太田述正コラム#9499(2017.12.3)
<渡辺克義『物語 ポーランドの歴史』を読む(その3)>(2018.3.19公開)

 「カジミュシュ大王の死去に伴いピャスト朝は断絶した。
 大王には男子継承者がいなかったため、王位は大王の甥にあたるハンガリー王のラヨシュ大王(ポーランド名はルドヴィク。在位1370~82)<(注7)>に引き継がれた・・・。

 (注7)「カジミェシュ<大王>は他家よりも傍系でも同じピャスト家に相続させたいと考えたのか、1370年に死去する直前に女系の孫であるスウプスク公カシコとラヨシュ1世との間で分割するよう遺言した。しかし、王国が再分裂することを恐れたシュラフタ(ポーランド貴族)は、カシコに王位放棄の代償としてドイツ騎士団からの返還予定地であるドブジンを与えることで納得させ、ラヨシュ1世はルドヴィク1世として晴れてポーランド王に即位することが出来た。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%82%B8%E3%83%A5%E3%83%BC%E6%9C%9D

 ルドヴィクは長女マリアに王位を継承させたいと願い、シュラフタ(中小貴族)にそのことを認めさせるため、1374年、彼らに対し、城砦修理義務とわずかな税を除き、一切の負担を免除した(コンチェの特権)。

⇒邦語ウィキペディアは、その箇所に直接の典拠が付されていませんが、「ルドヴィク1世は、その関心をもっぱらバルカンやナポリに向けていたので、ポーランドは母エルジュビェタが統治することになった。ポーランド貴族はこれを好機と捉えて、ルドヴィク1世から多大な特権を得ることに成功している。1355年に発行された「ブダの特権」は貴族・聖職者階級からの新税を免除するものであった。加えて1374年の特許状では貴族及び騎士が有する農地で働く農民が払うべき「鋤」税の軽減が定められ、騎士や聖職者への手当も支給されることになった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%82%B8%E3%83%A5%E3%83%BC%E6%9C%9D
としており、渡辺の説明と食い違っていることが気になります。
 そもそも、シュラフタなるものの存在と、それによる王権の形骸化の進行こそが、ポーランド史の最大の特徴なのに、ここで、何の注釈もなしに「シュラフタ」という言葉を登場させた渡辺のセンスを疑います。
 なお、この邦語ウィキペディアには、(やはり、その直接の典拠が付されていませんが、)「ルドヴィク1世は、カジミェシュ3世が心血注いで獲得したハーリチ地方をハンガリー領に編入したり、シロンスクをボヘミアに、辺境の係争地をブランデンブルク辺境伯に割譲した・・・。当然のことながらポーランド国内では激しい反発心を引き起こし、1376年の暴動では数十人のハンガリー人が虐殺されている。1382年にルドヴィク1世が死去すると、ポーランド貴族の反発心は一気に爆発する形となる。」という興味深い記述もあります。(太田)

 ルドヴィクの死後、2年余りの空位期を経て、結局王位を継承したのは次女のヤドヴィガ<(注8)>であった。(在位1384~99年)

 (注8)「女性の君主でありながら女王(regina, queen)ではなく王(rex, king)の称号を持つが、これは<欧州>では非常に稀な例である。・・・ヤドヴィガはその死後間もなく、ポーランドで多くの人々に聖女として崇敬を受けるようになったが、列福は1980年代に入ってからで、1997年にポーランド人教皇ヨハネ・パウロ2世によって列聖された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A4%E3%83%89%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%82%AC_(%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89%E5%A5%B3%E7%8E%8B)

 ヤドヴィガは女性初のポーランド王となるが、即位したときはわずかに11歳だった。
 ポーランドとリトアニアにはドイツ騎士団という共通の敵がいたので、政略的理由からヤドヴィガの夫にはリトアニア大公国の君主が選ばれることになった。
 1385年、・・・リトアニア君主ヨガイラ(ポーランド名はヤギェウォ)がカトリックの洗礼を受けたのち、ヤドヴィガと婚姻関係を結び、ヤドヴィガと並んでポーランド王となることが決められた(クレヴォの合同)。

⇒「異教徒ヨガイラとリトアニア大公国がカトリック教会に入信」(上掲)したというのですが、14世紀後半に、まだ、欧州に非キリスト教地区が残っていたのは驚きです。
 とまれ、この時点で、地理的意味での欧州(及びロシア)全体が、私に言わせれば野蛮化したわけです。(太田)

 二人は1386年2月、正式に結婚した。
 翌月、ヤギェウォはポーランド王ヴワディスワフ2世<(注9)>として即位した(在位1386~1434)。

 (注9)「リトアニア大公(1377年–1434年)、ポーランドの王配(1386年–1399年)及び単独のポーランド国王(1399年–1434年)。・・・己の名前を帯びたヤギェウォ朝の創設者<であるところ、>・・・<この>王朝は両国を1572年まで支配し<たが、>・・・その統治期間中、ポーランド=リトアニア合同はキリスト教世界で最大の国家であった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%83%AF%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%B9%E3%83%AF%E3%83%952%E4%B8%96_(%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89%E7%8E%8B)

 ポーランド・リトアニア連合王国の誕生である。」(14~15)

(続く)