太田述正コラム#0540(2004.11.21)
<アルジェリア紛争の教訓(その1)>

1 始めに 

 私がエジプトのカイロで少年時代を過ごした1950年代後半は、アルジェリア独立紛争の時代と重なっています。
 帰国した翌年の1960年、小学校6年生の時、私は社会科授業の一環として、アルジェリア独立紛争の複雑な構図とその見通しについて、級友達の前で「講義」した記憶があります。
 この独立紛争が終わり、アルジェリアが独立してから、もう一度1980年代末からアルジェリア紛争が起きています。
この二つのアルジェリア紛争は、パレスティナ紛争や、現在のイラク情勢を理解するための教訓に満ちているように思います。
そこで、この二つのアルジェリア紛争を振り返ってみましょう。

2 アルジェリア独立紛争

 (1)概観
 フランスのアルジェリア征服は1827年に始まりました。(ほぼ同じ頃にロシアがチェチェンを含むコーカサス地方への征服に着手しています。)
 征服が完了するとフランスは、アルジェリアはフランスと不可分一体をなすものと宣言します。もっとも、アルジェリアがフランス議会に議員を送ることができるようになったのは、先の大戦が終わった後の1947年になってからでした(注1)。

(注1)約1,000万人の原住民から1名、約100万人のフランス系植民者(pieds noirs)から1名。

 そのアルジェリアで1954年11月に、結成されたばかりのFLN(National Liberation Front=民族解放戦線)が独立に向けて武力闘争を開始し、全土50カ所で爆発・攻撃を行い、12名の犠牲者を出します。独立紛争の始まりです。
 8年後の1962年に、フランス側の敗北によってこの紛争は終わるのですが、この紛争によって、フランスの第四共和制の首相計6名が辞任に追い込まれ、フランスの第四共和制そのもののも瓦解し、アルジェリアの原住民10人に1人、約100万人が命を落とすことになるのです(注2)。

 (注2)この「殺人」の「下手人」の大部分は現住民であり、フランス軍やフランス系植民者ではない。

 この紛争は、植民地解放闘争を基調としつつも、アルジェリア原住民同士の争い、フランス系植民者とフランス本国、フランス系植民者同士の争い、が複合的に絡み合っていました。そのあげく、フランス現地軍の叛乱が起き、フランス系植民者の秘密武装組織OAS(Organisation Armee Secrete)による対原住民テロが荒れ狂うという形で紛争はクライマックスを迎えます。そして最終的に、先の大戦の「英雄」ドゴール仏大統領の身を挺した豪腕によって収束が図られるのです。
 アルジェリア独立紛争は、宗主国に勝利した最後の植民地解放武力闘争である(注3)と同時に、イスラム非正規勢力によって欧米の正規軍が敗北に追い込まれた最初の武力紛争であると言えるでしょう。

 (注3)ベトナム戦争の基調は、北ベトナムの南ベトナムへの侵略戦争であり、植民地解放武力闘争とは言えない。

 (2)詳細
 もう少し、細かく見て行きましょう。
 最初のうちはフランス軍が非正規勢力相手の戦闘に慣れていなかったことと、FLNの方の力量不足もあって、小競り合いの状況が続きました。
 そこでFLNは、フランスのアルジェリア統治機構への攻撃を開始します。地方の行政官・司法官・警察・そして彼らの家族、がターゲットになりました。このため原住民中心であった地方の警察は麻痺してしまい、フランス軍はこれら警察の防護に兵力を割かざるを得なくなり、FLNに攻勢がかけられなくなってしまいます。
 次にFLNは、フランス・シンパの村やフランス系植民者の集落へと攻撃の範囲を広げます。そしてこれら「不信者(infidels)」への侮蔑を示す方法として、のどをかき切ってこれらの村民や集落のメンバー・・女性や子供を含む・・を殺害するようになります。
 こうして原住民のうちのフランス・シンパや中間派は、彼らを守ることができないフランスを見限り、次第にFLN支持へと傾斜して行くのです。
 フランスは、徴兵によって現地フランス軍を50万人に増強しますが、それでもFLNに決定的打撃を与えることができません。この徴兵されたフランス軍兵士によるFLNのメンバーやFLNシンパと目される原住民に対する拷問がフランス本国で報道されるようになり、サルトルらのフランスの知識人がこぞって激しいフランス政府批判を展開します。
 それでも1958年になると、精鋭の空挺部隊を中心にフランス軍は、拷問を日常的に用いる方法で、いわゆるアルジェの戦いに勝利し、FLNは追いつめられます。しかしその一方で、本国や世界の世論のフランス政府批判の声は一層高まります。
 1961年には、現地フランス軍が空挺部隊を中心に叛乱を起こします。(この頃からOASによる対原住民テロが荒れ狂います(前述)。)これに対し、ドゴールはラジオで全現地部隊に対し、フランス政府に従うように、と感動的な訴えを行います。
 結局この叛乱は腰砕けになるのですが、1962年、ドゴールはFLNに全面的に膝を屈し、アルジェリアの独立を認め、フランスはサハラ砂漠における石油資産をすべて放棄し、(三代にわたってアルジェリアに定住してきた者が少なくない)フランス系植民者達100万人は本国に引き揚げます。
 ところが皮肉なことに、フランスは植民地支配の重荷から解放され、繁栄を謳歌するに至るのですが、独立を達成したアルジェリアの方は、豊富な石油資源があったにもかかわらず、一党独裁下で腐敗と非効率がはびこり、経済は停滞を続けることになってしまうのです。
(以上、http://www.atimes.com/atimes/Middle_East/FA07Ak01.html(1月7日)、(http://news.bbc.co.uk/2/hi/europe/3974237.stm(11月3日アクセス)、及び(http://www.theaustralian.news.com.au/printpage/0,5942,11314459,00.html(11月20日アクセス)による。)

(続く)

<森岡>
コラム#540を読んでいて、以下の部分が印象に残りました。

>次にFLNは、フランス・シンパの村やフランス系植民者の集落へと攻撃の範囲を広げます。そしてこれら「不信者(infidels)」への侮蔑を示す方法として、のどをかき切ってこれらの村民や集落のメンバー・・女性や子供を含む・・を殺害するようになります。
>こうして原住民のうちのフランス・シンパや中間派は、彼らを守ることができないフランスを見限り、次第にFLN支持へと傾斜して行くのです。

ここで、最近読み返していた塩野七生「マキアヴェッリ語録」の、以下の部分を思い出しました。「人間というものは、自分を守ってくれなかったり、誤りを正す力もない者に対して、忠誠であることはできない。」
戦後の日本で軍隊への不信が強くなったのも、第二次大戦で日本は完膚なきまで叩きのめされ、結局軍は自分たちをを守ってくれなかったという気持ちのあらわれなのかと思いました。それが吉田ドクトリンの人気の原因のひとつなのかな、と。そして平和憲法が自分を守ってくれると信じている人たちには、自然と平和憲法への忠誠心がふつふつと沸いてくるのでしょうね。

<太田>
鋭いご指摘です。
 しかし私は、戦時中にそのような意味での軍隊への不信感があったとは思いません。
 当時の日本軍は、徴兵による軍隊であり、「われら」の軍隊だったことをお忘れなく。
 特攻攻撃に志願した青年操縦士達の心情は、当時の日本国民一般の心情でもあったと私は考えています。

 他方、戦後については、ご指摘には基本的に首肯できます。
 平和を維持してくれた米国への信頼感が、吉田ドクトリンの墨守をもたらした、という面は確かにあったと思います。

<森岡>
>  鋭いいご指摘です。
>  しかし私は、戦時中にそのような意味での軍隊への不信感があったとは思いません。
>  当時の日本軍は、徴兵による軍隊であり、「われら」の軍隊だったことをお忘れなく。

上の私の投稿は戦後の日本における軍への不信感を念頭においてましたので、戦中の日本のことは考えていませんでした。私も太田さんの見方に同意します。大日本帝国軍が、輝かしい歴史を持つ「われら」の軍隊であったということもそうですが、アメリカによる都市爆撃で国土が焦土と化す状況下では、アメリカへの憎悪をつのらせるほうが人間として自然なリアクションだと思います。しかし私は戦中の日本のことはまだ不勉強ですので、よくわからない、というのが本音です。

>  特攻攻撃に志願した青年操縦士達の心情は、当時の日本国民一般の心情でもあったと私は考えています。

この点については、完全に同意します。

私はカナダ在住9年目ですが、日本を出てみて驚いたのは、特攻隊へのイメージの違いです。太田さんはご存知でしょうが、日本の外では、特にアメリカ・カナダでの特攻隊員の最も一般的なイメージとは、「専制君主である天皇のために、自らを犠牲にしてまで敵を殺すことを厭わない、アルカイダなみのファシスト狂信者」であり、9.11以後もアルカイダのテロリストと日本の特攻隊を並べて扱う論調がうんざりするほど多いのです。特攻隊員とは、自らの愛するものを守るために特攻に加わったのでありまたその標的も一般市民ではなく正当な軍事目標であった、という見方は、日本の外では完全に欠落しています。
欧米人は「特攻」ということ自体を蔑むのか、というとそうでもありません。例えば映画などでは、他を守るために自らを犠牲にするような場面もよくあります(例えば、「インデペンデンスデイ」でエイリアンの戦艦に特攻するお爺さんなど)。つまり、彼らは戦時中の日本人は「天皇を守るためならばなんでもする狂信者」という、欧米ではごく一般的な偏見にとらわれるあまり、日本人も普通の感情を持つ人間なのだという見方がまったくできていないのです。
また、この偏見(といか、無知)がどれほど強いかというと、ウェブスターなど格調高い英語の辞書にも「banzai」が、「日本人の戦いのおたけび(war cry)」(特攻隊員が死に際にバンザイと叫ぶことから)と書かれていることでもわかります。
そんな中、アジアタイムスの最近の記事(http://www.atimes.com/atimes/Japan/FK06Dh01.html)は、このような特攻隊に対する偏見にとらわれず、特攻隊員も普通の人間だったのだ、という見方で書かれたもので、私が今までに読んだ英語の記事でこのような見方に立った記事はこれが始めてです。この記事ではフィリピンに特攻隊記念碑が建てられたことが述べられ、またアルカーイダのテロリストと特攻隊を比較することがいかに無意味かが説明されています。
最も印象に残った部分は以下の部分です。意訳します。
「カミカゼ戦術は戦争の結果を変えるには至らなかったが、何百キロを自らの死に向かって飛んでいったパイロットたちは、間接的に彼らの家族を守ることに成功していたといえる確証がある。カミカゼ攻撃が連合国軍に与えていた脅威は、日本の主要都市を爆撃にいくはずだったB29を、カミカゼ攻撃の基地のある南九州にかわりに向かわせることになったからだ。」
日本の特攻隊員について、このように肯定的に書かれた記事が出たことは嬉しいですが、逆に言うと日本の行った特攻についてはまだまだ海外では誤解されている、ということですね。

<太田>
アジアタイムスの記事は私も読みました。
 読んでおられるメディアや関心を持っておられる分野が私と似通っておられますね。

 さて、特攻隊についての認識ギャップは、日本と欧米の間にあるわけですが、「大東亜戦争」が「自由・民主主義国」日本とファシスト(でありかつ腐敗しきった)蒋介石政権ないし(後に自国民を何度も塗炭の苦しみに陥らせることになる)中国共産党との間の戦いであり、これにキリスト教原理主義(で対有色人種差別意識に凝り固まった)米国が荷担し、その米国は最後にスターリニズムの(自国民の殺戮を繰り返してきた)ソ連まで誘い込み、日本を焦土と化し、おろかにも、そして理不尽にも日本を全面的敗北に追い込んだ戦争であった、という私の見解に関しては、日本の中でもまだ圧倒的少数説であり、一体いつになったら、これが日本で多数に受け入れられ、日本と欧米との認識ギャップだけを問題にすることができるようになるのか、まことにもって前途遼遠です。
 もっとも、前にもコラムの中で引用したことがあるかもしれませんが、この書評(http://www.csmonitor.com/2004/0106/p18s02-bogn.html)を読むと、少なくとも蒋介石政権の上記評価については、欧米でも常識になりつつあるようです。

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