太田述正コラム#15222(2025.9.30)
<岡本隆司『中国」の形成』を読む(その3)>(2025.12.25公開)
「・・・1636年、・・・・ホンタイジは、・・・皇帝に即位する。
年号を崇徳とあらため、国号を「大清国(ダイチン・グルン)」とした。
かつてモンゴル帝国の大ハーンが君臨した「大元国(ダイオン・ウルス)」そっくりである。
時に1636年、いわゆる清朝の成立である。・・・
ホンタイジ・清朝はこれで、明朝と比肩する地位に立った。
漢語・儒教的な理念からいうなら「皇帝」は天命を受けた天子であるため、天下に一人でなくてはならない。
だから明朝からみれば、清朝の帝号僭称はとても許せるものではなかった。
明・清はほんとうにあい容れない存在になったのである。」(5~6)
⇒岡本は、明・清「ほんとうにあい容れない存在になったの」は、「ハン(国王)から・・・皇帝とな<った>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AD%E7%BE%A9%E5%9C%92
1636年であるとしていますが、私は、前述したように、「ヌルハチ<が>・・・ハンの位につき、天命の年号を立てて建国を宣言し・・・国号をアイシン国(・・・金國)と定めた・・・1616年」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E9%87%91
であると考えています。
金を国名としたこと(コラム#省略)に加えて、「1618年、後金<が>「七大恨」<(注3)>を掲げて明に対して挙兵した」こと(上掲)もその証左の一つです。太田)
(注3)「第一、明朝は、理由もなくわが父と祖父を殺害した。(→明無端起釁邊陲害我祖父)
第二、明朝は、お互いに国境を越えないという女真との誓いを破った。
第三、明朝は、越境者を処刑したことの報復として、使者を殺して威嚇した。
第四、明朝は、われらとイェヘの婚姻を妨げ、女をモンゴルに与えた。
第五、明朝は、耕した土地の収穫を認めずに、軍をもって追いやった。
第六、明朝は、イェヘを信じて、われらを侮った。
第七、明朝は、天の意に従わず、イェヘを助けた。
七つの内容は、相互に重複した内容を含んでいることから、無理に七つ(縁起の良い数)にしたとも考えられている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%83%E5%A4%A7%E6%81%A8
「イェヘ=ナラ氏は・・・もともとモンゴル高原東部(内蒙古)にいたモンゴル系の貴族であった先祖がフルンの一部を支配していたナラ氏の家系に取って代わってその支配者となったと伝えられており、実際にはモンゴル系の部族が女直<(女真)>と同化して誕生した氏族である。・・・
イェヘ部が滅ぼされたのちもイェヘ=ナラ氏は満州屈指の名族として重んぜられ、多くの重臣を輩出した。またナラ姓の女性は、清の皇族である愛新覚羅氏の出た建州女直とは系統を異にする海西女直の名門であることから、清の後宮に入った者も多く、イェヘ=ナラ氏の妃もたびたび出ている。既にヌルハチがイェヘ部を滅ぼす以前に娶った夫人のうち、第3夫人の孝慈高皇后はのちに第2代皇帝となるホンタイジを生んでおり、また孝慈高皇后の妹もヌルハチの側妃(側室)となってその第8女を生んでいる。乾隆帝の夭折した息子を産んだ舒妃、咸豊帝の後宮に入って同治帝を産んだ西太后も、そうして後宮で皇帝の寵愛を受けたイェヘ=ナラ氏の女性であった。ただ・・・西太后<は>・・・、イェヘ=ナラ氏の中では身分の低い下級官僚の家庭に生まれ<ている。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%91%89%E8%B5%AB%E9%82%A3%E6%8B%89%E6%B0%8F
「グレ城主アタイの妻はヌルハチ祖父ギョチャンガ (清景祖) の子リドゥン・バトゥルの娘で、ヌルハチにとっては従姉妹にあたる。李成梁がグレ城攻略に苦戦していた頃、ギョチャンガは孫娘がグレ城内にいることを聞きつけ、子タクシ (ヌルハチ父、清顕祖) を伴って救出に向かった。グレ城が李成梁の攻撃を受けているのを目の当たりにしたギョチャンガは、タクシを城外に待機させて単身城内に跳び込んだ。しかし孫娘を連れ出すところになって城主アタイはギョチャンガのいうことを聴き容れようとせず、そこに痺れを切らしたタクシも入ってきた。やがて城塞を陥落させたニカンは、ギョチャンガとタクシが城に入ったのを知り、再び官兵を焚きつけ、戦火に紛れて二人を殺害させた。
祖父ギョチャンガの横死を知ったヌルハチは憤怒し、明の辺塞を訪ねて祖父を殺害した理由を問い質した。明側は「誤殺」であったと詫びた上で、二人の亡骸を返還し、朝貢勅書30道と馬30匹、さらに「都督勅書」を与えて幕引きを図ったが、納得のいかないヌルハチは、首謀者たる仇敵ニカンの身柄の引き渡しを索めた。ヌルハチをみくびる明側は、前(さき)に誤害せるに因り、故に敕書、馬匹を與へり。又た都督敕書を給へり。事已に畢(おは)んねど、今復た過求す。我當まさに尼堪外蘭を助け、甲版に築城し、爾(なむぢ)が滿洲國の主と爲さしめむ。
(誤殺については補償し、既に解決済みである。程を弁えぬのなら、甲版ギャバンに城塞を築いてニカンを城主に据え、うぬら建州女直の主にしてくれよう) と脅迫した。ところがスクスフ・ビラ部ではこれを間に受けた者が挙ってニカンに帰向し始め、挙句の果てには、ヌルハチにとって大伯叔父にあたる五人の寧古塔貝勒ニングタ・ベイレ(ギョチャンガ兄弟) の子孫までもが、ニカンへの帰向を諮って祖廟で盟約し、ヌルハチ排除を企てた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E7%84%A1%E7%AB%AF%E8%B5%B7%E9%87%81%E9%82%8A%E9%99%B2%E5%AE%B3%E6%88%91%E7%A5%96%E7%88%B6
「李成梁(りせいりょう、1526年 – 1615年)は、明代の軍人。・・・朝鮮から移民した李英の子孫である。・・・
長年にわたって遼東を統括し、地方の実力者として私兵を養い割拠した李成梁は、一方で軍費の流用などの汚職や専断が多く、万暦19年(1591年)に弾劾されて失職、治安情勢の悪化により一旦は復職したものの、万暦36年(1608年)に再度罷免された。
息子に万暦朝鮮の役(文禄・慶長の役)で日本軍と戦った李如松、サルフの戦いに参加した李如柏らがいる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%8E%E6%88%90%E6%A2%81
李如松<(1549~1598年)は、>・・・第一次万暦朝鮮の役(文禄の役)では防海禦倭総兵官として、朝鮮への援軍を率いた。朝鮮に入ると、万暦21年(1593年、文禄2年)1月に平壌城に拠る小西行長の軍勢を急襲して落城寸前まで追い込み、包囲を一部解いて自主撤退を勧告し、平壌を回復した。更に李如松は撤退する小西軍を追撃したが、漢城へ進撃する途上での碧蹄館の戦いで小早川隆景・立花宗茂らの軍勢に敗れ、平壌に撤退した。その後、積極的な攻勢に出ることはなく、和議による事態収拾を図った。・・・第二次万暦朝鮮の役(慶長の役)には参戦していない。・・・
大衆の説話ではあくどい面が浮き彫りにされているのは、平壌城の戦闘で李如松が指揮した明軍の戦果とする日本軍の切り落とされた頭の半数は、朝鮮の民衆であり、李如松が平壌城を攻撃した際に、朝鮮の民衆の頭を切り落とした後、前髪を刈り取り日本軍の頭に偽装して戦果をごまかしたことは、明軍では公然の秘密だった。それは明軍でも問題視され、山東都御史の周維韓は、調査官を送り、網目の帯状頭巾の跡がある朝鮮人の頭と前髪を刈り取った日本軍の頭を識別する作業を行い、責任を追及した。その他、李如松の平壌城攻撃で焼死・水死した朝鮮人が1万人位いたという記録が『宣祖実録』に出ており、老斤里事件を凌ぐ虐殺を李如松は行った。
大衆の説話では、李如松は名もない少女・若者・老人・山神などにより、朝鮮から追い出されたことになっている。李如松の死に哀悼一色だった朝廷とは異なり、説話では「李如松は自分で自分の首を絞めたうえに、彼の子孫まで没落させた」と高笑いして<いる。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%8E%E5%A6%82%E6%9D%BE
なお、李成梁・李如松父子が、それぞれ、女真の勃興に結果として力を貸し、文禄の役の時の日本軍の唐入り阻止に「貢献」したことは、この父子を通じて、(かつまた、唐入りの与えた経済的影響もこれあり、)日本自身が女真の勃興をもたらした、と、総括してもあながち間違いでもなさそうですね。(太田)
(続く)