太田述正コラム#9563(2018.1.4)
<映画評論51:ユダヤ人を救った動物園 ~アントニーナが愛した命~(その8)>(2018.4.20公開)

 「彼女は、自身、変わった母親だ。
 彼女の小さい息子がライオンの子供達の間でうたたねをすることを許したりする。
 これは、彼らが世話をしている動物達に対してこの家族が感じている、独特の親近さ(kinship)を示唆している。
 映画の中で、危地にあった(at stake)人間達(human souls)よりも生物達の方により大きな関心を喚起させる(generates)、という表現形式(form)に忠実であるところの、ジャビンスキ夫妻と彼女らの預かりもの達(charges)<・・動物達(太田)・・>との間の1939年初頭の諸場面はこの映画の最も記憶に残る箇所の一つだ。・・・
 強制収容所の囚人達に残酷で異常な医学的諸実験を行ったナチの医師達<(注13)>のように、ヘックは優生学に憑かれていた。

 (注13)「第二次世界大戦中、ナチス・ドイツにより・・・人体実験<が>・・・強制収容所で行われた・・・。収容者は実験に参加することが強要され、自発的な参加は無く、実験に関するインフォームド・コンセント(事前説明)はされていなかった。通常、被験者は死亡するか、醜悪な外観が残るか、あるいはその後一生涯にわたる障害が残った。・・・
 戦後、これらの戦争犯罪は、医者裁判として知られている裁判によって裁かれ、この残虐行為に対する憎悪や嫌悪感が、医療倫理に関するニュルンベルク綱領の発展へと繋がった。」
 ユダヤ人だけではなく、ロマ人やソ連軍捕虜も対象となった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8A%E3%83%81%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%89%E3%82%A4%E3%83%84%E3%81%AE%E4%BA%BA%E4%BD%93%E5%AE%9F%E9%A8%93
 「ニュルンベルク綱領(Nuremberg Code)は、1947年に、・・・提示された、研究目的の医療行為(臨床試験及び臨床研究)を行うにあたって厳守すべき10項目の基本原則である。・・・
 被験者の自発的な同意が必要であること、人間で試験しなくても良い試験や実りのなさそうな試験などは行うべきではないこと、試験に当たっては不必要な苦痛を起こすべきではないこと、死亡や後遺症につながるような試験はすべきではないこと、などが定められている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%83%A5%E3%83%AB%E3%83%B3%E3%83%99%E3%83%AB%E3%82%AF%E7%B6%B1%E9%A0%98

 それが甚だしかったことから、ジャビンスキ夫妻は、それによって、ヘックをして、ポーランドにおいて失われた(もはや絶滅していたバイソンに似た生き物である)オーロックスの系統を取り戻す諸試みであるところの、精緻なる繁殖プロジェクトに気を取られっぱなしにさせておくことができた。・・・
 ダイアン・アッカーマン(Diane Ackerman<(前出)>)のノンフィクション本・・それは、また、アントニーナの日記群に拠っているわけだが・・に忠実に、この映画は、ヤン自身ではなく・・この飼育員が最大の危険を冒したという事実にも拘らず、・・、そのタイトルの人物<である、アントニーナ>に焦点を当てる。
 これは、興味深い戦術だ。
 女性達が必ずしも平等の諸権利や敬意を享受していなかった時代においてさえ、妻が重要であったことを強調する、という・・。
 しかし、仮に、その意図が、彼によってアントニーナの諸貢献を霞ませてしまわないためだったとしても、もっと印象の強い(striking)俳優にヤンの役をやらせなかったのは失敗だった。
 <また、>これらの信じ難い諸出来事が展開するのを鑑賞していると、視聴者は、人間の野蛮性と動物の生存本能とを区別する細い線についてのいくつもの諸結論へと飛躍しうる。・・・

⇒(私の言うところの)人間主義を訴えるこの映画に違和感を覚える人は、この映画評論家のように、往々にして、アブラハム系宗教に由来する、このような、(女性蔑視観に加えて、)動物蔑視に立脚したところの、人間と動物の峻別観に囚われているものです。
 (人間以外の)動物なら、想像上(幻想上?)の敵たる他の動物集団、や、食糧にするつもりのない他の動物集団、を、その絶滅を期して殺戮する、といったことなど、およそありえない(典拠省略)、というのに・・。(太田)

 この映画は、動物達に起こったことに比べて、人間のドラマをより面白くなく演出する、という不幸な欠陥(failing)を持っている。
 ホロコーストという、我々人間種にとって極めて毀損的であった題材に関しては、これは小さな欠点(shortcoming)ではない。」(Δ)

⇒動物達相互のことや人間と動物の間のことに、「ドラマ」という言葉を使わないこと一つとっても、いかに、この映画評論家が、上述の動物観に囚われているかが分かろうというものです。(太田)

(続く)