太田述正コラム#9493(2017.11.30)
<渡辺克義『物語 ポーランドの歴史』を読む(その1)>(2018.3.16公開)

1 始めに

 引き続き、今度は、渡辺克義『物語 ポーランドの歴史–東欧の「大国」の苦難と再生』を取り上げます。
 なお、渡辺(1960年~)は、「東京外国語大学ロシア語学科を卒業、・・・東京都立大学大学院修士課程修了。同年からワルシャワ大学に留学してポーランド文化・歴史を学び、1990年に同大学院博士課程修了。帰国後は新潟で中学教諭となる。・・・東京大学大学院人文社会系研究科スラヴ語スラヴ文学専攻修了、「ポーランド人の姓名 ポーランド固有名詞学序説」で博士(文学)。日本学術振興会特別研究員を経て、・・・山口県立大学助教授、教授」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%A1%E8%BE%BA%E5%85%8B%E7%BE%A9
、という人物です。
 この本については、前書き中の、「本書では現代史の記述に多くの紙幅が割かれているが、これは今日のポーランドの姿に直接影響を及ぼしているのが現代史にほかならないとの判断によるのだが、同時に筆者の専門が現代史であることとも無関係ではない。」には首を傾げました。
 私見では、「今日の・・・姿に直接影響を及ぼしているのが現代史」ではない国や地域の方が普通だからです。
 実際、「今日の」ロシア「の姿に直接影響を及ぼしているのが」13世紀から始まったモンゴルの軛であった(私見)的なことがポーランドにもあるのではないか、と、私自身、(フィンランドに比べれば、断片的ながら、相対的に、ポーランドの歴史に通じていているところ、)かねてから考えていましたしね。
 それが何であるかは、・・さほど奇矯な見解ではないと思うのですが・・やがて明らかにします。
 ゲスの勘繰りである可能性は認めますが、渡辺は、率直に、自分は、ポーランドの昔の歴史には余り詳しくないから、現代史に重点を置く構成にした、と記すべきであった、と私は思います。 

2 ポーランドの歴史

 「ポラニェ族の君主ミェシュコ1世<(注1)>(在位960頃~992)は周辺の諸部族を統合して、政治的統一を達成した。

 (注1)ミェシュコ1世(Mieszko I, 935? ~ 992年)は、「ポーランド王国ピャスト朝の創始者で事実上の初代ポーランド王。ただし王号は正式に公認されておらず、実際にはポーランド公(在位:963年~992年)。・・・
 神聖ローマ帝国の侵略を食い止めるために、ローマ教皇に莫大な貢物を送ってその援助を受け、966年にはカトリックに改宗した。その際、設置されたポズナンの司教座は教皇に直属した。・・・そしてチェック人が築き上げたチェック(ボヘミア)公国の公女ドゥブラフカを妃として迎えることで同盟を結び、・・・ポーランドの統一を完成させたのである。・・・<彼の>長女・・・は、最初スウェーデンのエリク6世に嫁ぎ、・・・スウェーデン王オーロフを生み、次いでデンマークのスヴェン1世に嫁いで、・・・クヌーズ2世(カヌート大王)を生んだ。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%82%A7%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%82%B31%E4%B8%96
 彼の死亡時のポーランドの領域と1945年以降のポーランドの領域はほぼ一致している。
https://en.wikipedia.org/wiki/Mieszko_I_of_Poland
 カヌート(クヌート)大王(Canute the Great。995~1035年)は、「父スヴェンおよび・・・ミェシュコ1世の子であるポーランド国王ボレスワフ1世(勇敢王)・・・配下のポーランド諸侯と共に<イギリス>に侵攻して活躍した。1014年、父が戦死した後、その後を継いで戦い続けて勢力を拡大した。それをもって1016年、アングロ・サクソン封建家臣団の会議で<イギリス>王に推挙され、即位することとなった。1018年には兄ハーラル2世の死によりデンマーク王位を継承した。その後はノルウェーやスウェーデンに遠征して勢力を拡大した。1028年にはノルウェー王位も兼ねることとなり、3国の王位を兼ねて「大王」と称された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%8C%E3%83%BC%E3%83%881%E4%B8%96_(%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89%E7%8E%8B)

⇒「注1」中の、「<ミェシュコ1世>の死亡時のポーランドの領域と1945年以降のポーランドの領域はほぼ一致している」ことこそ、大昔の史実が、(関係諸国や関係者が共有する史実認識を通じて、)現代史を規定することがあることの一例証です。
 なお、ボレスワフ1世による(その甥であるところの)カヌートらイギリス征服事業への「無償」協力の史実そのものは前から知っていたところ、結局、これは、ボレスワフの、父親譲りの、(この場合は、北欧諸「国」との関係の一層の強化による北方脅威の最小化を企図した、)高度な政治的動きだったのでしょうね。(太田)

 12世紀に編纂されたポーランド初の年代記『匿名のガル年代記』によれば、<四代を>経てミェシュコ1世に至るというが、歴史上その存在が確認されているのはミェシュコ1世からである・・・。
 966年、ミェシュコはキリスト教を受容する。
 
(続く)

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