地域が多かったため、新暦8月15日をお盆(月遅れ盆)とする地域が多くなった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8A%E7%9B%86
(エ)円い結界の存在
・ケルト十字
「アイルランド<、>と<、>大ブリテン<島>のケルト地域<、>では、支柱を持たない多くの十字架が立てられ、最初期のものは遅くとも7世紀にさかのぼる。これらの<円環を伴う>ケルト十字
< https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B1%E3%83%AB%E3%83%88%E5%8D%81%E5%AD%97#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Crossed_circle_(bold).svg >
の中にはルーン文字の碑文が記されたものがある(ルーン石碑)。いくつかはアイルランド以外にも、コーンウォール(ペランポースの聖ピランの十字などが有名)やウェールズ、ヘブリディーズ諸島などに残っている。他にもカンブリア州やスコティッシュ・ボーダーズに十字架があるが、いくつかは似通ったアングロ=サクソン十字である。・・・
アイルランドでは、聖パトリックが異教のアイルランド人を改宗させる際にこのケルト十字を創った、という伝説が広く信じられている。彼はキリスト教のシンボルであるラテン十字と太陽のシンボルである円環を組み合わせたとされる。これは太陽の生命の源としての属性を十字と結びつけることで、十字の重要性を異教の信者だったアイルランド人にキリスト教を布教しやすくするためだったとされる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B1%E3%83%AB%E3%83%88%E5%8D%81%E5%AD%97
(もっとも、ブリトン人の時代より前の大ブリテン島にも、ストーンヘンジ(コラム#14648)のような円い結界は存在していた。)
・茅の輪
偶然なのか、必然なのかはともかく、ブリトン人と縄文人にはこんなところも似通っている。↓
円い「茅の輪くぐり(ちのわくぐり)とは、 神社の境内に設置された大きな「茅の輪」を潜り抜けることで、半年間の罪や穢れを祓い清め、病気や厄災を免れることができる、厄落としとして行われます。」
https://korekarano.org/chinowa
円い「土俵は、力士が入場の際に柏手を打つなど神がいる場所とされてきた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%9F%E4%BF%B5
(オ)口伝の伝統
「ケルト語には書き言葉が存在したが、それが発展したのはキリスト教時代に入ってからであった。したがって、ケルト人の歴史の大部分においては、文化の伝承は口承に依存しており、主に吟遊詩人や詩人たちの働きによって支えられていた。」
https://www.britainexpress.com/History/Celtic_Britain.htm
上掲から、かつて、「ブリトン人は書き言葉を持っていなかった。もっともこれは、彼らの口伝重視の文化のせいでもある。」(コラム#379)と書いたところ、引用前段は誤りだったわけだ。
他方、日本に関しては、口伝の伝統が弥生時代の最初に既に確立していて、つい最近まで続いた(コラム#11243、11554、11556、11557、11566、11697、11702、11796、11826、11921、12456、12652、13309、15215)ところであり、これまた、偶然なのか、必然なのかはともかく、両者は似通っていることになる。
二 相違点
(一)時期
ブリトン人時代は、「紀元前1300年頃〜紀元前800年頃までの500年以上の中で起きた青銅器時代の<欧州大陸から>ブリテン南部への<人々の>移住」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%AA%E3%83%88%E3%83%B3%E4%BA%BA
から、紀元450年頃にイギリス地域でアングロサクソン時代が始まるまで、であるのに対し、縄文時代は、「14000年頃~前10世紀頃」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B8%84%E6%96%87%E6%99%82%E4%BB%A3
なので、ブリトン人時代が始まった頃に終わっている。
しかし、時期こそ古いけれど、縄文時代の方がブリトン人時代より圧倒的に長かったということもあり、ブリトン時代の現在のイギリスへの影響度に比して、縄文時代の現在の日本への影響度が小さいとは全く言えないだろう。
(二)社会
ア ブリトン人
私見では、人種的には、ブリトン人はケルト人ではなく、ケルト文化を継受したバスクだったところ、ケルト社会は、(男女は平等で耕耘用牛以外は共有で子供は母親の男兄弟が養育する)氏族(Clan)制に立脚した農業社会だった。↓
「ケルト人(Celts)の生活の基本単位は氏族であり、いわば拡大家族のようなものであった。「家族」という語はやや誤解を招く表現である。というのも、記録によればケルト人は独特な子育ての方法を実践していたからである。彼らは子どもを自分で育てるのではなく、他人に預けた。子どもは実際には里親によって育てられ、里父はしばしば生母の兄弟であった。
ケルト人は戦っていないときには農民であった。彼らがブリテンにもたらした興味深い革新の一つが鉄製の犂である。従来の犂は扱いにくいもので、基本的には先端を尖らせた棒を二頭の牛に繋いだだけのものだった。それは軽い高地の土壌を耕すには適していたが、鉄製の重い犂はそれ自体が農業革命であり、豊かな谷や低地の土壌を初めて耕作可能にした。
しかし、それには代償があった。犂を引くには通常八頭の牛のチームが必要であり、その大きなチームを方向転換させる困難を避けるため、ケルト人の畑は長く狭い形をとる傾向があった。このパターンは今日でも国の一部で見ることができる。
ケルト人の土地は共同所有され、富は主に所有する牛の群れの規模に基づいていたようである。
女性の境遇は当時の多くの社会よりもはるかに良かった。彼女たちは形式上男性と平等であり、財産を所有し、自ら夫を選ぶことができた。さらに彼女たちは戦の指導者にもなり得たことを、後にブーディカ(ボアディシア)(Boudicca (Boadicea))が証明している。」
https://www.britainexpress.com/History/Celtic_Britain.htm
イ 縄文人
男女は平等で分配において平等な二世代同居竪穴住居群からなる集落制に立脚した、狩猟採集を主、農業を従とする(土地を含む生産財所有概念のない)定住社会だった。↓
「男性が婿に入って妻方に住む婿入り婚、あるいは男性の通い婚だったのではないかと推測されています。
縄文人の家族は両親とその娘と婿、子供たちという母系社会の構成が多かったのかもしれません。ただ東日本では、初期にどちらの実家に入るか選択的な傾向が見られ、後期中葉までに母系から嫁入り婚の父系社会へ移行したと考えられています。」
https://articles.mapple.net/bk/24183/?pg=2
「富や権力が特定の個人に集中した形跡が見られない点があります。王や首長のような支配者の存在を示す、突出して豪華な墓や巨大な個人宅は見つかっていません。この事実は、収穫物や交易品が特定の誰かに独占されるのではなく、共同体の中で公平に分配されていた可能性を示唆しています。」
https://lifepf.net/action/liberal-arts/social-science/sociology/national-theory/taxation-from-a-sociological-perspective/8720/
(三)戦争
ア ブリトン人
ブリトン人は私の言う縄文人・・人間主義者・・であったと思われるにもかかわらず、戦争愛好者だった。↓
「ケルト人は戦を好んだ。戦が起こっていなければ、必ず自ら始めようとした。
ケルト人は戦闘において軽戦車を大いに用いた。二頭の馬に引かせたこの戦車から敵に槍を投げ、そして下馬して重く鋭い剣で斬りかかった。
しかし彼らは互いに争うことをやめられず、統一された戦線を築くことができなかった。各部族は自分たちの利益だけを追求し、その結果として最終的にブリテンの支配を失うことになった。」
https://www.britainexpress.com/History/Celtic_Britain.htm 前掲
⇒これだけなら、ブリトン人は私の言う弥生人だった、ということになってしまうが、そうだとすると、ブリトン人が統一国家を形成できなかったことが説明できなくなる。
本当に戦争が好きなら、勝利を収めれば更に戦争を続けることによって、早晩、統一が果たされてしかるべきだろうし、その上で領域外に支配を伸ばしていてもしかるべきだろうが、そういったことは一切起こっていない。
話は逆で、彼らは戦争が好きだったというより、戦争を集団スポーツとして楽しんだということだったのではないか。
(これは、ブーディカ(Boudica/Boudicca。~60/61年)率いるブリトン人のイケニ(Iceni)族のローマへの反乱の最後の、ワトリング街道の戦い(Battle of Watling Street)において、この「反乱軍<が>、彼ら自身の家族が控えるために戦場の後方に弧形に配置していた荷馬車群に阻まれ、攻撃を回避できずことごとく<ローマ軍に>倒され<てしまっ>た」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%BC%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%AB
ところ、これは、家族が「スポーツ」たる戦争を見物するためにブーディカ軍に随伴していたことを意味するのではなかろうか。
また、アイルランド人も、ローマによる大ブリテン島中/南部の征服までの「第1には氷河の後退により旧石器時代に最初にやってきた人類集団、第2には新石器時代に農業と巨石文化をもたらした人々、第3には青銅器時代・鉄器時代に欧州大陸から渡来した人々<・・実はバスク人!(コラム#14554)・・>」によって構成されていた
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%83%AB%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89%E4%BA%BA
ところ、アイルランドが統一されることなく、また、アイルランド人が小ブリテン島(アイルランド島)から外征したことがなく、逆にBC1世紀にはスコットランドの謎の民族のピクト人に支配されてしまっていること
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%83%AB%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%83%AB%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89%E4%B8%8A%E7%8E%8B
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%94%E3%82%AF%E3%83%88%E4%BA%BA
が想起される。)
なお、そう考えることによって、アングロサクソン時代を経て、イギリスに集団スポーツ文化が花開いた理由を説明できよう。
サッカーの例で言えば、どちらもサッカーであるところの、「フットボールやカルチョのような遊びは近世末まで<欧州>各地で行われていた。<イギリス>で行われていたものについては、決められたルールなどなく、色々なやり方でプレーされており、そのため極めて乱暴で、殺人を除くあらゆる手段が使われ、時に死者を出すことすらあった」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%83%E3%82%AB%E3%83%BC
ことを想起せよ。
(付言すれば、イギリスでテニスを始めとする個人スポーツ文化もまた花開いたわけだが、こちらの方は、アングロサクソンの大部分が私の言う弥生人の最たるものであるヴァイキングであったところ、このヴァイキング由来だろう。↓
「決闘は、ヴァイキング社会において単なる力比べではなく、・・・審判や証人が立ち会<う>・・・「ホルムガング」と呼ばれる形式で行われ<るところの、>・・・法的な手段として位置づけられてい・・・た。これにより、個人間の争いを合法的に解決する手段として決闘は重視されていた・・・。」
https://viking.europa-japan.com/category_culture/entry30.html
更に付言すれば、かかる日常的な弥生性の涵養が、(暴力的死を讃えるヴァイキング神話(後述)と相俟って、)ヴァイキングの襲撃と戦術の凄まじさをもたらした
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%82%A4%E3%82%AD%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%81%AE%E8%A5%B2%E6%92%83%E3%81%A8%E6%88%A6%E8%A1%93
のだ。)(太田)
イ 縄文人
他方、縄文人は私の言う縄文人(人間主義者)そのものであり、戦争忌避者集団だった。↓
「「縄文時代における暴力での死亡率はわずか1.8%である」との研究結果があります。
(参考URL:https://www.okayama-u.ac.jp/tp/release/release_id383.html)
これの研究は全国の縄文時代の遺跡242か所から2582点の人骨を収集し、暴力での死亡率を算出したものですが、暴力の痕跡があったのはわずか23点でした。
この結果は、他国や他の時代に比べると5分の1の割合だとか。
「縄文時代は世界一平和な時代だった」という説があるのも納得ですね。
全国各地に縄文時代の大規模な遺跡が見つかっていますが、そのほとんどに争いの形跡はなく、数千年単位で平和な時代が続いていました。
戦争は「武力(武器)を伴った集団間の争い」と定義付けられています。
矢が刺さった傷がある人骨は縄文時代の遺跡でも発見されていますが、そのほとんどが致命傷ではありません。
この傷が事故によるものなのか、戦争によるものなのか。それははっきりしていないようです。」
http://gmarch0.com/archives/1450
(3)大分岐の起点・・アングロサクソン文明の成立
さて、長い長い前置きだったが、本題に入ろう。
今回の「講演」の最大の眼目は、下掲の問題意識に私なりに答えることだ。↓
「大分岐(Great Divergence)のウィキペディア
https://en.wikipedia.org/wiki/Great_Divergence ◎
掲載の主要諸国の一人当たり<実質>GDP推計推移グラフ↓
https://en.wikipedia.org/wiki/Great_Divergence#/media/File:Maddison_GDP_per_capita_1500-1950.svg ▲
を見て(コラム#15220)から、◎の本文を読んだ際に、大分岐という観念は米国の国際政治学者のハンチントン(Samuel P. Huntington)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%9F%E3%83%A5%E3%82%A8%E3%83%AB%E3%83%BBP%E3%83%BB%E3%83%8F%E3%83%B3%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%B3
が1996年に初めて<欧州の奇跡(Europian miracle)的な意味で(上掲)>用いたものであるところ、それまでイギリス人は<大分岐が欧州とその他の世界の間ではなく、イギリスとその他の世界の間で起こったことを>韜晦<する>目的からそんなことはおくびにも出さずにいたのに、<こうなっては>やむをえず、その後、英国の経済史学者のブローベリー(Stephen Broadberry。1956年~)
https://en.wikipedia.org/wiki/Stephen_Broadberry
等が使い出すと共に、彼らはこの大分岐の時期を<、実はそれがイギリスの奇跡(English miracle)であったことがバレないように、慎重に、かつ、>次第に<、>遡らせつつあるけれど、私は、彼らイギリス人達は依然として韜晦を続けている、と勘繰っています。
というのも、▲から、私見であるところの本当の大分岐・・<これからは、>大分岐(改)と<でも>呼<んだ方がいいかもしれませんが、>・・は、イギリス・・米国はこの図には出て来ないのですが、イギリスを始めとする広義のアングロサクソン諸国・・、と、その他の西欧諸国を含む全世界、との間で起こった<上、それが始まった時期が極めて古いこと>が明らかだというのに、そのことに彼らがあえて<依然として>口を拭っているのは明らかだと私は思うからです。
私は、<このこと>に加えて、▲から、イタリアをイギリスが抜いたのが17世紀後半に過ぎず、しかも、他方で、<イギリスに刺激を受けて高度経済成長を始めた>ドイツとスペインの<経済>水準<が、イギリスと違って、その後も>長期にわたってイタリアを下回っていたことに<も>瞠目させられました。・・・
その上で、二つの問題意識が私に芽生えました。
イギリスの、ひいては広義のアングロサクソン諸国の「高度経済成長」の起点<・・すなわち、経済が離陸した時点・・>は、アングロサクソン<時代>なのではないのか、また、それが始まったのはなぜなのか、ということと、どうしてイタリアの経済水準は長期にわたってこれほど高かった<の>か、です。」(コラム#15252)
このうち、「どうしてイタリアの経済水準は長期にわたってこれほど高かったか」については、既に、一応の私なりの回答をお示しした(上述)わけだが、残ったところの、肝心のアングロサクソン時代が、そしてその時代のいつが、アングロサクソン諸国の「高度経済成長」の起点、すなわち経済が離陸した時点なのか、対する回答を試みよう。↓
イギリスは、ローマ統治時代に、「人口が200万から600万の間に増加し、その人口密度は、最も低い推定値であってもノルマン征服[直後の1086年]の時代まで<その水準に>再び達することはなかった。」(コラム#15256)
https://jmedia.wiki/%25E6%2588%2590%25E9%2595%25B7%25E3%2581%25A8%25E7%25B9%2581%25E6%25A0%2584%25E3%2581%25AE%25E6% ([]内)
これを日本と比べてみると、日本はアングロサクソン時代が始まった5世紀初に既に200万人は遥かに超えていて、7世紀初には600万人にも達している、
https://honkawa2.sakura.ne.jp/1150.html
という違いはあった。
要するに、古代における両「国」の人口は大差なかったと言ってよさそうであるところ、イギリスの方は、日本と違って、すきすきの状態が長く続いた時期があった、と言えそうなわけだ。
このことは、逆に言えば、ローマ時代の大ブリテン島が、既にいかに豊かであったかを物語っている。
さて、重要なのは、アングロサクソンはどういう人々だったのか、だ。
「<大>ブリテン<島東南部>は、移住の過程で自らのアイデンティティを慎重に保持した<、サクソン人とアングル人とジュート人という>三つの独立した「部族」によって定住されたのではなく、北<欧>および南スカンディナヴィアの沿岸各地から絶え間なく流入した人々によって定住された。サクソン人、アングル人、ジュート人がその中に含まれていたのは確かだが、フリジア人(Frisians)<(後出)>、スウェーデン人(Swedes)、フランク人(Franks)もまた加わり、互いに混じり合い、共同体を形成し、芸術文化を融合させて新たなものを創造した。・・・
⇒ということから、私は、アングロサクソンの大ブリテン島南東部侵攻は、ヴァイキング(による大ブリテン島)の第一次侵攻、と、捉えるべきだと考えるに至っている。
検証できるところの、英語・・但し古英語・・で書かれた最初の本であるベーオウルフ(前出)がヴァイキングの物語だからだ。
ベーダ(Beda。672/673~735年)による『イングランド教会史』が、恐らく、検証できるところの、イギリスで書かれた最初の書物なのだろうが、それはラテン語で書かれている
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%99%E3%83%BC%E3%83%80%E3%83%BB%E3%83%B4%E3%82%A7%E3%83%8D%E3%83%A9%E3%83%93%E3%83%AA%E3%82%B9 )
のに対し、「『ベーオウルフ』<(注40)の方>は六世紀スカンディナヴィアの政治を再構築する上ではほとんど役に立たないが、<、古英語で書かれているということもあり(太田)、>最初期のアングロサクソン王とその臣民の社会を照らし出す点においては比類なき存在である」とされているところ、私見では、それが「照らし出」している最重要な点は、アングロサクソンの過半とは仮に言えないとしても、少なくともその中心的な人々はヴァイキングであったことを示唆しているところにある。
(注40)「ベーオウルフ(英: Beowulf・・・)は、英文学最古の伝承の一つで英雄ベーオウルフ(ベオウルフ)の冒険を語る叙事詩である。約3000行と古英語文献の中で最も長大な部類に属することから、言語学上も貴重な文献である。・・・
デネ(デンマーク)を舞台とし、主人公である勇士ベーオウルフが夜な夜なヘオロットの城を襲う巨人のグレンデルや炎を吐くドラゴンを退治するという英雄譚であり、現在伝わっているゲルマン諸語の叙事詩の中では最古の部類に属する。
作品内部にも外部の言及としても成立の時期を特定する記述が存在しないため、必ずしも明らかではないが、8世紀から9世紀にかけての間に成ったと考えられている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%99%E3%83%BC%E3%82%AA%E3%82%A6%E3%83%AB%E3%83%95 」(コラム#15280)
そのことは、『ベーオウルフ』に登場する諸部族が、Geats:イェーアト族<、>Danes:デネ族<、>Jutes:ジュート族<、>Frisians:フリジア族<、>Swedes:スウェーデン族<、>Angles:アングル族<、>Wulfing:ウュルヴィング族、であって、内陸にいた(?)サクソン族(Saxons)こそ登場していないけれども、これら沿海諸部族は全てヴァイキングと言ってよい
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%99%E3%83%BC%E3%82%AA%E3%82%A6%E3%83%AB%E3%83%95 ←この中の「『ベーオウルフ』に登場する諸部族の支配領域の近似図」参照
からである上、『ベーオウルフ』のテーマが、北欧神話のテーマ・・「男であれ女であれ、命をかけて雄々しく悪と戦わなければなりません。悪との戦いに身を捧げ、勇敢に死を迎えることによってのみ、人々はアスガルドの一角にあるヴァルハラに憩うことが許されます。」(コラム#74)・・と同一だからだ。
また、7世紀前半に死去した、アングロサクソンのイーストアングリア王<(注41)>の船葬墓は、北欧神話の宗教観に則ったもので、
https://suichukoukogaku.com/sutton-hoo-and-kvalsund-ships/
これは、彼や彼の臣下たる支配層が紛れもなくヴァイキングであったことを示している。
(注41)レドワルド(Rædwald。6世紀後半~7世紀初頭。イーストアングリア王:599?~624年?)。「イースト・アングリア王国はブリテン島東部、現在のノーフォーク州とサフォーク州を併せた領域に六世紀から九世紀にかけて存在した七王国時代のアングル人の王国である。・・・ウォーデン(北欧神話の主神オーディン)の末裔ウェッハ(Wehha)がイースト・アングリア王国の最初の王であったといい、二代目とされるウッファ(Wuffa)王の名にちなみ、イースト・アングリアの王のことはウッフィンガス(Wuffingas)と呼ばれていたという。・・・
レドワルド王は・・・、ウッフィンガス朝四代目のイースト・アングリア王であるという。誕生から即位後にかけての早い時期のことは不明だが、ケント王エセルベルフト<(Æthelberht)>に従属する立場であった。治世初期、<この>ケント王エセルベルフトの勧めでケント王国でキリスト教の洗礼を受けたが、帰国後は家臣や王妃の反対にあい早々に妥協の道を選んだ。神殿にはキリスト教の祭壇と古くからの北欧の神々のための祭壇が併存していたという。・・・
<やがて、戦いを通じて>レドワルド王は大きく名声を高め、イースト・アングリア王国はケント王国の従属国の立場から自立、ブレトワルダとしてブリテン島に覇権を確立した。」(コラム#15292も参照のこと。)
https://call-of-history.com/raedwald_king_of_east_anglia/
「ブレトワルダ (Bretwalda) は、アングロサクソン社会の称号のひとつで、<イギリス>の七王国時代、アングロサクソン諸国の中でも最も勢力の強かった王のことを意味したと考えられている。・・・
アングロサクソン年代記とベーダの著作に書かれたブレトワルダ<には、>エール (サセックス王)<、>チェウリン (ウェセックス王)<、>エゼルベルト (ケント王)<、>レドワルド (イースト・アングリア王)<、>エドウィン (ノーサンブリア王)<、>オスワルド (ノーサンブリア王)<、>オスウィ(ノーサンブリア王)<、>エグバート (ウェセックス王):アングロサクソン年代記のみ羅列<、がある。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%AC%E3%83%88%E3%83%AF%E3%83%AB%E3%83%80
(私が、「アンブロサクソンはヴァイキング的ではないか」と「議論」を吹っ掛けた相手であるCopilotによれば、「サットン・フー船葬墓はヴァイキング時代より前のアングロサクソン王の墓であり、厳密にはヴァイキング船葬ではありません。しかし、スウェーデンのヴァルスガルデ船葬群との強い類似性や王家の起源を考えると、ヴァイキング文化の前段階にある「ヴェンデル期(550〜750年)」の北欧文化と密接に結びついた葬送儀礼と理解するのが学術的に妥当です。」だそうだが、語るに落ちた、と言うべきか。)
なお、この船が、これまで発見されたヴァイキングの船の中では、最大級であって、かつ、最も古い時期のものであること(上掲、及び下掲
https://suichukoukogaku.com/oseberg-ship/
https://suichukoukogaku.com/gokstad-ship/ )
は、ヴァイキング世界の中での、大ブリテン島中/南部地域の豊かさと先進性を示唆している。
また、同じく、、Copilotによれば、「『ベーオウルフ』が<イギリス>で書かれたのは、アングロサクソン人が北欧的起源を持ち、その英雄伝承を自らの文学として保存したからです。ヴァイキング時代より前に成立したこの詩は、北欧神話的世界観とキリスト教的要素が融合した「文化的架け橋」と位置づけられます。」というのだ。なお、サットン・フーで船葬されていた「レドワルドはキリスト教と伝統信仰を併存、ヴァイキングは北欧神話中心」なのだそうだ・・が、明らかに頭を抱えている様子が・・。)
ちなみに、私がシリーズで彼の本を取り上げたところの、マーク・モリス(Marc Morris)、も、このイーストアングリア王の祖先がイェ-アト人(Geats)たるベーオウルフであった可能性を指摘しているところだ。(コラム#15292)
更に言えば、「ベーダ<の>・・・「アングル人の教会史」によると、ブリトン人の王ヴォルティゲルンはピクト人の脅威に対抗してサクソン人を招聘、西暦449年、アングル人とサクソン人が三隻の船でブリテン島へ上陸、その後アングル人、サクソン人、ジュート人の三部族が大挙してブリテン島へ到着した。ヘンギストとホルサという兄弟がその指導者で、兄弟は北欧神話の主神ウォーデン(オーディン)の末裔で、多くの国の王家はウォーデンの血を引いているといい、ケント王エセルベルフトの祖がヘンギストであるともいう。」
https://call-of-history.com/kingdom_of_kent/
のだから、これも、歴代ケント王、ひいては、全アングロサクソン人の指導層、が、ヴァイキングであった、ことの傍証であると言えそうだ。
イーストアングリア王がケント王に従属していた時期がある(上出)のも、この2人のどちらもヴァイキング系であったとすれば、すんなり胸に落ちるというものだ。
(蛇足ながら、ウェセックスならぬ、サセックスの最初の王がエール(Ælle)という人物であったとする伝承は、今や、その真実性を否定されているし、単一の王を戴くサセックスという王国があったことすら、今では否定されている。
https://en.wikipedia.org/wiki/%C3%86lle_of_Sussex )
次に、「九世紀後半にウェセックス王アルフレッド<(大王)>の命で編纂が開始された「アングロ・サクソン年代記」によれば、西暦495年、チェアディッチ<は、>その息子キンリッチ<と>五隻の船団を率いて現在のハンプシャー州南部に上陸し・・・、519年、ウェセックス王国を建国してチェアディッチが初代の王となったとされている<が、>・・・複数の文献で伝えられる系譜によれば、チェアディッチの父の名はエレサ(Cerdic)<で、彼は、>北欧神話の主神ウォーデン(オーディン)の末裔であるとされている」
https://call-of-history.com/cerdic_king_of_wessex/
ところだ。
最後にノーザンブリア王国だが、もともとは北のベルニシア(Bernicia)王国と南のデイラ(Deira)王国という2王国であったところ、この両国はローマ撤退後のブリトン人の王国群だったが、デイラの初代アングル人王とされているのがエラ(Ælla。デイラ王:560?~588年)であり、彼もまた、オーデンの子孫とされているし、
https://en.wikipedia.org/wiki/%C3%86lla_of_Deira
ベルニシアの初代アングル人王とされているのがイダ(アイダ)(Ida。ベルニシア王:547?~559年?)で、
https://grokipedia.com/page/Ida_of_Bernicia
654年にベルニシア王がデイラ王国を併合する形でノーザンブリア(Northumbria)王国が成立する
https://en.wikipedia.org/wiki/Northumbria
ところ、具体的には、「ベルニシア王アエセルフリス(Æthelfrith。王:593–616)が、デイラを掌握し、これによってノーサンブリア王国を形成した。彼は戦いにおいてデイラ王家の代表であるエドウィンの支持者によって討たれ、その後エドウィンが両王国を支配した。しかしその後は、極めて短い期間を除き、ベルニシア王家が統一されたノーサンブリアを支配した。」
https://www.britannica.com/place/Northumbria
というのだが、アイダの祖先は不明ながら、要するに、「ベルニシア王イダの王朝は、シュレースヴィヒ=ホルシュタイン(Schleswig-Holstein)地方のアングル人(Angles)に由来し、5〜6世紀に大ブリテン島へ渡ってきました。イダはベルニシアを建国し、その王統は後に強大なノーサンブリア王国へと発展しました。」(Copilot)
「ジュート人(Jutes)はコンゲオー地域と半島のより北方の地域の双方に居住していた。一方、在来のアングル人は、後にハイタブー(Haithabu)やシュレスヴィヒの町が成立するあたりに住んでおり(もともとはシュレスヴィヒ南東部のアンゲルン(Angeln)に中心を置いていた)。」
https://en.wikipedia.org/wiki/History_of_Schleswig-Holstein
「古代のアンゲルンが、現在その名で呼ばれている地域に対応していたのか、あるいはより広い範囲を指していたのかは明らかではない」
https://en.wikipedia.org/wiki/Angeln
が、現在のアンゲルンは、ドイツに属しているけれど、現在のデンマーク国境に接している地域だ。
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/3/33/Schleswig-Holstein.png
この地域は、後に、正真正銘のヴァイキングであったクヌート(Cnut。990?~1035年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%8C%E3%83%BC%E3%83%881%E4%B8%96_(%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89%E7%8E%8B)
が、英・デンマーク・ノルウェーにまたがる地域を支配した時のデンマーク「本国」に含まれていた
https://en.wikipedia.org/wiki/Cnut#/media/File:Cnut_lands.svg
ということもあり、百歩譲ってアングル人が大ブリテン島にその大部分が渡り、かつその後にデンマーク人が南下してきたのだとしても、彼らは、もともと、ユトランド半島の北部にいたジュート人
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%88%E4%BA%BA
といわば手を携えて大ブリテン島へ渡った・・もっと南ないし南西にいたサクソン人もその時一緒だったことになっているが、史実かどうか疑わしい(後述)・・人々であったことから考えても、彼らは、その後のデンマーク人とほぼ同じヴァイキング文化の担い手であった、と、私は見ている次第だ。
以上から、歴史上実在したと目されるアングロサクソン時代のブレトワルダの全員が(祖先は)ヴァイキングであった・・この「ヴァイキングであった」という表現がどうしても気に入らないのならば、百歩譲って「後にヴァイキングと呼ばれることになった」としてもよいが・・ことになる。
[ヴァイキング]
ヴァイキングないしヴァイキング時代なるものは、イギリスにおいて、一般に次のように説明されている。↓
「ヴァイキング(英: Viking、典: viking、独: Wikinger)とは、ヴァイキング時代(Viking Age、800年~1050年)と呼ばれる約250年間に西<欧>沿海部を侵略したスカンディナヴィア、バルト海沿岸地域の・・・北方系ゲルマン人<の>・・・武装集団を指す言葉<であり、>・・・[ノース人、や、]ノルマン人とも呼ばれ<、>・・・9世紀に入って侵略などを活発化させた。・・・
略奪を専業としていたのではなく交易民でもあり、故地においては農民であり漁民であった。・・・
各地に進出し、北<欧>の歴史に大きな影響を残したが、次第に各地に土着してゆくとともに海上の民としての性格を失い、13世紀までには、殆どのヴァイキングは消滅した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%82%AD%E3%83%B3%E3%82%B0
「スカンディナヴィア史におけるヴァイキング時代は、793年に記録された最初のノース人(Noresemen)の<大ブリテン島>襲撃から、1066年のノルマン・コンクエスト(イギリス征服=(Morman Conquest)までの期間とされている。」
https://en.wikipedia.org/wiki/Vikings []内も
「793年<の>ヴァイキングによるリンディスファーン(Lindisfarne)襲撃(Sacking)は、イギリス北東海岸沖の島リンディスファーン(Lindisfarne)にある修道院を標的としたものであった。この攻撃は・・・、しばしばヴァイキング時代の始まりと見なされている。」
https://en.wikipedia.org/wiki/Sack_of_Lindisfarne
「ヘイスティングズの戦い(・・・Battle of Hastings、フランス語: Bataille d’Hastings)は、1066年10月14日に<ヴァイキングを祖先に持つ>ノルマンディー公(Duke of Normandy)ギヨーム(Guillaume)2世のノルマン・フランス軍とアングロサクソン王ハロルド・ゴドウィンソン(Harold Godwinson)指揮下の<イギリス>軍との間で戦われ、イギリスにおけるノルマン征服の端緒となった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%98%E3%82%A4%E3%82%B9%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%82%BA%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
また、ノース人ないしノルマン人、と、ヴァイキング、という言葉やそれら相互の関係は次の通りだ。↓
「ノース人(Norsemen)(あるいは北の人(Northmen))は、初期中世におけるゲルマン系の文化集団であり、スカンディナヴィアにおいて古ノルド(古ノース)語(Old Norse)を話す人々の間から起こった。8世紀後半になると、スカンディナヴィア人は四方に大規模な拡張を開始し、これによってヴァイキング時代が到来した。19世紀以降の英語圏の学術研究においては、ノースの海上交易者、入植者、戦士たちは一般に「ヴァイキング」と呼ばれてきた。 アングロ=サクソン期イギリスの歴史家たちはしばしば「ノース」という語を異なる意味で用い、ノルウェー出身のノース・ヴァイキング(ノース人)と、主としてブリテン島北方・北西方の諸島やアイルランド、西ブリテンを侵略・占拠した者たちを指す一方で、デンマーク出身のヴァイキングを、主としてブリテン島東部を侵略・占拠した者たちとして区別している。
「Norseman(ノース人)」という語が英語に初めて登場するのは19世紀初頭である。オックスフォード英語辞典第3版に示される最古の用例は、ウォルター・スコットの1817年の作品 Harold the Dauntless に見られる。この語は形容詞 norse をもとに造られたものであり、norse は16世紀に「ノルウェー人」という意味でオランダ語から英語に借用された語であったが、スコットの時代までには「スカンディナヴィア、あるいはその言語に関する、特に古代または中世に関する」という意味を獲得していた。したがって、現代における viking という語の用法と同様に、norseman という語には中世の用法に基づくものとは言い難い。
「Norseman(ノース人)」という語はしかしながら、中世においてノルド語話者に対して彼らと遭遇した人々が用いた「Northman(北の人)」という意味の語を反映している。古フランク語の Nortmann(「北の人」)はラテン語化されて Normannus となり、ラテン語文献に広く用いられた。このラテン語 Normannus はさらに古フランス語に入り Normands となった。この語から「ノルマン人」および「ノルマンディー」という名称が生まれ、10世紀にはノース人によってノルマンディーが定住地とされたのである。・・・
古英語で書かれた『アングロサクソン年代記』は、ダブリンの異教徒ノルウェー系ノースマン(Norðmenn)と、デーンローのキリスト教徒デーン人(Dene)とを区別している。942年には、エドマンド(Edmund)1世王がヨークのノース王たちに勝利したことを記録しており、そこには「デーン人はかつてノース人の下に力づくで服従させられ、長きにわたり異教徒の束縛のもとに捕らわれていた」と記されている。
現代の学術研究においては、「ヴァイキング」という語は攻撃的なノース人を指す一般的な用語であり、特にブリテン諸島におけるノース人の襲撃や修道院略奪と結び付けられることが多い。しかし当時において、この語がそのような意味で用いられることはなかった。古ノルド語や古英語において、この語は単に「海賊」を意味していたのである。」
https://en.wikipedia.org/wiki/Norsemen
以上を踏まえれば、ヴァイキングなる言葉は、その核心的部分において、ノース人/デーン人やノルマン人という言葉とほぼ同義であって、中世の、ノルマン人の支配を受けた旧アングロサクソン人であった大多数のイギリス人、が、自分達自身が元々はヴァイキングであったことを韜晦するとともに、新しく自分達の支配者となったノルマン人を暗黙裡にヴァイキング視してディスるために、ノルマン人を除くこれらの言葉を8世紀末以降の海賊だけを指す言葉へと意味を限定して、互換的に使い始めたものであるらしいことが分かる。
これに、まんまと、欧州人や日本人を含む、イギリス人以外の世界の全ての人々が、誑かされてきてしまった、というわけだ。
そこで、私は、ヴァイキングという言葉を、広義のスカンディナヴィアに淵源を持つ海賊的侵攻者、を指す言葉と広く再定義した上で、ノース人やデーン人やノルマン人という言葉は、特定の時期における、特定の地域に侵攻したヴァイキング、を指すものとして、限定的に用いることとするのが望ましい、と、考える。
以上を踏まえれば、9世紀半ばからのデーン人を中心とするヴァイキングの大ブリテン島侵攻
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87%E3%83%BC%E3%83%B3%E3%83%AD%E3%82%A6
は第二次ヴァイキング侵攻、11世紀のノルマン・コンクエスト
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%AB%E3%83%9E%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%82%AF%E3%82%A8%E3%82%B9%E3%83%88
は第三次ヴァイキング侵攻、と理解すればよいことになる。
そして、このヴァイキング第三次侵攻には、11~12世紀の、ノルマン人による南イタリア征服
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%AB%E3%83%9E%E3%83%B3%E4%BA%BA%E3%81%AB%E3%82%88%E3%82%8B%E5%8D%97%E3%82%A4%E3%82%BF%E3%83%AA%E3%82%A2%E5%BE%81%E6%9C%8D
及び、1096年から1249年にかけて行われた累次の十字軍
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E5%AD%97%E8%BB%8D
も含まれる、と。
(「十字軍とは教皇が呼びかけ、参加者に贖宥を与える軍事行動に与えられる名称である」(上掲)が、レコンキスタ(Reconquista)、北方十字軍(Northern Crusades)、アルビジョア十字軍(Croisade des Albigeois)、等のその他の諸十字軍はヴァイキング侵攻には含めない。
ヴァイキング系を中核とする勢力の非ヴァイキング勢力に対する侵攻ではないからだ。
レコンキスタについては、「732年、トゥール・ポワティエ間の戦いでフランク王国の宮宰カール・マルテルが勝利を収め、ムスリム勢力のピレネー以北への進出を阻止した」https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AC%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%82%AD%E3%82%B9%E3%82%BF
けれど、ここまではリコンケストではないし、「その後の751年にメロヴィング朝からカロリング朝へ代替わりすると、フランクは拡張政策に転換し、イベリア進出を狙い始めた<が、>・・・778年、カール大帝率いるフランク軍は南下してサラゴサを包囲<するも>、本国での反乱の知らせに撤退を余儀なくされ<、その後、9世紀になって>・・・カタルーニャ<をムスリム勢力から奪回するが、>・・・カタルーニャはしだいにフランクと距離を置き始め、やがては完全な独立勢力となっ<てしまい、> 」(上掲)弥生人ですらないバスク人を創始者とするナバーラ王国の後裔のアラゴン王国に事実上吸収されてしまう
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%A9%E3%82%B4%E3%83%B3%E7%8E%8B%E5%9B%BD
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8A%E3%83%90%E3%83%A9%E5%90%9B%E4%B8%BB%E4%B8%80%E8%A6%A7
ことから、フランクはリコンケスタに部分的にしか関与していないと言うべきだろう。
なお、カール・マルテルもカール大帝(シャルルマーニュ)もサリ・フランクなる、狭義(真正!)ならぬ広義のヴァイキングのしかも落ちこぼれの中の上澄み(後述)の出自でしかないことに注意。
また、レコンキスタの創始者は、ムスリム勢力によって崩壊させられた西ゴート王国の貴族と称し、アストゥリアス王国を建設することとなるペラーヨ(Don Pelayo。?~737年)とされている
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9A%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%A8
ところ、彼が仮に西ゴート人だったとしても、広義のヴァイキングですらないゲルマン人に過ぎないからだ。
確固としたリコンケスタの始まりは、「80<9>年、アスナール・ガリンド1世がアラゴン伯領を興し、次いで824年、イニゴ・アリスタがナバーラ王国(パンプローナ王国)を興した」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AC%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%82%AD%E3%82%B9%E3%82%BF 前掲
時との説があるところ、リコンケスタに関係ないかもしれないガリンド1世(Aznar Galíndez I。~839年)は、フランク王国のアラゴン伯たる恐らくはバスク人であった
https://en.wikipedia.org/wiki/Aznar_Gal%C3%ADndez_I
し、リコンケスタに貢献したことが間違いないアリスタ(Íñigo Arista。790?~851/852年)の方はれっきとしたバスク人だ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%8B%E3%82%B4%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%82%BF
また、北方十字軍については、ドイツと北欧のヴァイキング率いるカトリック勢力と同じくロシアのヴァイキング率いる正教勢力の、異教地域を自派に改宗させて自分の勢力圏に組み込もうとする争いに他ならなかった
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%96%B9%E5%8D%81%E5%AD%97%E8%BB%8D
からだ。
そしては、アルビジョア十字軍については、カトリック勢力のフランス北部とカトリックの異端たるアルビ派(カタリ派)のフランス南部との争いに他ならなかった
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%93%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%82%A2%E5%8D%81%E5%AD%97%E8%BB%8D
からだ。
そして、第四次ヴァイキング侵攻が、1414年にポルトガル、スペインという第一陣、オランダという第二陣、を露払い的に活用したところの、いわばヴァイキング総本舗たるイギリス、の、地理的意味での欧州、の外、への進出である、ということになろう。
(中世<に>東<部欧州>に侵入したヴァリャーグ<(ヴァイキング)>の内、ルーシ・カガン国やノヴゴロド公国及びキエフ大公国を建国した集団<である>・・・ルーシ族」に係る、彼らを「スウェーデン人の一グループと<する>・・・ノルマン説」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%82%B7%E6%97%8F
が正しいとすれば、このスウェーデン・ヴァイキングたるルーシ族の首長リューリクによるところの、862年とされるノヴゴロド占領、に始まる1136年のロシア最初の国家建設
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%B4%E3%82%B4%E3%83%AD%E3%83%89
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%B4%E3%82%B4%E3%83%AD%E3%83%89%E5%85%AC%E5%9B%BD
は、第二次ヴァイキング侵攻の一環である、ということになろうか。
その場合、17世紀後半からのロシアの東アジア侵出
https://www.y-history.net/appendix/wh1303-004.html
の位置づけが問題となるが、私は、モンゴルの軛
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BF%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%81%AE%E3%81%8F%E3%81%B3%E3%81%8D
より前からロシア(ルーシ)は、既に支配層も含め純スラブ化していたものの、ヴァイキング由来の弥生性は維持していたと見ており、そのことと相俟って、モンゴルの直接的・間接的支配を受けたことを通じて騎馬遊牧民由来の弥生性も帯びると共に、モンゴルの軛症候群を発症し、病的対外侵略行動(コラム#省略)をとるようになった、と、考えるに至っている。)
そうなると、海賊的侵攻ではないところの、ゲルマン人のBC750年頃に始まるスカンディナヴィア/北ドイツからの南侵だけがゲルマン人大移動、ということになるが、それは二回にわたった。(後述)
以上のような説は、ゲルマン人大移動が4回あったとし、欧州勢力の欧州外への進出をその最後の第四次ゲルマン人大移動であるとして私の旧説(コラム#10813(2019.9.21))の全面的修正、といういことになる。)
[私の言う弥生人の生誕について]
一 ゲルマン人(第一弥生人)の生誕
「1956年に[リトアニア出身でリトアニアとドイツの大学で学び、米国に移住した]マリヤ・ギンブタス(Marija Gimbutas)は、彼女の「クルガン仮説」を「クルガン考古学」と言語学を結びつけて、原<印欧>語を話す人々の起源に位置付けて提唱した。
ギンブタスは、明確な墳丘「クルガン」を伴う墳墓を持った「文化」を仮に「クルガン文化」と呼び、クルガン型の墳丘墓が<欧州>へ伝播していったことをつきとめた。この仮説は、<印欧>語族の研究に重要な影響を与えた。ギンブタスを支持する研究者たちは、クルガン文化には、紀元前5千年紀から紀元前3千年紀にステップや<欧州>南東部に存在した原<印欧語>族の民族的特徴が反映されていると考えている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%AB%E3%82%AC%E3%83%B3%E4%BB%AE%E8%AA%AC
「<印欧語>祖族の居住環境について、以下の基本的な特徴は広く合意されている。ただし・・・仮説段階を脱していない。
牛、馬、犬の飼育と牧畜<、>農業と穀物栽培<、>冬に雪が降る環境<、>水運<、>車輪(荷車に使われたが、戦車にはまだ使われなかった)<、>天空神の崇拝<、>口頭伝承による英雄的な詩や歌詞<、>父系の親族制度。・・・」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%A8%E3%83%BC%E3%83%AD%E3%83%83%E3%83%91%E7%A5%96%E6%97%8F
要するに、ギンブタスは、クルガン文化=印欧語祖族文化、としているわけだが、その彼女が、印欧語祖族と欧州原住民の関係について、前者を私の言う弥生人、後者を私の言う縄文人との関係に似た関係として捉えているのが面白い。↓
「ギンブタス<は、>・・・は、古<欧州>の社会・文化は女神を崇拝する母系的なものであったが、青銅器時代に父権的な<印欧>語族文化により征服された、と考えた。彼女の考えによれば、古<欧州>は平和であったが、<印欧>系のクルガン人は父権的戦士階級制度を押し付けた、ということになる。ただし、女神崇拝は疑問視されており、古<欧州>も決して平和な社会ではなかったとの指摘など、彼女の主張に対しては批判も多い。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%AA%E3%83%A4%E3%83%BB%E3%82%AE%E3%83%B3%E3%83%96%E3%82%BF%E3%82%B9 ([]内も)
このクルガン仮説そのものについても、この仮説を踏まえた印欧語族の拡大進路
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%AB%E3%82%AC%E3%83%B3%E4%BB%AE%E8%AA%AC#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:IE_expansion.png
についても、私は、強い説得力を覚える。
(欧州原住民の一つのバスク人の社会は女性優位だった(コラム#14554)ということが思い起こされる。)
さて、ここで、最近の次のような研究を紹介しておきたい。↓
「農耕社会は、狩猟採集社会よりもジニ係数が高く、つまり平等性が低い傾向があり、さらに家畜の利用は不平等を一層拡大することが多かった。家畜は犂による農耕を容易にし、その結果として少数の人々が広大な土地を耕作して利益を得ることにつながりうる。また、家畜は世代を超えて受け継ぐことができるため、世襲的な富の形成にもつながる。2017年、・・・ワシントン州立大学の・・・コーラー(Tim Kohler)の研究チームは、古代社会において東半球の方がアメリカ大陸よりも不平等であった主な理由は、東半球には家畜として使える大型動物が存在したのに対し、アメリカ大陸には植民地時代までそうした動物が欠けていたことにあると結論づけた。
古代のカルパティア盆地(Carpathian Basin)の社会は、紀元前6000年頃に農耕を始め、紀元前3500年頃には犂農耕を導入したと考えられている。しかし、キール大学の考古学者ポール・ダフィー(Paul Duffy)とその同僚たちが、この地域の110の遺跡から得られたデータを集め、大半について家屋の大きさに基づくジニ係数を算出したところ、技術が変化しても平均値は動かず、5000年間にわたり平均0.21前後にとどまっていたことが分かった。さらに、少数のエリートの墓に豪華な副葬品が供えられることで不平等が表れる墓地のジニ係数も、この期間を通じてほとんど変化を示さなかった。
これと同じ時期に、古代エジプトやメソポタミアのような地域では、犂農業の発展とともに不平等が増大していった。・・・・・・
犂農耕に家畜を用いることは、土地が不足している社会においてのみ不平等を増大させる傾向がある。例えばエジプトやメソポタミアでは、農業は河谷に限定されている。「犂そのものに土地の制約を必然的に生じさせる要素はないのです」と<オックスフォード大学の>ボガード(Amy Bogaard)は述べている。 さらにボガードによれば、カルパティア盆地の多くの社会は、彼女の言う「労働制約型(labor-limited)」であったように見える。労働制約型の社会では、指導者が過度に労働を要求すると不満を抱いた庶民は、利用可能な土地が豊富にあるため、単に他の場所へ移動することができる。実際、ダフィーによればカルパティア盆地の人々はしばしば「足で投票する」かのように既存の共同体を離れ、新たな共同体を形成していたという。
https://www.science.org/content/article/ancient-europeans-resisted-inequality-5000-years
印欧語祖族の社会よりもこの古代カルパティア盆地社会の方が古いことになるが、この両者の関係について、取り敢えずの私の仮説は、印欧語祖族中西進(西へ拡大)した人々の影響を受けてこの盆地社会人が印欧語を身に着け、その一方で、西進した印欧語祖族の方はこの盆地社会人の自由平等志向性を身に着ける、と言う形で両者が一体化し、一体化したまま、すぐ上で紹介した論理に基づき、逃散的西進を続けた、というものだ。
その中で進路を西北から更に北へと変更し、最も寒冷で厳しい環境の、いわば地の果ての、スカンディナヴィア半島、にまで逃散し、そこに定着したのがゲルマン人である、と。
そんな、ゲルマン人である以上、彼らが、印欧語族の中で、最も自由と平等を愛し、かつ冒険心に富んだところの強い弥生性を帯びた、人々、であったとしても、決して不思議ではない、ということになる。
(平等度について言えば、現在でも、例えば、米国のジニ係数は約0.42であるのに対し、ノルウェーのそれは0.23であり、カルパチア盆地時代の0.21と殆ど同じまま(?)だ。(上掲))
で、そんなゲルマン人が、今度は、BC750年頃から陸上を(恐らくは山賊的に)南侵を開始して、「紀元前3世紀までには西はオランダからライン川下流域、東はヴィスワ川流域、ドナウ川北岸、ドニエプル川下流域まで広がり、北ゲルマン、西ゲルマン、東ゲルマンの3つのグループを形成し」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B2%E3%83%AB%E3%83%9E%E3%83%B3%E4%BA%BA
たわけだが、その際には、南侵先には、欧州原住民ならぬ、同じ印欧語族のケルト人等だっていた筈だから、これらケルト人等をも掠奪し、またはけちらし、もしくは従属させるためには、彼らは印欧語族の中でも、相対的により高度の弥生性を帯びていた筈である、ということにもなる。
これを、私は、1回目のゲルマン人南侵、と、呼ぶこととしたい。
次いで、「紀元前後にスカンジナビア半島あるいはユトラント半島から南下し」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AC%E3%83%9E%E3%83%B3%E4%BA%BA
た北ゲルマン人が、268年頃にローマ領に侵攻し、現在のドイツ、スイスを経てイタリアまで脅かした後に最終的に374年にローマと和平し、アルプス山脈北西部のライン川上流で南ドイツでアレマン人(Alemanni)になった
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AC%E3%83%9E%E3%83%B3%E4%BA%BA
のが、2回目のゲルマン人南侵ということになろうか。
(下図の中央の緑の部分が、アレマン人がローマから割譲された領域だ。
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/aa/Barbarian_invasions_from_3rd_century.png )
今回は、南侵先は、ローマ領だったのだから、彼らは1回目に南侵したゲルマン人よりも更に突出して強い弥生性を帯びていたに違いない。
この2回目に南侵したゲルマン人についての、その「共同体は生産のためではなく,外国や奴隷に対する政治組織であり,共同労働は戦争に現れる。〈ゲルマン的共同体〉においても,古典古代的共同体と同様に自由な小土地所有が行われるが,ゲルマン人は互いに離れて自給的農業経営を営むので,軍事的にも結集しない。ここでは共同体は個々の土地所有者たる農民家族の,所有と生命の相互保障,紛争処理などのための同盟である。」
https://kotobank.jp/word/%E3%81%92%E3%82%8B%E3%81%BE%E3%82%93%E7%9A%84%E5%85%B1%E5%90%8C%E4%BD%93-3151315
ということから、動物にも広く見られる家族、以外の人間の社会制度が集団暴力の確保/行使・・広義の戦争・・目的で生まれた、という点が、ゲルマン人、と、(恐らくは)騎馬遊牧民、だけに見られる、つまりは、弥生人だけに見られる、特徴である、と、言えそうだ。
ちなみに、「古ゲルマン社会では土地があり余っていたため,従士制度という人的結合にのみ重点を置いた社会構造であったが,いまやローマ領内への移住により,土地保有の多寡が権力保持の基準となるというまったく新しい土地観念を植え付けられたわけで,この考えがやがて封土の授受となり,それと古い主従の観念とが制度的に結合して,あのユニークな西<欧>的封建制度をつくり出した」
https://kotobank.jp/word/%E6%B0%91%E6%97%8F%E5%A4%A7%E7%A7%BB%E5%8B%95-140123
わけだが、これは「ローマ領内へ・・・移住」したゲルマン人と移住しなかった西欧のゲルマン人だけに当てはまるのであって、大ブリテン島に移住/侵攻したゲルマン人たるアングロサクソンには当てはまらない、すなわち、アングロサクソン/イギリス、には封建制度が成立しなかった・・但し、ノルマンコンケストによってノルマン人が封建制度を部分的にイギリスに導入することになる(コラム#省略)・・ことに注意が必要だ。
さて、この2回にわたったゲルマン人南侵、とりわけその2回目のものこそ、同じスカンティナヴィア半島あるいはユトラント半島のゲルマン人(改め北ゲルマン人)によるところの、陸上侵攻ならぬ海賊的侵攻たる第一次~第四次ヴァイキング侵攻、の先駆形態であったと言えよう。
つまり、西進した印欧語族中、最も弥生性が強いのがゲルマン人であり、そのゲルマン人の中から、反転南侵したうちの1回目の者たちは更に弥生性が強く、反転南侵したうちの2回目の者達・・広義のヴァイキング・・は、それより更に弥生性が強く、この広義のヴァイキングの中で海賊的侵攻を行うこととなったところの、狭義のヴァイキングともども、世界最高度の弥生性を帯びた人々である、ということになりそうなのだ。
(日本で言われてきた、いわゆるゲルマン人の大移動
https://www.y-history.net/appendix/wh0601-009.html
は、現在では、日本では民族移動(300~700年代)、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%91%E6%97%8F%E7%A7%BB%E5%8B%95%E6%99%82%E4%BB%A3
英語圏では、Migration Period(移民期)(300年頃~600年)
https://en.wikipedia.org/wiki/Migration_Period
と、それぞれ呼んでいる。
ちなみに、その直前の時期を、英語圏では、3世紀における蛮族のローマ帝国侵攻(Barbarian invasions into the Roman Empire of the 3rd century)、
https://en.wikipedia.org/wiki/Barbarian_invasions_into_the_Roman_Empire_of_the_3rd_century
と呼んでおり、それは、ゲルマン系とサルマタイ系の諸部族が、一つには東方の諸部族から軍事的圧迫を受け、もう一つにはローマ帝国との文明的対峙を強いられ、現状維持することや原住地に留まり続けることが不可能になった、という背景があったから起こった、的な説明がなされている(上掲)。
しかし、この「蛮族のローマ帝国侵攻」という呼び方はいただけない。
ローマ帝国領に侵攻した諸部族に、ローマ帝国領になったことがない(現在の)スコットランドに侵攻したピクト人、カレドニア人、や、既にローマ帝国領ではなくなっていた(現在の)イギリスに侵攻したアングロサクソン、を、含めているのがおかしいのはもちろんだが、その他に関しても、アレマン人以外はローマ帝国領に侵攻したとは言い難いからだ。
ゲルマン系に話を絞るが、西ゴートと東ゴートは、東ローマ帝国の傭兵になったところから侵入が始まっているし、フランクとブルグントとランゴバルドは西ローマ帝国の傭兵になったところから侵入が始まっている・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%91%E6%97%8F%E7%A7%BB%E5%8B%95%E6%99%82%E4%BB%A3
但し、フランクだけは、「最初期の記録においてローマ帝国の敵として現れ<、>・・・フランク人のサリー族<が、皇帝>ユリアヌスによって358年に<ローマ領内>への移住を認められ、国境警備の任にあたるようになった」・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%AF%E4%BA%BA
し、ヴァンダルは、東西に分かれる前のローマ帝国の時に、既に、当時ローマ帝国領であったパンノニア平原(Pannonia)へ、認められて移住してきていたからだ。
https://en.wikipedia.org/wiki/Vandals
だから、私なら、蛮族の移動(Barbarian Migration)と呼ぶところだ。
結局、民族移動(時代)/移民期にローマ帝国内に侵攻してきたのは、フン族
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%B3%E6%97%8F
だけだ、ということになりそうだ。)
二 騎馬遊牧民(第二弥生人)の生誕
印欧語祖族晩期文化がヤムナ文化で、「紀元前3600年ごろから紀元前2200年ごろにかけてドナウ川とウラル山脈の間の広大な地域にわたって存在した、銅器時代の文化圏<であり、>中心地はウクライナ」だが、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A4%E3%83%A0%E3%83%8A%E6%96%87%E5%8C%96
「最古の乗馬を示す証拠は<この>ヤムナ文化・・・から見つかっている(約5,000年前)。・・・
騎乗には、手綱、ハミ<(>クツワ<)>が最低限必要不可欠である。クラやアブミもまた必要である。・・・
世界史上最初の遊牧騎馬民族国家を成立させたのが、<印欧語族である>アーリア系(イラン系)のスキタイ<(Scythian)>である。スキタイは、紀元前8世紀の末ごろ、東方より南ロシアのステップ地帯に遊牧騎馬民族として出現し、紀元前6世紀以後、ポントス草原を中心に南ロシアから北コーカサスにかけての地域に強大な遊牧国家を樹立した。・・・
スキタイは、アケメネス朝ペルシアのダレイオス1世やアルゲアス朝マケドニアの大王アレクサンドロス3世と戦い、これを破ったこともあった。・・・
スキタイ以降、中央ユーラシアの遊牧民は相次いで騎馬民族化していった。・・・
紀元前4世紀、西方ではサルマタイ<(Sarmatians)>の活躍がみられた。
⇒サルマタイ人からなるローマの部隊が大ブリテン島に駐屯していたとの説、また、その部隊を率いるアーサーがが6世紀初頭のBadon Hillの戦い(後出)でブリトン人と提携してアングロサクソン人を破った可能性を唱える説、更には、サルマタイ人がイラン系ではなくモンゴル系ではないかとする説、が登場していることをかつて紹介したことがある(コラム#462)(太田)
スキタイ同様イラン系に属していたと考えられる彼らは、東方よりやって来てスキタイの勢力をクリミア半島方面に追いつめ、スキタイ遊牧帝国を滅ぼして、これを併合した。一方、スキタイの動物文様を特徴とする騎馬文化は東方のモンゴル高原にも伝わり、紀元前3世紀末に同地で興った騎馬遊牧国家の匈奴にも影響をあたえた。
匈奴は、テュルク系またはモンゴル系といわれ、<印欧語族と違って言語連合とされることが多い
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%82%BF%E3%82%A4%E8%AB%B8%E8%AA%9E >
ところのアルタイ<諸>語<族>に属し、単于と呼ばれる君主のもとで強大化した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A8%8E%E9%A6%AC%E6%B0%91%E6%97%8F
(なお、アルタイ諸語族は、テュルク語族、モンゴル語族、ツングース語族からなる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%82%BF%E3%82%A4%E8%AB%B8%E8%AA%9E )
西方において、第一弥生人とでも称すべきゲルマン人を生み出した印欧語族は、印欧祖語地域で、第二弥生人とでも称すべき騎馬遊牧民もまた生み出したわけだ。
しかし、西方や南方は既にそれなりに弥生性の強い印欧語族勢力が盤踞していて騎馬遊牧民たる印欧語族の進出が妨げられたことから、進出しようとすれば東方しかなかったこと、しかるに、騎馬遊牧民文化は、その文化の性格上、伝播速度が極めて速いたため、東にいたアルタイ諸語族にあっという間に普及(上掲)し、彼らが強い弥生性を帯びてしまったためにこれも果たせないまま終わったのだろう。
アルタイ語族中、13世紀になって最大の帝国を築くことになるのがモンゴル語族のモンゴルであり、印欧語族生息地を唯一縮小させることに成功したのがテュルク語族のオスマントルコであり、また拡大漢人地域の最後の支配者となったのがツングース語族の清である、といったところか。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%82%BF%E3%82%A4%E8%AB%B8%E8%AA%9E
(この第二弥生人には、大きな弱点があった。
それは、彼らが、弥生性において弱い定着民との交易だけに飽き足らなくなって定着民から時々略奪している間はまだしも、恒常的略奪目的で定着民を支配するようになりがちで、そうなった途端、通常自分達より圧倒的に数が多い定着民の統治に自らの精力とマンパワーを割かねばならず、それだけでも、自分達のそれまでの耕戦の民ならぬ牧戦の民的な青壮男性総兵員体制を維持できなくなる上、専業兵員として残った者も、もはや騎馬遊牧生活を続けるのは困難になっている以上、日常生活即軍事訓練とはいかなくなって練度が急速に低下してしまうのは必定であり、こうして質量とも不足するに至った兵力を定着民でもって補わざるをえないところ、この定着民兵力を質量とも脆弱なままにしておけば物の役に立たず、さりとて、強力なものに仕立て上げたら上げたで、その、反乱の脅威や外敵と通じた脅威等が高まり、どっちに転んでも詰んでしまう、という弱点だ。
騎馬遊牧民が多数の定着民を支配する国の寿命が高が知れていたのはこのためだ。)
三 総括的感想
結局、印欧語祖族こそ私の言う弥生性の源泉であって、印欧語族の中から第一弥生人たるゲルマン人を、印欧語族文化の中から第二弥生人たる騎馬遊牧民を、生み出した「元凶」であると言えそうだ。
そして、印欧語族中、第一弥生性人たるゲルマン人の中で最も弥生性の強いヴァイキングの嫡流後裔たるイギリスのアジア・アフリカ支配を完全に覆したのも、第二弥生人たる騎馬遊牧民の中で最も弥生性の強いアルタイ諸語族中のツングース語族の清による漢人地域支配を単独で事実上覆しアジア・アフリカを騎馬遊牧民の桎梏からついに解放した・・同じくアルタイ諸語族中のテュルク語族のオスマントルコの解体にも力を貸した・・のが日本(上掲)だった、つまりは、ついに、第一弥生人と第二弥生人の弥生性を共にほぼ葬り去ることに成功したのが日本である、とも言えるのではないか。
[十字軍のヴァイキング性]
「1095年<の>ローマ教皇ウルバヌス2世の呼びかけ<を受け、>・・・<第一回>十字軍<(1096~1099年)>の本隊<は>、西欧各地の多数の諸侯が集まって聖地を目指した。諸侯たちの中で特に主導的な役割を果たすことになったのは、教皇使節であったル・ピュイのアデマール司教、南フランスのプロヴァンス人諸侯のまとめ役だったトゥールーズ伯レーモン4世(レーモン・ド・サン・ジル)、南イタリアのノルマン人のまとめ役を務めたボエモンの3人であった。ほかにもロレーヌ人のゴドフロワ・ド・ブイヨン、ブローニュ伯ウスタシュ、ボードゥアンの3兄弟、フランドル伯ロベール2世、ノルマンディー公ロベール、ブロワ伯エティエンヌ2世、フランス王フィリップ1世の弟ユーグ・ド・ヴェルマンドワ(フィリップ1世は直前に破門され参加できなかったため、その代理)」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC1%E5%9B%9E%E5%8D%81%E5%AD%97%E8%BB%8D
ここに登場する人々のうち、アデマール(Adhemar de Monteil。1055?~1098年)司教のMonteil家の先祖は不詳だ
https://fr.wikipedia.org/wiki/Adh%C3%A9mar_de_Monteil
だが、トゥールーズ伯レーモン4世(Raymond IV de Toulouse。1052?~1105年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%A2%E3%83%B34%E4%B8%96_(%E3%83%88%E3%82%A5%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%82%BA%E4%BC%AF)
の祖先は、フランク人の中枢のサリ・フランク人(Salian Frank)なる、後にメロヴィング朝フランク王国の王家となった人々であるところ、このサリ・フランク人は、その原生息地・・現在はオランダの一部・・から、サクソン人が大ブリテン島へと大量出立するより前に大ガリアに向けて大量出立したという説
https://fr.wikipedia.org/wiki/Francs_saliens
があるが、私はこの説乗りだ。
フランク人生息地は、全てサクソン人のそれの南だったという説もあるが・・。
https://en.wikipedia.org/wiki/Saxons
フランク人なるものは、サリ・フランク人、及び、このサリ・フランク人に率いられた、その他の、弥生性の更に低い、雑多なフランク人の集合体である、と解せばよかろう。
その上で、サリ・フランク人もサクソン人も、私見では、アレマン人ともども、第二回ゲルマン人南侵を開始した広義のヴァイキングであるところ、その中で、すぐにへたってしまって、アレマン人に置いてけぼりにされた人々である、と、見るわけだ。
そして、サリ・フランク人とサクソン人は、広義のヴァイキングだが、その後の累次の狭義のヴァイキングに比して弥生性において若干遜色がある広義のヴァイキングであり、また、アレマン人は、弥生性の強さでは狭義のヴァイキングと遜色はないものの、内陸に定着することで外洋操船能力を失い、弥生性発揮能力において、狭義のヴァイキングに比して若干遜色がある広義のヴァイキングである、という違いが生じた、とも見たいわけだ。
だからこそ、サリ・フランク人は、単独で、或いはまわりのフランク人をまとめあげて、ローマ領に侵攻することに徹することなく、(同じくらいの弥生性の強さであった)ローマの領域中の、彼らの生息地と陸続きであったガリア地方に、ローマに誘われてその傭兵になる形で進出して行った
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%AF%E4%BA%BA
のだし、サクソン人は、ローマ撤退後の(弥生性がローマ人よりもオツる)ブリトン人地域に積極的に侵攻しようとすることなく、ブリトン人に誘われてその傭兵になる形で大ブリテン島の南部に進出して行ったのである(上掲)、と。
なお、最も重要なことを指摘し忘れるところだったが、十字軍の言い出しっぺのローマ教皇ウルバヌス2世(Urbanus II。1042~1099年)は、俗名ウード・ド・シャティヨン(仏: Eudes de Châtillon)であるところ、このChâtillon家の初代のシャンティヨン・ベア(Châtillon Bear。830~880年)は、シャルルマーニュの孫だ
https://pt.wikipedia.org/wiki/Urso_de_Chatillon
から、この教皇自身が、拡大ヴァイキングたる、二回目に南侵したゲルマン人、の中の落ちこぼれの中では上澄みの(メロヴィング朝フランク王国を作った)サリ・フランク人の末裔だ。
その上でだが、ボエモン(Boemondo I d’Antiochia。1054?~1111年)は、「アプリア伯兼カラブリア伯ロベルト・イル・グイスカルドとその第一夫人アルベラダ(en:Alberada of Buonalbergo)との間に生まれ<、>・・・母国語<は>古ノルマン語<だった。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9C%E3%82%A8%E3%83%A2%E3%83%B31%E4%B8%96_(%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%86%E3%82%A3%E3%82%AA%E3%82%AD%E3%82%A2%E5%85%AC)
というのだから、ほぼ狭義のヴァイキングそのものだ。
ちなみに、ロベルト・イル・グイスカルド(Roberto il Guiscardo d’Altavilla。1015~1085年)は、「ノルマン人の傭兵で、後に中世シチリア王国(オートヴィル朝)を建てたオートヴィル家の首領」だ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%99%E3%83%AB%E3%83%88%E3%83%BB%E3%82%A4%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%B0%E3%82%A4%E3%82%B9%E3%82%AB%E3%83%AB%E3%83%89
また、(失敗に終わった第2回十字軍
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC2%E5%9B%9E%E5%8D%81%E5%AD%97%E8%BB%8D
は飛ばすが、)イギリスの「リチャード王はフランス王フィリップ2世と皇帝フリードリヒ1世と共に、2年前に陥落したエルサレム奪還を目指して第3回十字軍を発足させた」(コラム#15343)ところ、この第1回十字軍同様、成功に終わった十字軍
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC3%E5%9B%9E%E5%8D%81%E5%AD%97%E8%BB%8D
に関しては、主導したリチャード
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AA%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%891%E4%B8%96_(%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89%E7%8E%8B)
は、父系において第一次ヴァイキングと第三次ヴァイキング(中のノルマンティー公ギョーム2世(イギリスのウィリアム征服王))の末裔である・・第一次ヴァイキングに関しては、ヴァイキングの末裔たるアルフレッド大王の末裔・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%95%E3%83%AC%E3%83%83%E3%83%89%E5%A4%A7%E7%8E%8B
ところ、母系においても第三次ヴァイキング(初代ノルマンディー公ロロ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%AD
)の末裔だ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AA%E3%82%A8%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%80%E3%82%AD%E3%83%86%E3%83%BC%E3%83%8C
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AE%E3%83%A8%E3%83%BC%E3%83%A010%E4%B8%96_(%E3%82%A2%E3%82%AD%E3%83%86%E3%83%BC%E3%83%8C%E5%85%AC)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AE%E3%83%A8%E3%83%BC%E3%83%A09%E4%B8%96_(%E3%82%A2%E3%82%AD%E3%83%86%E3%83%BC%E3%83%8C%E5%85%AC)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AE%E3%83%A8%E3%83%BC%E3%83%A08%E4%B8%96_(%E3%82%A2%E3%82%AD%E3%83%86%E3%83%BC%E3%83%8C%E5%85%AC)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AE%E3%83%A8%E3%83%BC%E3%83%A05%E4%B8%96_(%E3%82%A2%E3%82%AD%E3%83%86%E3%83%BC%E3%83%8C%E5%85%AC)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AE%E3%83%A8%E3%83%BC%E3%83%A04%E4%B8%96_(%E3%82%A2%E3%82%AD%E3%83%86%E3%83%BC%E3%83%8C%E5%85%AC)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AE%E3%83%A8%E3%83%BC%E3%83%A03%E4%B8%96_(%E3%82%A2%E3%82%AD%E3%83%86%E3%83%BC%E3%83%8C%E5%85%AC)
そして、誘われた方の、フリードリヒ1世は父系が二回目のゲルマン人南侵を行ったアレマン人の末裔、カペー朝のフィリップ2世は、父系がサリ・フランク人の王族に遡る。
https://ancestors.familysearch.org/en/LLWS-5F6/antharius-king-of-sicambri-0085%20BC-0038%20BC
[欧州外への進出を開始した欧州勢力のヴァイキング性]
「ポルトガルの欧州外進出は、スペインの1492年よりずっと早かった・・・
ジョアン1世は<欧州>への金の供給元であるアフリカ大陸への進出という手段で解決を図<ることとし、>当初はナスル朝が支配するグラナダが攻撃先に挙げられていたが、<グラナダに唯一接壌するキリスト教国である>カスティーリャの感情を考慮して攻撃先<を>モロッコの港湾都市セウタに変更<し、>1415年にポルトガル軍はマリーン朝が支配するセウタを攻略し、ポルトガルは世界の一体化に行き着く<欧州>諸国の対外拡張政策の先陣を切<った>・・・
このポルトガル王国の祖のブルゴーニュ朝のアフォンソ1世・・・は、「<広義のヴァイキングから始まる、>サリ・フランス王家カペー家の支流ブルゴーニュ家のアンリ・ド・ブルゴーニュ(ポルトガル語名エンリケ)<と>・・・カスティーリャ=レオン国王アルフォンソ6世<(在位:1065~1109年)(注42)>の>王女テレサ・・・の子」であり、・・・ポルトガルにおける、その次のアヴィス朝だって、初代のジョアン1世(在位:1385~1433年)は、ブルゴーニュ朝のペドロ1世の庶子です・・・
(注42)祖先は、9世紀頃のバスク人(!)のパンプローナ副王のヒメノ1世。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%92%E3%83%A1%E3%83%8E%E6%9C%9D ←ヒメノ朝(Dinastía Jimena)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AC%E3%83%AB%E3%82%B7%E3%82%A2%E3%83%BB%E3%83%92%E3%83%A1%E3%83%8D%E3%82%B9 ←ガルシア・ヒメネス
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%83%81%E3%83%A71%E4%B8%96_(%E3%83%8A%E3%83%90%E3%83%A9%E7%8E%8B) ←ナバラ王サンチョ1世
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AC%E3%83%AB%E3%82%B7%E3%82%A21%E4%B8%96_(%E3%83%8A%E3%83%90%E3%83%A9%E7%8E%8B) ←ナバラ王ガルシア1世
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%83%81%E3%83%A72%E4%B8%96_(%E3%83%8A%E3%83%90%E3%83%A9%E7%8E%8B) ←ナバラ王サンチョ2世
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AC%E3%83%AB%E3%82%B7%E3%82%A22%E4%B8%96_(%E3%83%8A%E3%83%90%E3%83%A9%E7%8E%8B) ←ナバラ王ガルシア2世
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%83%81%E3%83%A73%E4%B8%96_(%E3%83%8A%E3%83%90%E3%83%A9%E7%8E%8B) ←ナバラ=カスティーリャ=アラゴン=レオン王
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A7%E3%83%AB%E3%83%8A%E3%83%B3%E3%83%891%E4%B8%96_(%E3%82%AB%E3%82%B9%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%83%A3%E7%8E%8B) ←カスティーリャ=レオン王フェルナンド1世
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%B3%E3%82%BD6%E4%B8%96_(%E3%82%AB%E3%82%B9%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%83%A3%E7%8E%8B) ←アルフォンソ6世
彼の子の一人があの有名なエンリケ航海王子ですが、ジョアンの妃<にして>、このエンリケの母・・・<は、ヴァイキングの末裔である、>ランカスター公ジョン・オブ・ゴーントとその最初の妃ブランシュの娘<であり、後に>ランカスター朝の初代<イギリス>王<になる、やはりヴァイキングの末裔の>ヘンリー4世の姉<、ということになるわけですが、>・・・1387年2月2日、ポルトでジョアン1世と結婚した<ところ、あの>・・・エンリケ航海王子(1394年~1460年)<は、その子であり、彼女は、>・・・死の床でセウタ攻略へ向かう<エンリケを含め>王子たちを呼び、「勇ましく戦っておいで。」と、剣を与え送り出した・・・と伝えられています。・・・
イギリス人の<母の>子で、曾祖父と叔父にイギリス王を持つ、このエンリケ航海王子(Infante Dom Henrique。1394~1460年)ですが、彼は、「1420年5月25日、・・・テンプル騎士団の後継であるキリスト騎士団の指導者となり、その死に到るまでその地位にあると共に、莫大な資産を保有する騎士団による援助によって、自らの探検事業の強力な資金源とし・・・、特に1440年代までに<か>け、・・・大西洋への進出に並々ならぬ情熱を傾け<ました>。・・・
<すなわち、>1414年、・・・父ジョアン1世とともに、・・・アフリカ北岸にあるセウタ・・・<を>攻略<し(前出)、>・・・1419年、前年12月にエンリケが派遣した<船によって>・・・マデイラ諸島が「発見」され、翌年から植民地化が始められ・・・1427年<、>・・・アゾレス諸島を発見<、>・・・1448年に・・・現在のモーリタニア<の>・・・アルギン湾に・・・要塞を築<き、>・・・1444年、バルトロメウ・ディアスの父であるディニス・ディアスが・・・ギニアを訪れると共に、サハラ砂漠の南端に達し<、>これによりエンリケは、サハラ砂漠を通過するキャラバンに頼ることなくアフリカ南部の富を手に入れる航路を確立するという、当初の目的を達した<のです>。
アフリカ南部から大量の金を得ることができるようになったことで、1452年にはポルトガルでは初となる金貨が鋳造され<、更に、>・・・1450年代、カーボベルデにおいて群島が発見され<る>・・・といったところの、欧米の時代の先駆けとしての決定的な役割を果たすのです。」(コラム#10813)
⇒縄文人的であったバスク人が頑張らざるを得なかったのは、イスラム勢力がバスク地方にまで迫ってきたからなのだろうが、彼らが頑張ってもたかが知れていたと思われるところ、それが、サリ・フランク人の血が入ることでそれなりの弥生性を帯びるに至り、そこに、ヴァイキングの末裔たるイギリスの血が加わり、ポルトガルは、いわば、イギリスの先兵として、欧州外へと進出していった、というわけだ。(太田)
さて、であるとすれば、イギリスとは、第一次ヴァイキングが、大ブリテン島への大襲撃を数次にわたって行い、同島のブリトン人とせめぎ合いつつ、同等中/南部の大部分を征服した結果生まれた国である、と、単純明快に考えることが許されよう。
そして、この2つの人々のケミストリーが比較的うまくいったおかげで、もともと豊かであった大ブリテン島の社会が、ローマ撤退後も、ローマ政府需要がなくなったことに加えて気候寒冷化によって、農業生産が減少し、当然人口が減少し、なおかつ、ローマ時代に整備された道路網は荒廃してしまっていた、にもかかわらず、一人当たりでは豊かな、しかも、地理的意味での欧州諸国の中では、比較的平等な、社会であり続けることができたのはあるまいか。↓
このイギリスで、ヴァイキング(アングロサクソン)由来の弥生性は、そもそも強度なものであった上、第二次ヴァイキングと第三次ヴァイキングの洗礼を受け続けることで、維持、強化されることになる。
「ヴァイキング<・・第二次ヴァイキング!(太田)・・>は、その時代にイギリスの海岸へ上陸した最悪の侵略者ではなかった。その称号にふさわしいのは、<その>400年前にやって来たアングロサクソン人である。 アングロサクソン人はデンマークのユトランド半島、北ドイツ、オランダ、そしてフリースラントから来て、ローマ化したブリトン人を服従させた。 つまり、もしヴァイキング時代を多数の移住と海賊行為によって定義するなら(多くの学者によれば「ヴァイキング」とは「海賊」を意味する)、ヴァイキング時代は793年よりも前に始まったと考えるべきである。本来ならすでに400年頃から始まっていたはずなのだ。
⇒後一声で私と全く同じと言ってよい見解が示されている。(太田)
この主張を裏づける一つの根拠は、9世紀から10世紀にかけてアングロサクソン人の古英語に対して、ヴァイキングの古ノルド語がほとんど影響を及ぼさなかったことである。これは、5世紀から6世紀にアングロサクソン人が到来した後、イギリスにケルト語がほとんど残らなかった事実と比較すべきである。・・・
一部の学者は、アングロサクソン人が5世紀から9世紀にかけて、現地のケルト語話者に対して一種のアパルトヘイトを行っていた可能性を示唆している。つまり、彼らはおそらく別々に暮らし、あるいはごく限られた交流しか持たなかったのだろう。
アングロサクソン人による民族浄化というのも、あり得る別のシナリオである。というのも、ケルト文化とケルト語はウェールズ、スコットランド、アイルランド以外では生き残らなかったからである。
さらに・・・、アングロサクソン人の移住の規模は非常に大きく、当時のイギリス人口の最大40%に達していた可能性があるという。ヴァイキングはそれほどの規模には及ばなかった。そして、初期のアングロサクソン人が在来のブリトン人とほとんど混血しなかったのに対し、ヴァイキングはアングロサクソン人化していたイギリス人<(イギリス住民)>とまさに混血したのである。」
https://www.sciencenordic.com/denmark-forskerzonen-history/the-anglo-saxons-were-worse-than-the-vikings/1460824
また、操船による遠出志向性も維持された。
「アングロサクソン時代<の>・・・交易は輸送手段に依存して初めて効果を発揮した。水運は道路よりも速く、肉体的負担が少なく、費用も安いため、最も好まれる輸送方法であった。成功した市場の多くは河川上、あるいは河川近くに位置していた。このような交易は、フリジア人<(フリース人=Frisians)(注43)>やスカンディナヴィア人といった伝統的に海に親しんだ民族によって支配されていた。
(注43)「フリース人は、北西<欧州>の先住民族であり、オランダ北部、ドイツ北西部、そしてデンマーク南部の沿岸地域に居住していた。彼らは「フリースラント(Frisia)」と呼ばれる地域に住み、主にオランダのフリースラント州、ドイツの東フリースラントおよび北フリースラント(1864年まではデンマーク領であった)に集中していた。
3世紀から5世紀にかけて、フリース人の地であるフリースラントは海の侵入によって大部分の土地が居住不可能となり、さらに寒冷で湿潤な気候への変化がそれを悪化させた。残存していた人口は急激に減少し、沿岸地域はその後約二世紀にわたりほとんど無人のままであった。環境が改善すると、フリースラントには新たな入植者が流入したが、その多くはアングル人とサクソン人であった。
6世紀末までに、フリース人の領域は西方の北海沿岸へと拡大し、7世紀には南方のドレスタッド(Dorestad)まで広がった。この最大範囲のフリース領域は「フリースラント・マグナ(Frisia Magna)」と呼ばれることがある。初期のフリースラントは「高王(High King)」によって統治され、最初に「フリース王」が言及されるのは678年に遡る。
8世紀初頭、フリース人は主にユトレヒト(Utrecht)周辺を除いて、トール(Tor)やオーディンといった北欧神話の神々を崇拝していた。
「トール<は、>・・・北欧神話に登場する神である。神話の中でも主要な神の1柱であり、神々の敵である巨人と対決する戦神として活躍する。・・・雷神または農耕神として、北欧を含むゲルマン地域で広く信仰されたと推定され、本来はオーディン以上の最高位にいた主神である。・・・
スウェーデンにかつて存在していたウプサラの神殿には、トール、オーディン、フレイの3柱の像があり、トールの神像は最も大きく、真ん中に置かれていたとされている。 後に、本来詩人の神であったオーディンを信奉する詩人が、神話を伝承するうちに次第にオーディンに主神の地位を与えたとされる研究がある。
北欧だけではなくゲルマン全域で信仰され、地名や男性名に多く痕跡を残す。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%BC%E3%83%AB
「オーディン(Odin・・・)は、キリスト教化以前のゲルマン人によって広く信仰された神である。・・・北欧神話では、知恵、癒やし、死、王権、絞首、知識、戦争、勝利、魔術、詩歌、狂気、ルーンを司る神とされる。・・・スカンディナヴィア以外では、それぞれの言語でウォーデン(古英語: Wōden)、ヴォータン(古高ドイツ語: Wuotan)などとも呼ばれる。・・・
オーディンは、紀元前2世紀のゲルマニア各地のローマ占領時代から、4~6世紀の民族移動時代、そして8~11世紀のヴァイキング時代に至るまで、北欧史を通じて極めて重要な神であったようである。・・・英語のWednesdayなど、多くのゲルマン諸語ではオーディンの名を冠する曜日名をもつ。・・・
多くの子の父であり、中でもよく知られるのはヨルズとの子トール・・・である。・・・
原初の存在ユミルを殺して天地創造の一端を担い、最初の人間であるアスクとエンブラに命を与えた。オーディンは戦死した者の半分を自らの館ヴァルホルに囲って永遠の兵士エインヘリャルとし、もう半分をフレイヤのフォールクヴァングへと送る。賢者ミーミルの首に助言を求め、予言された終末戦争ラグナロクをエインヘリャルを率いて戦うが、その果てに大狼フェンリルに飲み込まれる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%BC%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%B3
⇒要するに、この場合、フリース人というのは、欧州大陸に残ったアングル人とサクソン人だったわけであり、彼らが、大ブリテン島に移住した、「親戚」のアングル人やサクソン人と提携しながら、大ブリテン島内の交易や同島と欧州大陸との貿易に従事したわけだ。(太田)
その少し後、フリース人の貴族たちは南方のフランク人と次第に対立を深め、一連の戦争が勃発した。その結果、734年にフランク王国がフリースラントを征服した。これらの戦争は、聖ボニファティウスに始まるアングロ=アイルランド系宣教師による布教活動を後押しし、聖ウィリブロルドはフリース人のキリスト教化に大きな成功を収めた。」
https://en.wikipedia.org/wiki/Frisians
河川輸送が利用できない地域では、長大な駄馬隊が雇われ、御者に加えて多くの地域では武装した護衛も必要とされた。
大ブリテン島の一部では、野盗や戦闘集団の活動によって陸上移動が著しく制限され、旅の距離は六マイルが限界であった。道路はしばしば泥道に等しく、その重要性は土地所有者に道路や橋の建設・維持義務を課す多くの勅許状からも明らかである。しかし道路建設はローマ時代以降衰退していた。・・・
<但し、>すべての商人がヴァイキングであったというわけではない。」(Mike Famer 1989より)
https://wiki.regia.org/Trade_in_Anglo-Saxon_England
更にまた、個人主義も維持された。
「<大ブリテン島における>後期ローマ<時代>の農耕共同体は、ローマ<政府>の需要を満たすために作物を過剰に生産していた。5世紀にその需要が消滅すると、農牧業体系は変化し、牛や羊の牧畜といった、より集約度の低い農業生産形態に重点が置かれるようになった。・・・
⇒ヴァイキングも平時の勤勉を厭うゲルマン人(コラム#41)に変わりはなく、それなら、と、農耕に比して楽な牧畜中心の農業に転換させたわけだ。(太田)
5世紀から6世紀初頭の集落遺構に見られるもう一つの顕著な特徴は、建築や集落の配置に身分や富の差を示す証拠がほとんど見られないことである。すべての住居単位は、小さな中央のホールと、それを囲む複数の掘立式建物(付属建物として機能した)から構成されていたように見える。6世紀後半以前には、高位の住居や低位の住居を示す明確な証拠は存在しない。・・・身分は一つの家族単位で多数の人々を養う能力によって表現されていたわけではない。
⇒一家族の家内労働で対処できる範囲で牧畜をやれば、当然そういうことになるだろう。(太田)
これら初期アングロ=サクソンの集落の多くには境界がほとんど存在しない。動物用の囲いと思われるものは一部に見られるが、少なくとも6世紀後半以前には、建物や建物群を囲む囲いは存在しない・・・。・・・
⇒アングロサクソン人の領域への外からの脅威はさておき、内からの脅威は殆ど顧慮する必要がなかったのだろうが、集落内には戦闘適齢者全員に行きわたるだけの武具があり、彼らと戦って金品を強奪するに値するほどアングロサクソン人社会は豊かではなかったのだろう。
というか、勤勉を厭う人々が金品を積み上げるようなことはありえないわけだ。(太田)
しかし、初期アングロ=サクソンの遺跡や共同体が平等主義的であったと主張する者はいない。大規模な土葬墓地や火葬墓地における副葬品の量や質の差異は、社会的地位、政治的権力、そして物質的富において顕著な格差が存在していたことを示している。・・・
個々の住居は一般的に、柵や溝、その他の領域を示す標識によって囲まれてはいない。」
https://www.cambridge.org/core/books/early-medieval-britain/early-anglosaxon-england-settlement-society-and-culture/35C32DD9586A6B34D8E010105696CDBF
⇒権力者は、ブリトン人から奪ったり、貿易で儲けたりして、豊かだったということか。(太田)
個人主義の維持は、家庭内にまで貫徹されていた。
夫と妻は同等。↓
「エンゲルスは、『家族、私有財産及び国家の起源』の中で、「ドイツや、フランス法を採用している国々では、子供は、結婚にあたって、両親の同意を得なければならないものとされている。しかるに、イギリス法の下にある国々では、両親の同意は、いかなる意味においても結婚の条件とはなっていない。」としています。この点も、いくらイギリス史をさかのぼっても変わらないようです。・・・
この、結婚が、ウジとウジ、あるいはイエとイエの結び付きではなく、個人としての男女の自発的な結び付き=契約以外の何物でもないという、イギリスに始まる革命的な考え方こそ、日本国憲法第23条、「婚姻は、両性の合意の みに基づいて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。」のよってきたる淵源なのです。」(コラム#88)
また、親子関係もドライ。↓
これは、15世紀の話だが、「子供の財産は親の財産と明確に区別され、子供が親に経済的な面で貢献をする義務がなかった点があげられます。
子供による、親の扶養義務については、法律に定めがあった時代ですら、裁判所は親を救済しなかったようですし、子供がどんなに小さくても、子供が稼いだカネに親が勝手に手を出すことは許されませんでした。また、イギリスでは親が死んだ場合、子供に親の遺産に対する法定遺留分は認められていませんし、逆に子供が死んだ場合、親に子供の財産が還流することもなかったようです。」(コラム#89)という状況は、アングロサクソン時代から変わっていないと考えられる。
また、この前「発見」したばかりだが、どうやら、兄弟間も平等。↓
「驚くべきことは、・・・デーン人にイギリス王位を乗っ取られた後、ウェセックス朝が復活し、その最後の王となったエドワード懺悔王に至る最後の最後まで、歴代のウエセックス朝の諸王の生年が不確かであり続けたことだ。・・・
このことを説明したものに私はまだ遭遇していないので、私の仮説とすら言えない憶測に過ぎないが、個人主義のアングロサクソン人にとっては、親にとって子供も殆ど赤の他人であってさしたる関心の対象ではなかった・・日本で室町時代以降は民間にも普及した元服のような通過儀礼・・・すら存在しなかったのではないか。初聖餐・・・を行ったとしてもその記録などはなされなかったのではないか・・のであって、王と雖も同じことであったと思われるところ、さすがに、ウィタン<(Witan)(後出)>では、王位継承者には原則として先王の子で、しかも、長男が指名されたことから、先王の子であるかどうか、また、子の間の長幼の別、くらいは分かっている必要があったけれど、それぞれが何歳であるかまで分かっている必要はなかった、ということであった可能性がある。
(ウエセックス王家からイギリス王位を簒奪したところの、アングロサクソンと同じくゲルマン人、但し正真正銘のヴァイキング<で、第二次ヴァイキング侵攻の主>、であるデーン人、のスヴェン<(Sweyn)>1世こそ生年ははっきりしている・・・けれど、それを継いだ子の<デンマーク王の>ハーラル<(Harald)>2世も、<イギリス王になってからこの兄からデンマーク王>・・・を継いだその弟のクヌート<(Cnut)>1世も、生年は不詳である・・・<ことからも、>そう・・・言えそうだ。<)>
補足するが、例えば、西ゴートのアラリック1世、テオドリック1世、トリスムンド、テオドリック2世・・・も、ことごとく、生年不詳だ。」(コラム#15328)。
そして、この個人主義は、コモンローで担保されていた。
「[アングロサクソン期の]イギリス王は、法の源ではなかった。・・法は種族の慣習、または部族に根ざす権利からなり、王は、部族の他のすべての構成員同様、法に全面的に従属していた。・・法は、本質的には、その起源からしても非人格的なものであって、いにしえの慣習や、部族共同体の精神に由来すると考えられていた。法を宣言し、裁定を下すのは、王の裁判所ではなく、部族の寄り合い(moot)であり、王の任命した判事や役人ではなく、訴追員や審判員の役割を担った、近所の自由人達であった。・・王は、単に、法と寄り合いの裁定を執行するにとどまった。・・・
この、<後世において、>マグナカルタ、権利の請願、権利の章典、<米>独立宣言などを次々に生み出していった淵源としてのアングロサクソン古来の法こそ、Common Law (コモンロー)なのです。
われわれは、個人主義が、アングロサクソン文明の核心にあることを見てきました。しかし、個人主義社会という、人類史上空前の「異常」な社会が機能し、存続していくためには、個人が、他の個人、集団及び国家の侵害から守られていなけれなりません。守ってくれるものが、王のような個人であったり、グループや、国家であったりすれば、それらが、一転、おのれの利害にかられ、私という個人の自由、人権を侵害するようなことがないないという保証はありません。守ってくれるものが<・・・種族の慣習、または部族に根ざす権利からな<る・・・>非人格的なコモンローであり、王も含めて全員がこの法に拘束されるということの重要性がここにあるのです。」(コラム#90)
そして、ティング(Thing)も維持された。↓
「ローマ由来の司法制度が広まる以前、欧州大陸には多様かつ過激な法廷生活や司法の実施形態が存在していた。しかし、ゲルマン人からアングロ=サクソン人に至るまで共通して見られる主題は、紛争が主として血の復讐によって解決されていたことである。・・・
<いわゆる(太田)>ヴァイキング時代(800〜1066年)において、スカンディナヴィアで支配的な法制度はティング(thing)と呼ばれる集会であった。
ローマ化およびキリスト教化以前のスカンディナヴィア文化は、主として氏族(clan)中心であった。家族の一員は、存命の者、死者、負傷者を問わず、親族に対する傷害を報復することで家の名誉を守る義務を負っていた。「目には目を」という格言が支配的であり、血こそが贖罪の通貨であった。この血の復讐の時代においては、氏族間抗争の頻度と激しさを抑えるための均衡構造が必要とされた。さらに、社会的復讐は、航海と交易を営む人々に求められる秩序を脅かしていた。ティング制度は、この均衡構造として成立したのである。抗争や血の名誉は依然として正当な司法の形態であったが、それらは共同体の監督下にある集会を通じて遂行されるようになった。
ティングとは、共同体や地方の自由民による集会であり(場合によっては国全体の集会が招集されることもあった)、ヴァイキング時代における最初期の司法および行政制度であった。地方の紛争はティングで解決され、政治的決定は地域ティングで行われ、さらに地方ティングは階層構造の上位ティングに代表を送った。ティングはまた、宗教的な場や商取引のための集会所としても機能した。ティングは定期的に開催され、法律を制定し、首長を選出し、法に従って違反者を裁いた。法律は記憶され、朗誦者(Lawspeaker)によって参照され、彼は裁判官の役割も担った。<スカンディナヴィアでの(太田)>最古の集会は、約900年頃にノルウェーのグーレンでハーラル美髪王によって設立されたと考えられている。アイスランドのアルシング(Althing)は930年から開催され続けている、最も長く継続している国民議会である。
・・・神ヘイムダル(Heimdall)<(注44)>は人類を三つの階級に生み出したとされる――農奴、自由民、そして貴族である。
(注44)10世紀中頃または12-13世紀ごろに、ノルウェーまたはアイスランドで成立したと考えられている・・・北欧神話を伝えるエッダ詩の一篇<である>・・・『リーグルの詩』<に登場する。>
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%82%B0%E3%83%AB%E3%81%AE%E8%A9%A9
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%98%E3%82%A4%E3%83%A0%E3%83%80%E3%83%AB (<>内)
自由民と貴族は<上述の>地域政治に参加することができ(社会や共同体の構成員の大多数を占めていた)たが、農奴は参加できなかった。」
https://www.researchgate.net/publication/340661469_Vikings_in_World_History_The_Legacy_of_the_Ting_Viking_Justice_Egalitarianism_and_Modern_Scandinavian_Regional_Governance ※
私見では、このティングをヴァイキングの制度とする上掲(※)の説明は間違いで、ティングは、初期ゲルマン人社会の制度であって、
https://en.wikipedia.org/wiki/Thing_(assembly)
それがアングロサクソンによって、ヴァイキング祖地から大ブリテン島に持ち込まれ、それがウィタン(Witan)となり、
https://en.wikipedia.org/wiki/Witan
それが、(以下衆目一致するように、)ノルマンコンケストの後、キュリア・レジス(Curia regis)
https://en.wikipedia.org/wiki/Curia_regis
になり、それが1200年前後に大評議会(仮訳)(Great Council)になり、更に1236年からその名称が議会(parliament)になったわけだ。
https://en.wikipedia.org/wiki/Parliament_of_England
ちなみに、(アングロサクソンによってウィタンへと中身が変えられた)ティングは、イギリスと並ぶヴァイキングの後裔国家群たる、アイスランド、デンマーク、ノルウェー、スウェーデン、のうち、アイスランド以外では断絶し、議会にそのまま繋がってはいない。
https://en.wikipedia.org/wiki/Storting
https://en.wikipedia.org/wiki/Storting
https://en.wikipedia.org/wiki/Riksdag
なお、Copilotに聞いてみたところ、
項目 Thing Witan
起源 ゲルマン自由民の集会 アングロサクソン王の顧問会議
参加者 自由民全般 王に仕える貴族・聖職者
主な役割 裁判・立法・王権承認 王位承認・立法・外交軍事助言
性質 民主的要素が強い 王権補佐のエリート評議
であって、「アングロサクソン人がゲルマン系である以上、Witan(賢人会議)の起源はゲルマン的な「王が有力者の助言を求める慣行」にあり、これは広義には Thing(民会)と同じ文化的基盤を共有してい<る>。ただし、Witan は直接的に Thing <とは違って>、王権中心の顧問会議として独自に発展し・・・た」とした上で、「Witan の起源が古ゲルマンの民会(Thing)との関連を持つ可能性を認めつつ、直接的な制度的継承かどうかは定かではないとしてい<る>」ところの、邦語典拠
https://call-of-history.com/witan/
を紹介してくれた次第だが、私見では、この邦語典拠もまた、イギリス流韜晦に毒されている。
思うに、ティングは直接民主制であったところ、大ブリテン島に渡ったアングロサクソン人は、社会を構成する人数が増えたために、奴隷を引き続き排除するとともにブリトン人をも排除し、参加者を狭義のアングロサクソンだけに絞っても、なお人数が多過ぎて地方レベルでもティングを開催することが不可能となり、しかも、大っぴらなブリトン人排除は彼らの懐柔を困難にしてしまう、ということから、形の上では平等に、しかし大幅に参加資格者を絞った、ティング、にせざるを得ず、やむなく名称もウィタンへと改めた、ということではなかろうか。
では、どうして、Thingが、一、イギリス(とアイスランド)以外のヴァイキング後裔諸国、や、二、大陸西欧諸国、で断絶してしまい、議会へと繋がらなかったのだろうか?
取り敢えずの仮説に過ぎないが、一の諸国に関してはヴァイキングとして故地を後にした人々が大方出払って残った人々は相対的に弥生性が低く、また、寒く豊かでもないこれら諸国に対して戦争を仕掛ける勢力や諸国も少なかったところへ、国家制度が次第に整備されていき、軍事指導者を選んだり国家機能を遂行したりするためのThingの必要性が減じたため、そして、二の諸国に関しては封建制が普及したことに伴い、重層的かつ徹底的な地方分権制が確立し、軍事/国家運営機能が、支配層の末端の騎士たる領主が自分の家と領地を単独で切り盛りすることの積み上げでもって基本的に代替されるようになったため、ではなかろうか。
[巡幸王権(移動宮廷=Itinerant Kingship)]
一般に、「世界史では主に、中世<欧州>のフランク王国や神聖ローマ帝国の皇帝、初期の<イギリス>王・カペー朝フランス王などが、この「巡り歩く王権」の代表例として紹介され<る>」
https://sekaishi-gendaishi.com/archives/4773
とされているところ、例えば、上掲でも、どうして巡幸する必要があるのかが一応説明されているけれど、可汗と雖も天幕生活をする騎馬遊牧民帝国、ないしその末裔である帝国、
https://sekaishi-gendaishi.com/archives/2816
においてならばいざ知らず、定着民の国で巡察ならぬ、統治機構を伴った巡幸、をすべき理由が乏しい上、通常典型例として挙げられる諸国がいずれも広義のヴァイキング系の王を戴く諸国であることからして、私見では、巡幸王権は、広義のヴァイキングの時代にその首長達が各地を襲撃して金品を強奪していた歴史の儀式化なのであって、「襲撃」が「訪問」に、「強奪」が「物納による徴税」に変わった、ということなのだ。
イギリスの場合、ロンドンが王権の中心地としての役割を強めたのは、ヘンリー1世(イギリス王:1100~1135年)が、イギリスの「行政機構を整備し、王室財務府(Exchequer)や巡回裁判官制度を導入し、これらの制度の中心をロンドンに置いた
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%98%E3%83%B3%E3%83%AA%E3%83%BC1%E4%B8%96_%28%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89%E7%8E%8B%29
時であったところ、このロンドンが事実上イギリスの首都になったのは、その更に後の14世紀中頃、と、遅れたが、それは、ロンドン・・現在のロンドンのシティー・・が、コモンローに起源を持ち、マグナカルタによって担保されたところの、王さえもたじろがせる強い自由権を有していたためだ。
https://en.wikipedia.org/wiki/Itinerant_court
他方、ブリトン人由来の人間主義が、アルフレッド大王当時に至って、アングロサクソンに継受され始めたようだ。
というか、この時点で、初めて、アングロサクソンは、単なるヴァイキングであることを脱したと言えよう。↓
「その生涯を通じてアルフレッド<は、>彼の民のことだけ、そして民にとって何が最も良いことかだけを考え続けた<。また、民は、・・・アルフレッドが>平和志向であり、君主は、要するに民の召使いであると見て<いた。>」(コラム#3954)
「・・・彼が聖別され戴冠する前に、エセルレッド(Æþelræd)は三重の誓約を立てることを求められた。すなわち、教会を保護し、盗みと邪悪を罰し、裁きにおいて正義と慈悲を示すことを誓ったのである。これらの趣旨は、かつては戴冠式において人々から王への請願としてのみ表明されていたが、973年の<アルフレッドの孫の>エドガー(Edgar)の帝王的儀式以来、それは王自らが誓う「王の約束」として再構成された。979年の<エドガーの子の>エセルレッドの戴冠に際しては、さらに大司教ダンスタンが俗語で説教を行い、若き王にその職務を教え諭すことで、この誓約は一層強化された。」(<Morris, Marc『The Anglo-Saxons: A History of the Beginnings of England』>319~320)
⇒神聖ローマ皇帝の戴冠諸儀式においては、神や教皇への言及がなされるだけ<だった>
https://en.wikipedia.org/wiki/Coronation_of_the_Holy_Roman_Emperor
し、フランス国王の戴冠式においても同様<だ>。
https://en.wikipedia.org/wiki/Coronation_of_the_French_monarch
イギリス国王のように「窃盗と邪悪を罰し、判断において公平で慈悲深くあることを誓う」ことなどなかった」(コラム#15330)
最後に、これが、今回の「講演」原稿のメインテーマに係る一応の結論なのだが、大分岐の始点となった、アングロサクソン社会の変容についてだ。
それは、第二次ヴァイキング侵攻に直面したアングロサクソン人・・第一次ヴァイキング侵攻の主!・・が、必要に迫られて、自分達の社会を変容させたものだ。
、「この時代においては、戦士はエリート的な職業であった。ゲルマン社会において、自由民すべてが参加する民兵的な軍隊が存在したという古い観念は、戦争が主として貴族的な営みであったことを示す史料とは相容れない。王は軍を編成する際、他の有力者――すなわち伯(ealdormen)や従士(thegns)――の支援を求め、彼らはさらに自分達に従属する、装備の整った戦士たちを召集したのである。多くの証拠は、これらの戦士が馬に乗っていたことを示しており、それは輸送のためだけでなく、必要に応じて戦闘においても用いられた。 ・・・
アルフレッドは、王とともに馬に乗って戦場へ赴く伝統的な軍事エリートの枠を超えて、戦争への参加を拡大することに成功した。彼の築いたブルフ(注45)(burhs)の城壁を守るためには、何千何万という下層の人々を見つけ出し、彼ら(あるいはその領主達)に王国防衛への貢献が義務であると納得させる必要があったのである。
(注45)burh(ブルフ)あるいは burg(ブルグ)とは、アングロサクソン時代の要塞または防備された集落を指す。 9世紀にはヴァイキングによる襲撃や侵入が相次ぎ、それに対抗するためにアルフレッド大王はブルフと道路のネットワークを整備した。新たに築かれたものもあれば、鉄器時代の丘陵要塞やローマ時代の砦の跡地に設けられ、古い防御施設の資材を利用したものもあった。ロンドンブルフ(中世ロンドン)のように、多くは河川沿いに位置しており、これによって国内の補給線を確保すると同時に、喫水の浅いロングシップなどを用いる侵入者の王国内部への進入を制限することを狙ったのである。
さらにブルフは、商業的、時には行政的中心地としての副次的役割も担った。その防御施設は、イギリス各地の王立造幣所を守るためにも用いられた。・・・
明らかに、アルフレッドの意図は、イギリスの農場や村がいずれもブルフ(防御拠点)から20マイル(32km)以上離れないようにすることだったようだ。彼は「ヒアパス(herepaths)」と呼ばれる整備された軍用道路網を築き、それによってブルフ同士が結ばれ、住民は自分の地域のブルフへ迅速に避難できるようになった。ヒアパスはアルフレッドの軍隊が素早く敵に対処することを可能にし、必要に応じて他のブルフから援軍を呼び寄せることも容易にした。・・・
また、各ブルフにはヴァイキングに対抗するための騎兵部隊が備えられていたと考えられる。そして、ウェセックスの高い丘には、侵入者をいち早く知らせるための烽火(のろし)システムが存在した可能性も高い。
ブルフには経済的中心地としての副次的な役割もあり、交易や生産が行われる安全な避難所として機能した。武器庫、鍛冶場、王立の造幣所、交易所などがブルフの内部に設けられていた。これらは野戦に出ているアングロサクソン軍の補給拠点として利用され、兵士たちが常に武器、新しい馬、食料を供給され続けることを保証した。
アルフレッドの治世においては、王立のフィアード(fyrd)(王の軍隊)と地方のフィアード(地域防衛軍)との間に明確な区分があった。地方フィアードは自らのブルフの建設と防衛を担い、一方で王立フィアードの兵士たちは国王の指揮下に置かれていた。
これらのブルフの多くは、アルフレッド大王によって意識的に計画された政策のもとに築かれ、その政策は息子の長老エドワード、娘で「マーシア人の貴婦人」と呼ばれたエセルフレッド(Æthelflæd)、そしてその夫でマーシアの長官(Ealdorman)のエセルレッド(Æthelred)によって継承された。」
https://en.wikipedia.org/wiki/Burh
(参考)ブルフ群
https://en.wikipedia.org/wiki/Burh#/media/File:Anglo-Saxon_burhs.svg
彼がどのようにして、先行するどの王よりもはるかに多くの人口を動員することに成功したのか、その具体的な方法は謎に包まれている。」(コラム#15320)
⇒こんな空前の大事業に着手できたのは、大ブリテン島が、恐ろしいまでに豊かな地域であったからこそである、ということを、我々は、くれぐれも銘記すべきだろう。
なお、ブルフ群の構築、と、ブルフ群を結ぶ道路網の建設、を行う際に、サセックス等の住民の大部分は、ラテン語はもとより、古英語に関しても文盲であったと考えられ、よって、口頭でその指示が理由と共に伝達されたので、記録が残っていないのだろう。
で、構築、建設の理由に関しては、アングロサクソン系中の軍事エリート系に対しては対デーン人侵攻に対する防衛にとっての軍事的有効性を説明し、ブリトン人系に対しては、彼らの好む集団戦争的スポーツの譬えを使ってその有効性を説明し、アングロサクソン系中の非軍事エリート系に対しては、アングロサクソン系中の軍事エリート系もブリトン人系も納得していると説明した、と、想像したくなる。(太田)
「アングロサクソンもほぼヴァイキングであったと私は見るようになっているわけ<だ>が、そのヴァイキングは、略奪等に遠征する際、<先述のように、>戦士として出立するのは青壮年男性の一部であっ<て>、大ブリテン島東南部に掠奪後に定着した人々中の男性達の大半は、その後に「本国」から渡ってきた非戦士やその子孫であったと考えればよさそう<だ>。
アルフレッド大王は、そんなアングロサクソンを、<このようにして、>戦国時代の秦の(渡辺信一郎の言葉である<ところの>)耕戦の士(コラム#14940)へと変貌させ、有事に際には、・・・武器を取らせて<、一部は遊撃任務に就かせ、残りは各>ブルフ<に集合させた上でその>防衛任務に就かせたわけ<だ>。」(コラム#15320)
「ブルフにおいて何が起こっていたかを考えてみよう。アルフレッド王とその子らであるエドワード長兄王およびエセルフレッド(Æthelflæd)女王<(注46)>によって設置された当初、ブルフは要塞として機能することを意図されており、10世紀前半の間はその性格を保持していた。
(注46)「911年に夫・・・<のマーシア王>エゼルレッド・・・が亡くなると、<エセルフレッド>はMyrcnah lædige すなわち「マーシアの貴婦人(女性領主)」となった。歴史学者のイアン・ウォーカーは、彼女の継承を、アングロサクソンの歴史における王国の女性支配者の唯一の事例であり、「中世初期において最もユニークな出来事の1つ」であると説明している。この時代のウェセックスでは、王室の女性が政治的役割を果たすことは許されなかった。アルフレッド大王の妻は女王の称号を与えられておらず、チャーター(勅許)の証人の役割を果たすこともなかった。一方でマーシアでは、アルフレッドの妹でマーシアのブルグレッド王の妻のエゼルスウィスが<、>彼女は女王としてチャーターの証人となり、夫と共同で自分の名前で助成金を出すなど、女性貴族にも一定の政治参加の伝統があった。<エセルフレッド>が「マーシアの貴婦人」として統治を行った背景には、このようなマーシア特有の政治文化があったとされる。
エゼルレッドの死後、エドワード長兄王はマーシアにおけるロンドンとオックスフォード、そしてアルフレッド大王がマーシアの支配下に置いていた後背地を支配下に置いた。イアン・ウォーカーは<エセルフレッド>はマーシアでの自らの地位を弟に認めさせ、その見返りに領土の一部を明け渡したのではないかと示唆している。アルフレッド大王はウェセックスに要塞などの防御施設のネットワークを構築したが、子供のエドワード長兄王と<エセルフレッド>は共にその防御を強化し、<ヴァ>イキングへの攻撃に備えた。フランク・ステントンはエドワード長兄王と<エセルフレッド>との関係について次のように言及している「エドワード長兄王の主要な業績である南デンマークへの遠征は、マーシアを守る<エセルフレッド>の存在なしにはあり得なかった」。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%82%BB%E3%83%AB%E3%83%95%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%80
「ブル<グ>レッドの<マーシア>統治は874年まで続いたが、ヴァイキングによって王国から追放され、<妻の>エ<ゼ>ルスウィスと共にローマへ逃亡した。彼はその後まもなく亡くなった。エテルスウィスはさらに10年間イタリアに留まり、888年にパヴィアへの巡礼中に亡くなり 、サン・フェリーチェ修道院に埋葬された。」
https://en.wikipedia.org/w/index.php?title=Æthelswith&oldid=1319450499
内部は少数の貴族たる司令官達のものである大規模な軍事区画に分けられ、その中では建物が広く散在していた。しかし世紀半ば以降になると、農村から商人や職人が移り住むにつれて、ブルフの様相は変化し始めた。
⇒アングロサクソン社会は9世紀からデーン人による第二次ヴァイキング侵攻を受け始め、イギリスという国を建国してからも、それは間歇的に続き、11世紀にはノルマン人によって恒久的に占領されしまうが、そのノルマン人がフランス内にも領土を持っていたこともあり、そのフランス内領を巡っての戦争がイギリスに飛び火することもあるという状態になり、次いで14世紀からは英仏百年戦争という英仏間の全面戦争が15世紀まで続く、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BE%E5%B9%B4%E6%88%A6%E4%BA%89
といった具合に、イギリスは、いわば、恒常的戦争状態に置かれ続けることになる。
ブルフの話に戻るが、「ノルマンコンケスト以前の<ヴァイキング侵攻下の>二世紀の間に、アングロサクソン時代のイギリスの配分制度(allocative system)は深い変容を遂げた。従来の交換方法は次第に、価格が形成される(price-making)諸市場での交換へと置き換えられていったのである。この変容はヴァイキングの侵入によって加速された。ヴァイキングの存在は、敵を買収するか撃退するために必要な資源を動員するべく、人々を繰り返し市場へと駆り立てたからである。このような緊急的な財・サービスの転換(conversion)または販売(marketing)は、広範な制度的変化をもたらし、取引コストを段階的に低下させ、アングロサクソン人が市場向けの生産に従事する意欲を高める結果となった。」(S.R.H. Jones, Transaction costs, institutional change, and the emergence of a market economy in latter, Anglo-Saxon England 1993、より)
https://www.jstor.org/stable/2598252
ブルフに兵役招集された人々の装備・食糧等は自弁部分と「官給」部分があったであろうが、自弁部分の一部はブルフに到着後物々交換を含む購入がなされ、また、「官給」の不足部分は、当然、当局がブルフで、或いはブルフ等の商人等を介して購入したであろうことから、かかる兵役招集時に、招集されなかった人々の中の商人や職人も農村からブルフにやってきた筈であるところ、戦争状態が恒常化するにつれて、これらの商人や職人のうち、ブルフに定住する者も増えていったことだろう。(太田)
エゼルレッド(Æthelred)王の治世<(865~871年)>に作成されたウィンチェスター(Winchester)<(注47)>の調査文書には、皮なめし職人通り、盾作り職人通り、肉商人(すなわち肉屋)通り、が記されている。
(注47)ロンドンの南西100km弱のところに位置する、ウィンチェスター大聖堂で有名な都市。
https://en.wikipedia.org/wiki/Winchester
また考古学的にも、ウィンチェスターや他の場所において、大規模な貴族の囲い地が分割され、街路に面した規則的に区画された敷地が形成されたことが確認される。これらは明らかに商人や職人の店であった。ヨーク(York)では10世紀央より前にすでにそのような区画を有するに至っており、オックスフォード(Oxford)では同世紀末までに成立していた。
多くの場合、城壁の外に郊外が形成され、より騒がしく不快な産業を収容したり、定期的な市場の開催を容易にするために利用された。これらのブルフや都市は、完全に都市化するまでにはまだ長い道のりを残していたが、10世紀後半こそが都市的発展の出発点であった。発掘調査に基づく挿絵には、10世紀後半のウィンチェスターの一角が描かれており、ブルフが規則的な商業区画へと分割されつつある様子が示されている。」(コラム#15332)
⇒なお、アルフレッド大王が、「十分な資力を持つすべての若い自由民が英語を学ぶべきだと命じ」(前出)たのも、また、その「命で・・・「アングロ・サクソン年代記」・・・編纂が開始された」(前出)のも、その目的は、第二次ヴァイキングの侵攻やその後にも考えられるところの、外国からの軍事的脅威に対する安全保障を確保であって、第一に、ヴァイキング一般とは違う、アングロサクソン人としてのナショナリスティックな意識を、一つの国の国民へと変貌・統合されつつあった彼らに喚起・注入して、その士気を高めようとし、第二に、軍事上のコミュニケーションの円滑化を図ろうとしたのだろう。(太田)
アルフレッド大王が亡くなったのは9世紀の最後の年である899年であるところ、「イギリスでは10世紀から都会化(urbanization)が起こったという<ので>すが、それが、大ブリテン島のローマ時代おけるローマ領地域のそれとどう違うのか・・・<、判然とし>ません。
想像するに、個人主義者で分散居住を好むアングロサクソン人が集中居住を始めたこと自体が画期的なことであって、それを都会化と呼んだ、ということかもしれませんね。・・・
そして、都会化と同時に村の生誕も見られたというのですから、この時期に大きな意識の変化、というか、文化の変化、が、アングロサクソン人の間で起こったということのようです。
ひょっとすると、ローマ時代以前のブリトン人・・ある程度はローマ時代のブリトン人の間でも残っていた・・の意識、文化、に、この点でもアングロサクソン人が影響を受けたのかもしれません。」(コラム#15332)
「社会的・経済的変容の原因は多岐にわたり、特定するのは容易ではない。・・・一つの要因は、人口の増加である。先の世紀において、<イギリス>の農業は主として豚・羊・牛の飼育に依存しており、作物栽培というより困難な作業に充てられる土地はごくわずかであった。 しかし、村落が集住化し始めた地域では、周囲の共有地が次第に農地へと転換されていき、この発展はやがて中世後期に有名な「オープン・フィールド」を形成することになる。前近代社会において穀物生産が増加したのは、人口が増加していたからである。養うべき口が増えることは、土地をより集約的に耕作せざるを得ないことを意味した。」(コラム#15334)
⇒広義のアングロサクソン人、そしてその後裔たるイギリス人、の、ブルフや田舎における集住は、サセックス、そしてその後裔たるイギリス、における、耕戦の士からなる総力戦体制の構築に伴い、アングロサクソンのエリート層における、平時における反産業主義が、平時がそう長くはない休戦期でしかなくなったことに伴い、緩和されて、彼らがやや勤勉になり、かつまた、恒常的戦争状態下で必要十分な耕戦の士を確保するためには人口を減らすようなことは回避しなければならないというコンセンサス的意識が生じると共に食糧増産の必要性もまた認識されて牧畜から単当収量のより大きいところの作物栽培へのシフトが起こり、また、戦時においては戦闘員も非戦闘員も押しなべて集団生活を余儀なくされるところ、戦争の事実上の恒常化状態の下で、平時におけるものであった個人主義も平時の事実上の消滅に伴ってこれまたまた緩和せざるを得なくなり、その結果、ブルフと田舎の双方で集住化が進展することとなり、これらを背景として、当然、商工業もまた活発化した、ということだろう。
こうして、アングロサクソン社会成立の当初から個人主義/資本主義であったところのアングロサクソン/イギリスの経済は離陸を果し、主として、自前の日進月歩の科学技術力に依拠したところの、アングロサクソン/イギリスにおいて、当時の世界の他の全ての地域に比しての相対的高度経済成長が、始まったのだ。
私は、この離陸の時点で、私が言うところの、アングロサクソン文明が成立した、と、考えるに至っている。
経済の基盤が、片や農業、片や工業、という違い等に由来する成長率の違いこそあるけれど、これは、最初から人間主義/エージェンシー関係の重層構造であったところの日本において、(靖国神社史観に照らせば)1860年の桜田門外の変から始まったところの、日本の日蓮主義完遂戦争が、明治維新後に総力戦化し、主として借り物の科学技術力に依拠して、当時の世界の他の全ての地域に比しての相対的高度経済成長が始まったこと、と、軌を一にしている。
但し、両者が決定的に異なるのは、日本の総力戦は、その経済が離陸してから、1945年にわずか80年弱で終わってしまったのに対し、イギリスでは、総力戦が、9世紀から実に現在まで、1000年を優に超える間、続いたために、世界覇権国になる運びとなった・・できそこないとはいえ、一応アングロサクソン(イギリス)の端くれたる米国に100年以上前に引き継がれた形ではあるが・・のに対し、日本は、総力戦が先の大戦の終戦によって終わると、安全保障を米国にぶん投げてしまった結果戦争とは無縁になり、菊と刀のうちの刀に係るあらゆるものがが岸カルトの下で積極的に払拭されたことと相俟って、人々の間から総力戦メンタリティーどころか弥生性そのものが完全に失われしまう運びとなった結果、総力戦時代の慣性で経済高度成長が続いて世界第二の経済大国にまで上り詰めたものの、世界一になる寸前に成長が止まってしまった挙句、世界共通の少子化もこれあり、あろうことか、その後衰亡過程に入ってしまった、という点だ。(太田)
3 エピローグ
第一に、今回、イギリス人の、恐ろしいほどしたたかな賢明さ、を、改めて思い知らされたような気がしている。
私が最初に気付いたのはイギリス(アングロサクソン)と欧州(西欧)とが違う文明に属することを彼らが知っていて黙っていることだったが、気付いた二つ目が、大分岐を起こしたのがイギリスであって、そのイギリスは、地理的意味での欧州にこそ含まれるけれど、文明的/文化的には欧州には含まれない、ということを知りながら、彼らが知らないふりをしてきたことであり、かつ、それに関連するところの、大分岐の起点を恐らくは知りながらやはり知らないふりをしてきたことだった。
これについて取り上げ、掘り下げてみたのが今回の「講演」原稿であるわけだ。
そして、それを書いている過程で、イギリス人達・・正確には、イギリス人達の中でアングロサクソンを先祖に持つ人々・・が、自分達の先祖がヴァイキングであったことを隠してきたことにも気付いた。
繰り返しになるが、どうして、イギリス人達は、このように、知らないふりをしたり、隠したりしてきたのかと言えば、それはいわずと知れたことながら、長期にわたって繁栄を謳歌し、地理的意味での欧州で、次いで世界で、覇権を享受してきたところの、自分達、に対して向けられる、欧州(就中西欧)の人々に代表される世界の人々の妬みやそねみや怒りを少しでも軽減することによって、自分達への非難や攻撃のトーンダウンを図るためだ。
ついでに言えば、ブリトン人バスク人説の信憑性は高いというのに、イギリス人達がこの説に極力言及しないようにしてきたように思われるところ、それは、(欧州文明に属するアイルランドの人々に至ってはほぼバスク人のままである上欧州にも当然バスク人はいるわけだが、)バスク人が印欧語族どころか欧亜語族ですらない異質の人々である(コラム#省略)ことから、そんなブリトン人との混血の部分がある自分達は、そもそも人種的に西欧の人々と異なっている以上、文明もまた異にしているのではないか、という疑念を、世界の人々に抱かせないためではないか、ということに、最後の最後に気付いた次第だ。
第二に、私の日本史が概成したこともあり、おかげさまで、今回ようやく、私の世界史も概成した感がある。
それは、私の言う弥生的縄文人であったところの、日本列島の歴史上の弥生人の上澄みが、騎馬遊牧民系弥生人の軍事的脅威に対処するために、秘匿しつつ自分達上澄みを私の言う縄文的弥生人へと作り変える営みを開始し、それに成功することによって、菊と刀という、表見的には対立的2要素からなる日本文明を創造し、(ツングース系)の刀伊の入寇を、次いで(モンゴル系の)元寇を、鎧袖一触することによって、目標を一段高め、弥生人の撲滅に置くこととし、そのために日蓮主義を生み出し、やがて、騎馬遊牧民系弥生人と(新たに日本に迫ってきた)ヴァイキング系弥生人の弥生性を二つながら一挙に撲滅するための日蓮主義戦争に着手し、長い休戦期間を経て、その完遂戦争を再開して、騎馬遊牧民系の最後の大帝国の一つである(やはりツングース系の)清を日清戦争でもって終わりの初め状態へと追い込み、次いで、ヴァイキングと騎馬遊牧民の両弥生性を帯びた精神障害国ロシアを日露戦争でお前はもう死んでいる状態へと陥れ・・その証左こそが、ロシアによるマルクスレーニン主義/スターリン主義なる巨大な譫妄言動だった・・、更に、清より永らえていたところの、最後の騎馬遊牧民大帝国たる(テュルク系の)オスマントルコを第一次世界大戦で連合国側に荷担することでもって滅亡させるとともに、先の大戦で、英米に飼われていた中国国民党勢力を壊滅させて中共を勝利させ、かつ、英米の植民地群の解放、ひいては全欧州諸国の植民地群の解放、を決定づけることで、アングロサクソン/欧州のアジアでの威信の失墜に成功したこと、更には、米露冷戦を招来させたことによってロシアの死亡時期の前倒しと米国のインペリアル・オーバーストレッチによるその没落の加速化とを実現できたこと、でもって、大分岐・・正確には大分岐改・・の終息とその反転とを世界にもたらした、という新しい世界史だ。
Last but not least、今回の「講演」原稿執筆を通じて、日本の経済高度成長が終わり、更には日本が衰亡過程に入った原因まではっきり見えてきたことは、望外の収穫だった。
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太田述正コラム#15370(2025.12.13)
<2025.12.13東京オフ会次第>
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