太田述正コラム#9667(2018.2.25)
<眞壁仁『徳川後期の学問と政治』を読む(その10)>(2018.6.11公開)

 「松平定信(1758~1829)が老中に就任した天明7(1787)年6月以降、幕府は幕臣たちに対して倹約と文武忠孝につき触を発し(6月15日)、定信自身も・・・自らの祖父8代将軍吉宗の「享保年中」の治世を理想とする統治の方針を打ち出し、同時に文学・軍学・天文学・武芸の各分野の師範となる者の調査を開始した(7月)。
 <そして、>在京の阿波藩儒の柴野栗山<(注22)>(・・・1736~1807)が同年暮に幕府に招かれた・・・。・・・

 (注22)りつざん。[朱子学者にして勤皇家。]]「元文元年(1736年)に讃岐国・・・[の農家]で誕生する。・・・寛延元年(1748年)に高松藩の儒学者・・・の元へ通い、儒学を習った。宝暦3年(1753年)に・・・江戸に赴き湯島聖堂で<朱子学>を学んだ。<更に、>、・・・国学を・・・学び、明和4年(1767年)に徳島藩に儒学者として仕えるようになった。明和5年(1768年)には徳島藩主・蜂須賀重喜と共に江戸に再度赴く事とな<り、>・・・安永5年(1776年)に徳島藩当主の侍読に就任する。天明7年(1787年)には、江戸幕府老中松平定信から呼び出され、幕府に仕えるように勧められた。以後幕府に仕え、寛政の改革に伴う寛政異学の禁を指導するなどの評価が高まり、寛政2年(1790年)に湯島聖堂の最高責任者となった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%B4%E9%87%8E%E6%A0%97%E5%B1%B1 ※
http://gyokuzan.typepad.jp/blog/2017/05/%E6%9F%B4%E9%87%8E%E6%A0%97%E5%B1%B1.html ([]内)

 綱吉の意を受けて加賀藩儒より召された木下順庵<(注23)(コラム#8289)>(1621~98)や、同じく加賀より召されて吉宗に仕えた室鳩巣<(注24)(コラム#1620、8068)>(1658~1734)以来久しく藩儒の昇幕がなく、一藩儒登用は当時としては異例の人事であった。」(84~85)

 (注23)「京都<に生まれ、>[13歳の時に作った<詩文>『太平頌』<が>後光明天皇から称賛をえ<る等、>]幼少より神童と称され、僧天海に鬼才を見込まれて法嗣を望まれるが、藤原惺窩の弟子・・・に師事することを選び、儒学の勉学に勤しんだ。柳生宗矩に従って一時江戸に出たこともあるが、帰洛後、加賀国金沢藩主前田利常に仕えた。天和2年(1682年)、[林家一門以外の学者<としては初めて>]江戸幕府の儒官となり、5代将軍徳川綱吉の侍講をつとめた。・・・朱子学に基本を置くが、古学にも傾倒した。教育者としても知られ、木門十哲と呼ばれる[新井白石、室鳩巣、]・・・雨森芳洲<ら>・・・優れた人材を輩出した。元禄6年(1693年)に徳川綱豊(後の徳川家宣)の使者・・・が、甲府徳川家のお抱え儒学者を探しに来た際、順庵は門人の新井白石を推薦した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%A8%E4%B8%8B%E9%A0%86%E5%BA%B5
http://blog.izumishobo.co.jp/sakai/2012/06/post_1384.html ([]内)
 (注24)「[医師]室玄樸の子として、武蔵国谷中村(現・東京都台東区谷中)で生まれる。寛文12年(1672年)、金沢藩に仕え、藩主・前田綱紀の命で京都の木下順庵の門下となる。正徳元年(1711年)、<兄弟子の>新井白石の推挙で、江戸幕府の儒学者となる。徳川家宣、家継、吉宗の3代に仕え、幕府より駿河台に屋敷を与えられ献策と書物の選進、吉宗期にはブレーンとして享保の改革を補佐する。湯島聖堂において朱子学の講義を行い、赤穂事件において[『義人録』を著して浪士たちを顕彰したことは有名]。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%A4%E9%B3%A9%E5%B7%A3
http://www.page.sannet.ne.jp/gutoku2/murokyuuusou.html ([]内)

⇒このあたりで登場する、木下順庵、室鳩巣、柴野栗山、のいずれもがれっきとした武士の家の生まれではないことに注意してください。
 木下順庵は少し当たった限りでは定かではありませんが、町衆的な家ではないかと思われますし、室鳩巣は医者の家ですし、柴野栗山は苗字を持つ両親の下に生まれている(※)ので豪農
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%83%B7%E5%A3%AB
の家であると思われる、からです。
 そもそも「注23」の中に出てくる「林家一門」の祖、林羅山(1583~1657年)が、「郷士の末裔で浪人だったと伝わる」父親の息子でしかありません。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9E%97%E7%BE%85%E5%B1%B1
 「郷士」というのは、「武士と農家の中間層に分類される層(地侍・土豪など)が在郷(城下でなく農村地帯に居住すること)する武士として扱われたもの。武士身分と同じく藩・幕府に士分として登録され、苗字帯刀の特権も与えられている」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%83%B7%E5%A3%AB 前掲
存在に過ぎない上、「浪人だったと伝わる」というんですから、羅山による出自詐称であった疑いが強い、と私はふんでいます。
 但し、同じ「注23」の中に登場する、室鳩巣の兄弟子の新井白石は、一応、武士の家に生まれていますが・・。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E4%BA%95%E7%99%BD%E7%9F%B3
 私が、何を言いたいかというと、松平定信が「倹約と文武忠孝につき触を発し」たり、「文学・軍学・天文学・武芸の各分野の師範となる者の調査を開始」した際、この中で出てくる「武」「軍」群に関し、れっきとした武士ではない者が大部分であったらしい、柴野栗山らの幕府儒官達が、まともに、立案や実施の際に、適切な献策ができたとは考えにくい、ということです。
 更に穿った見方をすれば、これらの「武」「軍」群が、単に、語呂合わせの為に諸文書中に挿入されただけでは、と疑う余地すらあるのです。(太田)

(続く)