太田述正コラム#9467(2017.11.17)
<石野裕子『物語 フィンランドの歴史』を読む(その11)>(2018.3.2公開)

 「日露戦争中の1905年1月、サンクトペテルブルクで日露戦争の中止や労働者の法的保護などを要求した労働者の行進にロシア軍が発砲し、多くの死傷者が出た。
 いわゆる「血の日曜日事件」<(注22)(コラム#3532、5782、7118、8599、8713)>である。

 (注22)「請願の内容は、労働者の法的保護、当時日本に対し完全に劣勢となっていた日露戦争の中止、憲法の制定、基本的人権の確立など・・・だった。
 当時のロシア民衆は、ロシア正教会の影響の下、皇帝崇拝の観念をもっていた。これは、皇帝の権力は王権神授によるものであり、またロシア皇帝は東ローマ帝国を受け継ぐキリスト教(正教会)の守護者であるという思想である。このため民衆は皇帝ニコライ2世への直訴によって情勢が改善されると信じていた。
 行進に先立って挙行されたストライキへの参加者は、サンクトペテルブルクの全労働者18万人中、11万人に及んだと言われ、行進参加者は6万人に達した。・・・
 慎重に概算した報告でも死傷者の数は1,000人以上とされる。・・・
 この事件の結果、皇帝崇拝の幻想は打ち砕かれ、後にロシア第一革命と呼ばれた全国規模の反政府運動がこの年勃発したとみなされている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A1%80%E3%81%AE%E6%97%A5%E6%9B%9C%E6%97%A5%E4%BA%8B%E4%BB%B6_(1905%E5%B9%B4)

 6月には、のちに映画にもなった戦艦ポチョムキンでの水兵の反乱<(注23)(コラム#3532、5782、8713)>が起こるなど、ロシア政府への反発が広がり、10月に始まったモスクワでのゼネストから第一次革命<(注24)>が勃発する。

 (注23)ポチョムキン=タヴリーチェスキー公。「竣工した<ばかりの>・・・1905年6月14日、艦上で水兵による武装蜂起が発生した。」その後の成行と艦の運命は実に面白い。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%83%81%E3%83%A7%E3%83%A0%E3%82%AD%E3%83%B3%EF%BC%9D%E3%82%BF%E3%83%B4%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%81%E3%82%A7%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%BC%E5%85%AC_(%E6%88%A6%E8%89%A6)#.E3.83.9D.E3.83.81.E3.83.A7.E3.83.A0.E3.82.AD.E3.83.B3.E3.81.AE.E5.8F.9B.E4.B9.B1
 (注24)「1905年に発生した「血の日曜日事件」を発端とする・・・1905年1月29日~1907年6月19日・・・<の>ロシアの革命である。・・・
 最後の暴動はモスクワで勃発した。ボリシェビキは<1905年>12月5日から7日(旧暦)まで、労働者に対する脅迫と暴力でゼネストを強行した。政府は7日に派兵し、市街戦が始まった。1週間後、セメノフスキイ連隊が展開し、デモを粉砕するために大砲を使用し、労働者が占拠する区域を砲撃した。12月18日(旧暦)、約1,000人が死亡し、都市が廃墟になって、ボリシェヴィキは投降した。その後の報復で数知れぬ人々が殴打され殺された。・・・
 警察の統計によると、1901年から1911年にかけて革命運動によって殺されたのは約1万7,000人。うち、1905年から1907年の2年間で約9,000人となって<いる。>・・・
 <しかし、>本質においてロシアは変わらず、権力はツァーリが握り続け、富と土地は貴族が所有し続けた。<すなわち、>ドゥーマ<(国会)>の創設と弾圧は革命団体を崩壊させることに成功した。指導者は収監されるか亡命し、組織は混乱し、迷走した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%82%B7%E3%82%A2%E7%AC%AC%E4%B8%80%E9%9D%A9%E5%91%BD

⇒ニコライ2世の民主化への抵抗は、ロシアの皇帝や貴族達が頑迷固陋だったというより、前にも記したように、ロシア支配層の被支配層に対する、人種主義的蔑視に基づく、不信があった、ということのように私には思えてなりません。(太田)

 10月末から11月にかけて、フィンランドでも・・・大ストライキが全土で行われた。
 鉄道網は麻痺し、工場は稼働を停止した。・・・
 ロシア帝国内での反乱に加えて、日露戦争の敗北など国内外の騒乱に疲弊したロシア皇帝はフィンランドの要求を呑んだ。
 その結果、1906年7月に議会法が制定される。
 この議会法によって身分制議会が創設された。
 そして、翌年3月に初の普通選挙が実施される。
 この選挙では24歳以上の男女に参政権が認められた。
 フィンランドは当時イギリス領であったニュージーランド、イギリスから独立したオーストラリアに次ぎ、<世界で>三番目に女性参政権を実現したが、被選挙権を女性が獲得したのはフィンランドが<世界で>初めてであった。・・・

⇒ロシア本体とフィンランドに対する、このような極端な対応の違いについては、(その因ってきたる所以を石野は説明していませんが、)すぐ上で私が申し上げた見解を裏付けているのではないでしょうか。(太田)

 <しかし、>第一次世界大戦勃発後、フィンランドでは1914年から15年にかけて議会は日開かれず、ロシア人・・・が内政を担った。
 さらにフィンランド国事委員会長官もロシア人に取って代わられた。」(92~93、99)

⇒これについては、有事なので、ロシア当局を責めるわけにはいかないでしょう。(太田)

(続く)