太田述正コラム#9659(2018.2.21)
<眞壁仁『徳川後期の学問と政治』を読む(その6)>(2018.6.7公開)

 「<荻生徂徠(注11)の>徂徠学が一世を風靡した・・・世代の儒者のうち、その少なからぬ者たちは<朱子学への>転向経験を有している。・・・

 (注11)荻生徂徠(1666~1728年)は、「朱子学を「憶測にもとづく虚妄の説にすぎない」と喝破、朱子学に立脚した古典解釈を批判し、古代<支那>の古典を読み解く方法論としての古文辞学(<ケイ>園学派)を確立した。また、<5代将軍徳川綱吉の側用人の>柳沢吉保や8代将軍・徳川吉宗への政治的助言者でもあった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8D%BB%E7%94%9F%E5%BE%82%E5%BE%A0
 「古文辞とは、明朝で提唱された復古的な文学運動。模範とする古典を<、>文は秦漢期、詩は唐<、>に求めた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A4%E6%96%87%E8%BE%9E%E5%AD%A6
 「荻生徂徠のいう「古文辞」とは,「<漢>語としての古典漢文」を意味し,返り点・送り仮名の日本漢文を排斥し,<支那>音で発音し解釈するのが「華音」である。
「華話華音」すなわち「<支那>漢文および<漢>語による発音」は,徂徠の古文辞の学の主体となる。・・・
 徂徠が<明>の古文辞に言及し,「徂徠自身の古文辞」の依拠をここに求めた主張は,1704年(宝永1)ころから始まる。・・・<もっとも、明の>「古文辞学」は徂徠のそれの装飾にすぎず,徂徠自身あまり高く評価していない。・・・
 荻生徂徠の古文辞学は,<朱子学>を「朱熹らの主観である」として否定し,<支那>古典は,『詩経』『書経』『礼記』『楽記』『易経』『春秋』の「六経」を主とし,その後の『史記』など前漢までの文章を「古文辞」であると規定した。<そして、>孔子はこれらの<支那>古典を編集して後世に伝えたから,「孔子学」すなわち儒教は「六経」および「前漢の文章」までを対象とする。
 詩においては、玄宗即位の盛唐詩までをよしとし,詩文そのものが,その時代の歴史と精神をそのまま表すものとした。」
http://afro.s268.xrea.com/cgi-bin/concept.cgi?mode=text&title=%8C%C3%95%B6%8E%AB%8Aw
 徂徠が、『史記』等、『盛唐詩』までも依拠先とした点はおかしいと思うが、立ち入らない。

 その転向は、ある統制権力によって他律的に強制されたものではなく、歴史を鑑み、学術界の動向を踏まえ、さらに思想内容に意味を認めて、自省を伴いながら儒者みずからがある特定の原則を自覚し、それによって状況に働きかけようとする能動的な変化であった。」(60)

⇒百歩譲って、古賀精里の場合、「思想内容に意味を認めて」の「転向」だったとしても、他にそんな儒者がいたのか、疑問なしとしません。
 第一に、朱子学は、それが幕府の唯一の公認学派とされたことに伴い、同学が当時の日本儒教界におけるパラダイム
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%83%A9%E3%83%80%E3%82%A4%E3%83%A0
(「学術界の動向」?)化したと考えられる上、朱子学徒としての旗幟を鮮明にすれば、自ずから、儒者としの需要も増加する、という実益も生じたことから、このいずれか、ないしは双方、「だけ」の理由で、徂徠学等から「能動的」に「転向」した儒者達が殆どであった、と思うからです。
 第二に、儒教を朱子学を通じて理解するのは、二次史料に基づいて理解しようとすることに他ならないのであって、原典群を通じて、すなわち、一次史料に基づいて理解しようとする古文辞学(徂徠学)、がより方法論的に正しいと思ったり、にシンパシーを覚えたり、しないのは、(信者ではなく)学者である以上、その理性面に疑問符が付く、かつまた、ここでは詳説しませんが、やはり、朱子学に批判的であった陽明学、とりわけ、日本の陽明学
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%BD%E6%98%8E%E5%AD%A6
は、私見では人間主義的儒教であるところ、朱子学よりも陽明学の方にシンパシーを覚えないのは、日本人儒学者としては、その心情面に疑問符が付く、と思うからです、
 第二点について補足すれば、例えば、佐藤一斎(1772~1859年)は、昌平坂学問所の塾頭であった
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E8%97%A4%E4%B8%80%E6%96%8E
にもかかわらず、同学問所で、事実上、陽明学を講じています(注12)。(太田)

 (注12)「佐藤一斎は昌平<坂学問所>の儒官として、立場上朱子学を奉じなければならなかったので、公然と陽明学を主張できなかった。しかし、一斎の著である『大学一家私言』は、陽明学の視点で書かれたもので、特に幕末の志士に大きく影響をあたえた『言志四録』には陽明学の思想が散見される。また、彼が<陽明学者の>中江藤樹を尊崇していたことや、彼の門から陽明学の影響を受けたものが多数輩出していることなどから、一斎が陽明学を奉じていたことは明白である。そのため、『陽朱陰王』の謗りを受けたが、その主とする所は陽明学に存すると言える。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%BD%E6%98%8E%E5%AD%A6 前掲

(続く)

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