太田述正コラム#9571(2018.1.8)
<渡辺克義『物語 ポーランドの歴史』を読む(その19)>(2018.4.24公開)

 「<ソ連と共にポーランドを分割占領した>ナチス・ドイツの政策はポーランド人を単なる奴隷労働者とすることであり、それゆえ、知識階級が迫害の対象とされた。・・・
 大量逮捕と処刑が日常的な光景となった。
 占領者は被占領者をドイツへ強制労働に送った。
 とりわけ受難だったのはユダヤ人である。・・・
 アンジェイ・ワイダ監督が1990年に制作した<映画>「コルチャック先生」<で描かれた>・・・ヤヌシュ・コルチャック(本名ヘンリク・ゴルトシュミット)<(注46)>・・・は200人の孤児と一緒に<強制収容所>に向かった。
 コルチャックにはゲットー脱出の便宜を図ってくれる人もいたのであるが、彼はそれを固辞し、孤児たちと運命を共にしたのである。」(99~100)

 (注46)Janusz Korczak(1878~1942年)。「ポーランドの小児科医、児童文学作家で教育者。・・・ユダヤ系ポーランド人。1911年からユダヤ人孤児のための孤児院「ドム・シェロト」の院長となる。著作と実践の両面から児童教育に力を注ぎ、子どもの権利という概念の先駆者となった。・・・
 1989年・・・に「児童の権利条約」が国連総会で採択されるが、これはコルチャックによる「子どもの権利」のアイディアに基づきポーランド政府が提案したものである。・・・
 ワルシャワ大学医学部<卒。>・・・ワルシャワの小児科病院で医師の職を得た(1911年まで)。日露戦争では野戦病院の医師として従軍し、帰還後に国外(ベルリンで1年、パリで半年)で研修を受けている。・・・医者を本業としながらも文筆業でもキャリアを積みあげてゆき、収入の多くを貧しく親のない子供たちの医療費や支援金に充てた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A4%E3%83%8C%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%BB%E3%82%B3%E3%83%AB%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%83%E3%82%AF

⇒取り上げたシリーズが中締めを迎えたばかりの映画『ユダヤ人を救った動物園』にもこの場面が出てきます。(太田)

 「1941年6月21日、ドイツ軍は不可侵協定を破り、ソ連への攻撃(バルバロッサ計画)を開始した。
 独ソ両国が戦うなかで、ポーランドの独立回復の可能性も出てきた。
 チャーチルの示唆により、7月5日からロンドンでポーランド亡命政府とソ連政府との間で、両国の同盟協定締結のための交渉が始まった。
 同月30日に調印された協定(いわゆるシコルスキ・マイスキー協定。イヴァン・マイスキーは駐英・ソ連大使)では、領土問題は棚上げにし、一、ソ連は1939年の独ソ協定を破棄すること、二、独ソ戦での相互協力、三、ソ連領内でポーランド軍を創設することがきめられた。・・・
 ソ連軍はポーランドに侵攻後、100万余のポーランド人をシベリアなどに強制的に移送していた。
 シコルスキ・マイスキー協定締結後、こうしたポーランド人に特赦が認められた。
 <また、>・・・在ソ・ポーランド軍<が>創設<され、>シコルスキ<(注47)>はその指揮官に<特赦されたばかりの>ヴワディスワフ・アンデルス<(注48)>を任命した。・・・

 (注47)ヴワディスワフ・エウゲニウシュ・シコルスキ(Władysław Eugeniusz Sikorski。1881~1943年)。「オーストリア=ハンガリー帝国<のガリツィア>・・・出身。1910年、オーストリア=ハンガリー帝国領内でポーランド人武装連盟「銃兵隊」を創設。・・・1918年、<ポーランドが独立すると>ポーランド軍に入隊。ポーランド・ソビエト戦争時、・・・「ヴィスワ川の奇跡」の立役者<となる。>・・・1921年、ポーランド軍参謀総長。1922年、首相兼軍事相、1924年、軍事相。1925年、軍管区司令官。ユゼフ・ピウスツキのクーデター後、1928年に罷免され、フランスに亡命。亡命先では穏健主義者の政治運動組織モルジュ戦線を設立した。1939年~1943年、ポーランド亡命政府の初代首相となり、国防相兼ポーランド軍最高司令官としてフランス・ポーランド軍、ナチス・ドイツのフランス侵攻後は<英国>で西部ポーランド軍の指揮をとった。1941年7月30日、ソビエト連邦との国交回復及び軍事同盟条約に署名。ソ連との軍事協定に従ってヴワディスワフ・アンデルスの下でソ連領内に東部ポーランド軍がつくられる。1943年4月26日にカティンの森事件をめぐってソ連との国交が解消され、1943年7月4日にジブラルタルでの航空機事故で死亡。・・・
 シコルスキの政治的ゴールは、ポーランド・チェコスロバキア連合国から始る中・東欧連合( Central and Eastern European federation、Międzymorze)だった。・・・バルト三国(リトアニア、ラトビア、エストニア)、フィンランド、ベラルーシ、ウクライナ、ハンガリー、ルーマニア、ユーゴスラビア、チェコスロバキア<の統合を目指した>。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%83%AF%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%B9%E3%83%AF%E3%83%95%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%82%B3%E3%83%AB%E3%82%B9%E3%82%AD
 カトリック教徒。ルヴフ(リヴィウ=リヴォフ)工科大卒(流体工学)、オーストリアの軍学校卒(予備役少尉)。
https://en.wikipedia.org/wiki/W%C5%82adys%C5%82aw_Sikorski
 (注48)Władysław Anders(1892~1970年)。「ドイツ系[バルト]貴族出身。・・・ポーランド・ソビエト戦争に<ポーランド軍の一員として>従軍。・・・<ソ連の>ポーランド侵攻時・・・赤軍の捕虜とな<った。>・・・1942年3月、<自分が指揮を執っていた部隊と共に>中東ペルシア回廊へ・・・。1942年8月12日から東部ポーランド軍司令官となり1943年6月21日、東部ポーランド軍は、第2ポーランド軍団に改編され・・・1943年12月~1944年4月、<同>軍団はイタリア戦線に移動。・・・1944年5月19日にカッシーノを占領した。その後、アドリア海沿岸に沿って進撃し、ボローニャを解放した。1945年2月から西部ポーランド軍司令官。・・・
 1946年9月、・・・、亡命政府の軍人はポーランド市民権が剥奪され[、軍人としての階級も剥奪され]た。・・・1989年にポーランドの共産主義体制が崩壊した後、アンデルスの市民権と軍階級は回復された。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%83%AF%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%B9%E3%83%AF%E3%83%95%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%87%E3%83%AB%E3%82%B9
 プロテスタント。リガ技術大卒後、ロシアの軍学校卒。第一次世界大戦の時はロシア軍に従軍。ロンドンで死去。遺志に従い、カッシーニに葬られる。
https://en.wikipedia.org/wiki/W%C5%82adys%C5%82aw_Anders ([]内も)

⇒軍事志向といい、大ポーランド復活への希求といい、シコルスキはシュラフタ臭ぷんぷんだと思ったら、やはり、シュラフタの家系のよう
http://genealogue.net/sikogenbk.html
ですね。
 軍事に卓越している典型的ゲルマン人たる「助っ人」アンデルスとの取り合わせが絶妙。(太田)

 同年12月、シコルスキはモスクワ<で>・・・スターリンとの会談に臨んだ。・・・
 <在ソ・ポーランド軍を>・・・イランに一時撤退させ、そこで・・・態勢を整え<させる件にはスターリンは同意したが、>4000人余のポーランド人将校が幾重不明になっている問題を<については、>スターリンは・・・「おそらく満州に逃亡したのであろう」と答えた。
 スターリンがカチンでの虐殺<(コラム#2792、3151、3285、3735、3945、3947、3957、5154、5715、5828)>・・・を知っていたことは言うまでもない。」(105~107)

(続く)