太田述正コラム#9657(2018.2.20)
<眞壁仁『徳川後期の学問と政治』を読む(その5)>(2018.6.6公開)

 「昌平坂学問所の群儒のなかから、本書で・・・敢えて・・・佐賀より出でた・・・古賀家三代を対象と<したが、それはなぜか。>・・・
 久米邦武や三宅雪嶺<(注8)>により、・・・安藝竹原出身の儒学の名家頼家三代<(注9)>にも匹敵する・・・もう一つの徳川後期儒家の典型とされ、学問所で林家を除き唯一三代続いた古賀家<(注10)>学がたどった一条の思想的軌跡、それが、古賀家ばかりでなく、幕末維新の勤王家の評価の下で埋もれてしまった、学問所で学んだ幕臣たちの決して少数ではない者たちの思想類型をも示し、近代日本の「政教」への継受の過程で見落とされた、徳川後期「政教」のある思想的側面を健在化させると考えるからである。・・・
 
 (注8)1860~1945年。「哲学者、評論家。国粋主義者。右翼。・・・加賀藩家老本多家の儒医・三宅恒の子として生まれる。官立東京開成学校を経て、東京大学文学部哲学科(のち帝国大学文科大学)卒。後藤象二郎の大同団結運動や条約改正反対運動など自由民権運動に関わる。1888年(明治21年)、志賀重昂・杉浦重剛らと政教社を設立し、国粋主義の立場を主張する為、『日本人』を創刊する(後に『日本及日本人』に改題)。その後も、個人雑誌として『我観』を創刊、『中央公論』等に論説を発表するなどして注目を集めた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%AE%85%E9%9B%AA%E5%B6%BA
 (注9)頼春水(1746~1816年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A0%BC%E6%98%A5%E6%B0%B4
     頼山陽(1781~1832年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A0%BC%E5%B1%B1%E9%99%BD
     頼聿庵(いつあん。1801~56年)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A0%BC%E8%81%BF%E5%BA%B5
を指していると思われる。   
 (注10)古賀家三代は次の通り。
 ちなみに、「古賀氏は本姓は劉、帰化人の後裔で、代々が肥前に住み佐賀藩士であった。」
http://kohkosai.com/syuuzouhin/kaisetu/jiku-japan/1788%20tohan.htm
◎初代:古賀精里(1750~1817年)。「佐賀藩士の子として生まれ、京都に遊学して・・・朱子学・・・を学ぶ。<その後、>帰藩して藩主・鍋島治茂に仕え、1781年に藩校・弘道館が設立されると教授となり、学規と学則を定めてその基礎を確立した。闇斎朱子学の教説にもとづいて学問思想の統制をはかり、徂徠学を斥けた。1796年、47歳の時に抜擢されて昌平黌の儒官とな<る。>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A4%E8%B3%80%E7%B2%BE%E9%87%8C
◎二代:古賀<●(人偏に同)>庵(1788~1847年)。「古賀精里の3男。文化5年幕府の儒者見習,14年儒者にすすみ,昌平黌でおしえる。諸子百家に通じるとともに,海防問題なども論じた。・・・肥前佐賀出身。・・・通称は小太郎。著作に「今斉諧(いまさいかい)」「海防臆測」など。」
https://kotobank.jp/word/%E5%8F%A4%E8%B3%80%E4%BE%97%E5%BA%B5-16359
 河童研究書である『水虎攻略』(1820、1839年)もある。
http://iwasebunko.jp/stock/collection/entry-167.html
 「『海防臆測』(上・下 天保10年頃 (1839頃))は、・・・わが国の海防とくにロシアに対する備えの必要とその方法を・・・記したもの。」 ?
http://kohkosai.com/syuuzouhin/kaisetu/jiku-japan/1788%20tohan.htm 前掲
 「海外への進出、貿易を行なうべきだとする海外進出論を主張したもので、
鎖国を維持する幕府の対外政策を批判していたため、「禁書」とされ・・・た。」
https://suumo.jp/jj/tokushu/ichiran/JJ900FJ001/?ar=030&bs=020&tm=K3tmh000&hd=K3tmh000&vos=ab3231ydnnbp103313126zzz_00a000ucfa0005
◎三代:古賀謹一郎(謹堂)(1816~84年)。「従前からの洋学指向に加え、ロシアとの交渉でさらに西洋事情に通じ、日本の学問状況に危機感を抱いた謹一郎は、この頃たびたび老中阿部正弘に対して建白書を提出し、洋学所設立や外国領事館設置、沿海測量許可などの開明策を求めた。これにより、阿部の目にとまることとなる。
 老中の阿部も西洋の学問受容の必要性を痛感していたため、安政2年(1855年)8月30日謹一郎は阿部より直々に洋学所頭取(校長)に任命された。蘭書翻訳・教育機関の構想を練り、勝麟太郎らとともに草案を作成し、同年9月蕃書調所設立案を提出した。この提案が元となり、安政4年(1857年)正月、蕃書調所が正式に開設されることとなった。
 謹一郎は日本初の洋学研究教育機関として発足した蕃書調所頭取(校長)として、国内の著名な学者を招聘する。すでに蘭学者として高名だった箕作阮甫を教授として招いたのを始め、教授見習として三田藩の川本幸民、周防出身の手塚律蔵・村田蔵六(のちの大村益次郎。当時は宇和島藩に出仕)、薩摩藩の松木弘庵(のちの寺島宗則)、西周助(のちの西周)、津田真一郎(のちの津田真道)、箕作秋坪、中村敬輔(のちの中村敬宇)、加藤弘之ら、幕臣のみならず各藩の俊才も含め幅広く採用した。
 蕃書調所は当初、蘭書の翻訳を目的としたが、英語の隆盛を鑑み、英語・フランス語・ドイツ語の教授も行わせた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A4%E8%B3%80%E8%AC%B9%E4%B8%80%E9%83%8E

 <なお、>古賀家三代–精里・<●(前出)>庵・謹堂–は、寛政九(1797)年以降の70年に及ぶ昌平坂学問所史のなかで、幕府の文教を統率する林家とは異なり、昌平坂の官舎に57年間に渉って在住し、学問所教育に直接的に携わった。」(1、20、30)

⇒初めての藩校でも何でもなさそうな、佐賀藩の藩校・弘道館の設立(1781年)より、昌平坂学問所の設立(1797年)の方が、16年も遅いことに注目してください。
 これは、幕府の方が、少なくとも進取の気性に富んだ諸藩に比して、武士等の教育に不熱心であった可能性を示唆しています。
 これは、目ぼしい諸藩校と昌平坂学問所における教育内容において、後者が前者よりも劣っていた面がある、という可能性すら示唆するものである、とお思いになりませんか?
 後は、次のオフ会の「講演」に譲ります。(太田)

(続く)

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