太田述正コラム#9509(2017.12.8)
<渡辺克義『物語 ポーランドの歴史』を読む(その8)>(2018.3.24公開)

 「スウェーデンのヴァザ家がポーランド王として君臨した1587~1672年は、スウェーデン・ポーランド両国の間で戦が絶えない時代であった。」(25)

⇒この後、この戦争の推移がかなり詳しく記述されていますが、同じ王家同士でどうして「戦が絶えな」いようなことになったのかの説明を渡辺が省いていることに首を傾げただけでなく、この戦争が、どうして、立ち上がりでポーランド優位であったのか、その後、スウェーデン優位に推移することとなったのか、も説明されていないことには唖然としてしまいました。
 両国の長期抗争の出発点は、次の通りです。↓
 「ジギスムンド<3世>は母カタリーナの意思を継いで、スウェーデンのカトリック勢力と結んでスウェーデン国内における対抗宗教改革を主導した。しかしスウェーデンの指導層の多くはルター派プロテスタントであり、彼らはスウェーデンでカトリック再布教を進めようとするジギスムンドを国王とすることに不満を募らせるようになった。スウェーデン保守派(すなわちルター派プロテスタント教徒)は1598年にジギスムンドの叔父でありジギスムンドの[スウェーデンでの代行]をつとめていたプロテスタント教徒のカール(カール9世)を擁立してジギスムンドを廃位した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%82%A6%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%83%87%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89%E6%88%A6%E4%BA%89 ☆
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%AB9%E4%B8%96_(%E3%82%B9%E3%82%A6%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%83%87%E3%83%B3%E7%8E%8B) ([]内)
 (なお、スウェーデン・ポーランド戦争の起点についてはリヴォニア戦争
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AA%E3%83%B4%E3%82%A9%E3%83%8B%E3%82%A2%E6%88%A6%E4%BA%89
からとする説もあるようです(☆)が、渡辺は、反シギスムント戦争(1598~1599年)
https://en.wikipedia.org/wiki/War_against_Sigismund
を起点としているわけですが、スウェーデン王位を巡るこの戦争自体はポーランドの敗北で終わっていることに注意が必要です。)
 「当時のスウェーデンは、宗教改革と1600年のカトリック教徒諸侯の粛清などもあって国力の弱体化の極致にあり、またカール9世が1604年に<正式>国王に即位した直後のことでもあり、軍事力、経済力共に強国<ポーランド>との差は歴然」(☆)だったために、スウェーデン・ポーランド戦争は、ポーランド優位の形で始まったのです。
 ところが、その後、以下のような経過で、スウェーデンが・・スウェーデン自身の改革等もあったのですが・・優位に転じます。↓
 「ジグムント3世の政治に反対する議会派有志が起こした強訴<(前出)>・・・において、王は反乱者の不満をロシア政策に振り向けることで事態を収拾しようとし、[1609年から]モスクワ<大公国>への介入が本格化していく。・・・カトリック保守過激派である・・・ジグムント3世は、ロシア全土のカトリック化を画策していることを隠し、表向きは専制を排した自由な国家連合を結成することを標榜してモスクワ大公国の動乱に介入、・・・モスクワを占領した。<強訴>の参加者たちは恩赦を受けたのち、モスクワ大公国の民主派を支援しようと進軍した。当時のモスクワ大公国では、<ポーランド>はそれまでロシア社会を支配していた専制政治に対抗する政治的自由主義の擁護者と見られており、・・・占領者の<ポーランド>軍は、当初はモスクワ・・・市民<ら>によって、圧政からの解放者として歓迎されていた。ところが、しばらくしてジグムント3世がカトリック保守過激主義の立場を露わにすると・・・1612年、モスクワ市民は・・・大反乱を起こし・・・<たため、ポーランド>はモスクワ大公国からの全面撤退を決定、それまでに計上した多大な財政的損失の埋め合わせのめどが立たないまま1618年にモスクワと和睦することになった(デウリノの和約)。このことで<ポーランド>の国家財政は大幅に弱体化、以後の対スウェーデン戦争でもこのときの財政的損失が大きく響き、スウェーデンとの間で形勢が逆転していくことになる。」
(☆。但し、[]内は、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BC%E3%83%96%E3%82%B8%E3%83%89%E3%83%95%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%81%AE%E5%8F%8D%E4%B9%B1
 そして、爾後、一貫してスウェーデン優位の下に推移していくのです。
 ところで、サンクトペテルブルクが首都であった1713~1917年の200年強
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%82%AF%E3%83%88%E3%83%9A%E3%83%86%E3%83%AB%E3%83%96%E3%83%AB%E3%82%AF
以外、ずっとロシアの首都であったモスクワが占領された、つまりは、ロシアの首都が占領された、のは17世紀初頭のこの時だけであったこと、しかも、その経験が、期待が180度裏切られるという悲惨なものであったことは極めて重要である、と指摘しておきたいと思います。
 (ナポレオンが1812年にモスクワを占領した時点ではモスクワは首都ではありませんでしたし、ロシア軍が戦略的にモスクワを放棄してナポレオン軍を誘い入れたのですし、しかも、占領は極めて短期間でした。
https://ja.wikipedia.org/wiki/1812%E5%B9%B4%E3%83%AD%E3%82%B7%E3%82%A2%E6%88%A6%E5%BD%B9 )
 当時、モンゴルの軛症候群に苦しめられ始めていたロシア人達は、欧州のゲルマン系の人々・諸国・地域には、前回のシリーズで明らかになったように、敬意とそれと裏腹の劣等感を抱いており、それらに対しては、モンゴル/遊牧民からの脅威に比べて相対的に小さな脅威しか感じていなかったと考えられるところ、それが、「ゲルマン系」の国王を戴くポーランドによる占領で酷い目に遭わされたことを契機に、この症候群が全周化、重篤化した、と思われるからです。
 この、私の仮説を具体的に裏付ける典拠が見つかるといいのですが・・。(太田)

(続く)