太田述正コラム#0592(2005.1.12)
<奴隷制廃止物語(その2)>

 マンスフィールド判決が出た背景には、奴隷制を容認した原子論的個人主義哲学者のホッブスやロックの主張に強い違和感を覚える、「正邪の感覚と惻隠の情(compassion・sympathy・benevolence)という道徳的感情(moral sentiment)ないしコモンセンス(common sense)」を重視する「啓蒙主義者」ハッチソンら(コラム#517)のイギリスの伝統的な考え方がありました(注3)。

 (注3)もっとも、欧州においても、(イギリスかぶれの)モンテスキューが1748年の「法の精神」において、またルソーが1755年の「人間不平等期限論」において、奴隷制を批判していた。

 ですから、上記裁判の原告側の弁護士はもちろんのこと、被告側の弁護士の中にも、自分は奴隷制を擁護するつもりはないと公言する人がおり、裁判官のマンスフィールドとしては、あのような判決を下して当該奴隷を釈放するほかなかった、と言うべきでしょう。
 しかし、この判決の結果は意外な展開をもたらしました。
 イギリス本国内で開放された奴隷が乱暴狼藉を繰り返したこともあって、解放奴隷はほぼ全員アフリカの英領シエラレオネ(Sierra Leone)に白人売春婦達とともに追放されることになったのです。シオラレオネはイギリスの奴隷貿易の中心であり、そこから西インドに向けて黒人奴隷が積み出されたところです。この頃のシオラレオネは、18世紀後半には飢饉と疾病によって一時人口が三分の一に減ってしまうというおぞましい場所でした。

 (2)北米植民地
 続いて奴隷制廃止の狼煙が上がったのは、独立宣言直後のイギリスの旧北米植民地の一角でした。黒人奴隷が余りいなかったバーモント州とマサチューセッツ州でそれぞれ1777年と1780年に奴隷制が廃止されたのです。この動きが次第に旧北米植民地の北部諸州全体に広がり、奴隷制を残した南部諸州との対峙が後に南北戦争を引きおこすことはご存じの通りです。
(以上、NYタイムス上掲及びanimallaw上掲による)

3 奴隷制廃止運動

 (1)起源
 さて、本格的な奴隷制廃止運動はどのように始まったのでしょうか。
 1783年に、上記裁判に勝訴した原告として有名になったシャープ(Granville Sharp)のところに、ある新聞記事を見た解放黒人奴隷のエクィアノ(Olaudah Equiano)が駆け込みます。
 奴隷運搬船の船長のミスで航海が手間取り、その間に多数の奴隷が病気にかかってしまい、このままでは死者が続出して多大の損失を船主が蒙ることを恐れた船長が、水がなくなったことにして、水を使う「積荷」たる奴隷中病の重い者から何度かに分けて計133人を生きながら大西洋に投げ捨て(jettisonし)、保険会社から船主達に投げ捨てた奴隷一人当たり33ポンド、合計にして現在価値で約50万米ドルの保険金の支払いを受けさせようと図ったのです。
ところが、船主達の保険金支払い要求を保険会社が拒否したために裁判になり、この裁判についての記事をエクィアノが読んでシャープのところに駆け込んだ、というわけです。
シャープは何人もの弁護士を雇い、船主達を殺人罪で告発しようと試みますが失敗します。
怒ったシャープは、彼の知っているあらゆる人物に事の顛末を記した手紙を送ります。
この手紙を読んだケンブリッジ大学のvice chancellor(実質的には学長)は、奴隷制問題を毎年行われる同大学におけるラテン語論文コンテストのテーマに選ぶのです。
このコンテストに応募した一人が、それまで奴隷制問題に何の関心もなかった、同大学で神学を専攻していた25歳のクラークソン(Thomas Clarkson)学生でした。
しかし、論文を書く材料を集めるにつれて、彼は奴隷制問題にのめり込んでいきます。クラークソンはコンテストで一位になります。それは1785年のことでした。
やがてクラークソンはケンブリッジを卒業し、国教会の聖職者としての生涯を始めるためにケンブリッジを後にします。しかし、目的地への旅の途中で、彼は、自分自身が論文に書いたように奴隷制が真に嫌悪すべきものであるならば、誰かがイギリス植民地を含めた英帝国全域での奴隷制廃止のために立ち上がらなければならない、と考え、道を引き返し、ロンドンを目指すのです。
ロンドンで自分の論文の英訳を出版してくれるところを探し始めたクラークソンは、旧知のクエーカー教徒にばったり出っくわします。クエーカー教は、キリスト教諸宗派の中で、唯一奴隷制に反対していましたが、クエーカー教そのものが、一種鼻つまみの存在(注4)であり、彼らの主張など一顧だにされていませんでした。その旧知のクエーカー教徒は、クラークソンをクエーカー教徒の本屋兼出版社兼印刷屋であるフィリップス(James Phillips)のところに連れて行きます。

(注4)クエーカー教徒は、「汝」(thee, thou)などという古くさい表現を用い、説教やお祈りの時以外は常に黒い山高帽をかぶり、月や週の名前を異教時代のローマ由来だとして使わなかった。

1787年5月のある夕刻、フィリップスのところで、奴隷制廃止をめざす人々による集会が行われます。
 本格的な奴隷制廃止運動はここに始まるのです。それは同時に世界最初の市民運動が始まった日でもありました。
(以上、tomdispatch前掲による。)

(続く)