太田述正コラム#9479(2017.11.23)
<石野裕子『物語 フィンランドの歴史』を読む(その17)>(2018.3.9公開)

 「1929年10月24日にニューヨークのウォール街の株価大暴落「暗黒の木曜日」から始まった世界恐慌の影響は、フィンランドにも及んだ。
 木材と農作物の価格は下落し、失業者は15万人まで膨れ上がった。
 この数は就労人口の10~15%にあたる。
 政府は公共投資によって失業者の救済を試みたが、すぐに効果はでなかった。
 不況下に置かれた人びとの不満は、ソ連や共産主義者<に>向けられ、・・・暴力的な反共運動<である>・・・ラプア運動<(注33)>が生まれていった。・・・

 (注33)Lapua Movement。「<スヴィンフッヴド>とマンネルヘイムは当初、ラプア運動を単純な愛国運動と考え、その危険な本性にすぐには気付かなかった・・・。とりわけ・・・マンネルヘイムは、少なくとも当初はラプア運動への共感と支持を表明していた。・・・しかし、・・・ラプア運動がテロ活動や暴力革命の道に進んだことにより、マンネルヘイムは素早く態度を翻してラプア運動を警戒するようになり、自身が政治的な権力を得るためにラプア運動に便乗することもなかった。・・・
 1930年・・・10月には共産党員の国会および地方議会への立候補を制限する法案が成立し、ラプア運動は盛り上がりの頂点に達した。・・・
 ところが、同じく1930年10月、ラプア運動の参加者によって、フィンランド初代大統領の・・・ストールベリとその妻が誘拐されるという事件が発生した。・・・誘拐<は>失敗に終わ<っ>・・・たが、・・・ラプア運動は民衆や<スヴィンフッヴド>、マンネルヘイムらの支持を失って勢力を弱め、政府と議会を敵に廻す結果を招いた。・・・
 1932年、共産党の非合法化の成功に味を占めていたラプア運動は、更にフィンランド社会民主党の非合法化を要求した。しかし、共産党とは支持層も異なり、しかも議会で最大政党であった社会民主党を非合法化するという要求は、議会政治の否定と受け止められた。こうして、最終的にはラプア運動自体が共産党同様に非合法化される事となった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%83%97%E3%82%A2%E9%81%8B%E5%8B%95

⇒ラプア運動の邦語ウィキペディアが存在することには、いささか驚きました。(太田)

 ラプアとは、事件が起こったフィンランド西部の小さな村の名前である。・・・
 <結局、1930年>11月に共産主義運動取締令が議会で可決され、200議席中23議席を誇った共産主義系のフィンランド社会労働者党は公に活動ができなくなった。
 これはドイツでナチが政権を獲得する3年前である。・・・
 1930年代初頭のフィンランドは、ラプア運動の過激化で極右運動を支持する声は小さくなり、反ソ意識から極左運動も支持を得られない状況にあった。
 政治は極端に右にも左にも寄らない「揺り戻し」という状況となる。
 中道の政権が続き、政情が安定していく。
 この揺り戻しは1933年から経済が上向きになり、恐慌から脱出できたことが大きな要因であった。・・・
 ラプア運動の高揚によって、フィンランドはソ連との関係が悪化していた。
 ラプア運動の終結から関係の改善を試み、その結果として、1932年7月にソ連と不可侵条約を締結する。
 ソ連は1920年代初頭から近隣諸国と不可侵条約を締結しており、同年にポーランド、デンマークとも条約を調印していた。
 しかし、のちにソ連がこの条約を一方的に破棄し、フィンランドに侵攻してくることになる。・・・
 1939年9月、ドイツのポーランド侵攻から始まった第二次世界大戦。

⇒私自身は、「1939年・・・8月23日には<ドイツと>ソビエト連邦<が>独ソ不可侵条約を締結し・・・<その>秘密議定書<で、>独ソ両国によるポーランド分割、またソ連<の>バルト三国、フィンランドのカレリア、ルーマニアのベッサラビアへの領土的野心を・・・ドイツは・・・承認した。・・・<これを踏まえ、>1939年9月1日、ドイツ<が西から>ポーランド<に>侵攻<し、>・・・9月17日にはソ連軍も東から侵攻し、ポーランドは独ソ両国に分割・占領された」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E6%AC%A1%E4%B8%96%E7%95%8C%E5%A4%A7%E6%88%A6
のですから、第二次世界大戦は、独ソの野合による共同でのポーランド侵攻から始まった、という認識です。(太田)

 その間、フィンランドは二度にわたってソ連と戦火を交えた。
 フィンランドでは、1939年11月30日から40年3月13日までの最初の対ソ戦を「冬戦争」、41年6月25日から44年9月19日までの二度目の対ソ戦を「継続戦争」と呼び、両者を一連の戦争とみなしてきた。・・・
 現在では、二度目の対ソ戦争時、つまり継続戦争ではフィンランドに領土拡張の意図があったことが明らかになっている。」(135、137、139~140)

(続く)

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