太田述正コラム#9661(2018.2.22)
<眞壁仁『徳川後期の学問と政治』を読む(その7)>(2018.6.8公開)

 「精里の学問に決定的な影響を与えたのは、大阪・・・<で、>尾藤二洲<(注11)>と頼春水<(前出)>らと・・・討論し・・・たことにあるとされている。・・・

 (注11)1745~1814年。「柴野栗山・古賀精里とともに寛政の三博士と呼ばれる。妻は儒学者飯岡義斎の娘、梅月(直子)。妻の姉が頼山陽の母である頼梅颸であるため、山陽は甥にあたる。・・・
 伊予国川之江(現愛媛県四国中央市)の船頭の子として生まれたが足を病んで家業を継ぐことができなかった。幼時に・・・句読を<学んだ>。その後、<二人の>儒医・・・に学んだ。24歳より大阪に出て片山北海の門に入り、頼春水・・・、古賀精里等と共に学んだ。1791年に昌平黌教官となり、寛政異学の禁の後の教学を指導した。・・・
 三博士の中ではもっとも詩人の素質に富み、こだわりなく詩を作る。・・・」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%BE%E8%97%A4%E4%BA%8C%E6%B4%B2

 尾藤二洲は・・・<伊藤>仁齋<(注12)>・<荻生>徂徠の学説を批判して云う。

 (注12)伊藤仁斎(眞壁は、「仁齋」としているが、こちらが正しいのか、それとも、誤記なのか不明)(1627~1705年)。[京都の上層町衆の家に生まれ,親族・姻族には角倉了以,里村紹巴,本阿弥光悦,尾形光琳・乾山らがいる。・・・初め朱子学に心酔したが、やがて疑義を抱いて孔孟の古義に溯る、いわゆる古義学に到達した。]
 「仁斎の学問手法は、当時支配的だった朱子学的経典解釈を廃し、直接テクストを検討するというものである。朱子学は学問体系としては非常に整ってはいたが、その成立過程に流入した禅学や老荘思想といった非儒教的な思想のために経書の解釈において偏りがあった。仁斎はそのような要素を儒学にとって不純なものとみなし、いわば実証主義的な方法を用いた。このような傾向は同時代の儒学研究に共通にみられるものである。仁斎は朱子学の「理」の思想に反して、「情」を極的に価値づけした。客観的でよそよそしい理屈よりも人間的で血液の通った心情を信頼している。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E8%97%A4%E4%BB%81%E6%96%8E
https://kotobank.jp/word/%E4%BC%8A%E8%97%A4%E4%BB%81%E6%96%8E-15403 ([]内)
 「古義堂(こぎどう)は、江戸時代、1662年(寛文2年)京都の堀川出水下る(現、上京区東堀川通出水下ル)に、伊藤仁斎が<隠棲して、仏教や老子の書物を読みふけ<った後、> >その生家で開いた儒学を教える家塾。長子の東涯以下、代々その子があとを引き継いで、別名堀川学校ともいわれた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A4%E7%BE%A9%E5%A0%82
http://wp1.fuchu.jp/~sei-dou/jinmeiroku/itou-jinsai/itou-jinsai.htm (<>内)

 「<この>諸子の説は、みな明儒の唾餘<(注13)>のみ」・・・

 (注13)「取るに足らない言論・意見」
https://cjjc.weblio.jp/content/%E5%94%BE%E9%A4%98

 二洲の明清儒学の評価によれば、明の学問は、「中葉以後」すなわち1500年前後以降から正路をはずし、遂には「天下の乱暴」(明の滅亡は1644年)をもたらした。・・・
 このような学術評価は、明らかに、明から清への中国の王朝交替を意識し、・・・少数民族による中華支配という国内統合の政治的正統性を確立するため<の>・・・清朝<による>・・・厳しい<思想>統制<や>・・・文字の獄や禁書・・・<という>文教政策によって・・・明末<に、>・・・宋以前の古註に遡って経書を解釈し直そうとする考証学<(コラム#4852、6200、7666、7756、9268)>的風潮がすでに起こっていた<ところ、この>考証学<が、>・・・<そ>の政治的側面を否定する形で継承され<るとともに、その結果として、>・・・朱子<ら>を中心とする宋学<が復興してきたという>清朝初期の<清の>学術界<の動向>・・・を踏襲しているとさえ言えるであろう。」(62、64~66)

⇒眞壁は「踏襲しているとさえ言えるであろう」と書いていますが、「ただ単に踏襲しているだけである」、でしょうね。
 要するに、厳しい言い方をすれば、尾藤二洲は、支那儒学最新動向盲目的追従学者であった、ということです。(太田)

(続く)