太田述正コラム#0594(2005.1.14)
<奴隷制廃止物語(その3)>

 (掲示板でも呼びかけを行いましたが、コラム#549で北方領土問題をとりあげましたところ、典拠の中に出てきたJournal of oriental studiesはUniversity of Hong Kong.によるISSN:0022-331X を指すのではないかと考えられます。そのVol 36, 1996, p10を含む論文を探していますが、入手方法をご存じの方はぜひお教えください。また、1875年の樺太千島交換条約(Treaty of St Petersburg)のフランス語正文の入手方法をご存じの方もぜひお教え下さい。)

 この集会に集まった12名は、奴隷制の廃止それ自体ではなく、奴隷貿易の廃止に当面の目標をしぼることにしました。
 それには英国議会で奴隷貿易廃止法を議決してもらう必要がありましたが、議会には奴隷貿易関係者が多かったため、世論を動かさなければなりませんでした。しかし、仮に世論を動かすことに成功したとしても、当時は、上院は世襲議員ばかりであり、下院議員の選挙権は成人男性の10%しか持っておらず、女性は全く選挙権を持っていないという状況だったので、果たして議会が世論の意向を受け入れてくれるかどうか、分かりませんでした。
 運動のリーダー格になったクラークソンが最初にやったことは、奴隷船の母港であるブリストルやリバプールで、調査を行うとともに、証言者となってくれる人物を捜すことでした。調査の結果、彼は船中の奴隷の拘束機器や絶食して自殺しようとする奴隷の口をこじ開けて食糧をつめこむための器具等を収集し、証言者も確保することに成功します。
 やがてクラークソンらは、奴隷貿易関係者につけねらわれ、恒常的に生命の危険に晒されることになります。
 しかし、自分達の生命のことなど一顧だにせず、クラークソンらは智恵を振り絞って世論の喚起に努めました。
 ニュースレターの発行や、ダイレクトメール方式の募金等、世界最初の試みが実施に移されました。陶器王のウェッジウッド(Josiah Wedgwood)が運動に加わると、彼の発案で、跪き鎖につながれた奴隷の姿の回りを「私は<皆さんの>兄弟であり友人ではないのか」という標語で囲った陶器製のバッジ500個がつくられ、配られて、ご婦人方の胸や髪の毛につけられました。史上初の政治ロゴの登場です。
 ロンドンの諸ディベートクラブでは、奴隷制問題をテーマにするところが増えます。エクィアノやヘイリック(Elizabeth Heyrick)女史は盛んにディベートに弁士として出ましたが、これは英国で(つまりは史上)黒人や女性が公共の場で弁舌をふるった最初のできごとでした。
 エクィアノは、自分の伝記を執筆し、その本を持って全国を回りました。史上初の、政治的書籍によるキャンペーンです。
 2??3年たつと、英本国全土で、奴隷が収穫した製品である砂糖を買わない、使わないボイコット運動が起こり、約30万人がこのボイコットに加わりました。
 おかげで、比較的短時日で英国の世論は大きく変化し始めました。
 ナイフやフォークの産地であったシェフィールドの生産組合員数百人が、自分達のつくったナイフやフォークがアフリカで奴隷買収のための「貨幣」として使われているとして、自分達の利益に反する奴隷貿易反対の請願を英国議会に行いました。
 そして、奴隷貿易反対の請願が英国議会に殺到するに至ります。マンチェスターの三分の一近くの市民が署名したものを含め、英国全土から519もの請願が提出されました。これに対し、奴隷貿易存続の請願はわずかに4つにとどまりました。
 この運動は、人類史上最初の市民運動であり、しかも全くの赤の他人のための運動であったにもかかわらず、最終的に成功をおさめたという点で特筆されます。
 (奴隷貿易存続派も、様々な工夫をこらしてこれに対抗しようとしました。現代の産業界や企業が、市民運動に対抗してとる方策の原型は早くもほとんどこの時に出尽くしていると言ってもいいでしょう。)
 議会でこの運動の前に立ちふさがった首魁は、後にウィリアム4世として1830年に英国王となる、(ジョージ3世の王子の一人)上院議員クラレンス公爵でした。
 下院議会では、奴隷貿易廃止に好意的な議員発言が多かったのですが、1792年、弱冠33歳の首相であったピット(William Pitt)がついに重い口を開きます。「(英国が奴隷貿易を止めてもフランスが肩代わりするだけだという指摘に対し、)議員諸公よ、世界中のコンセンサスが得られるまでどの国も何もしなければ、このような途方もない悪行が根絶される時が果たしてやって来るだろうか。・・(黒人は未開だから奴隷にすることも許されるという指摘に対し、)ローマの元老院議員が<ローマ支配下の>ブリテン島の住民を指さして「こいつらは永久に文明に浴することはなかろう」と言い放ったとすればいかが思われるか」と。
 結局、下院では1796年に向けて漸進的に奴隷貿易を廃止する法律が議決されます。
 しかし、上院では否決されてしまいます。
 翌1993年から英仏は1815年まで22年間にわたる戦争に突入したため、奴隷貿易廃止どころの騒ぎではなくなってしまい、一旦はクラークソンらは雌伏を余儀なくされます。
 しかし、敵国フランスの植民地にイギリスの奴隷船がこっそり奴隷の供給を続けたことが発覚し、1807年についに奴隷貿易は廃止されるのです(注5)。

 (注5)時代背景として、1798年に米国で20年後の1808年にアフリカからの黒人奴隷の輸入を禁止する法律が成立していたこと、1790年代からハイチでの奴隷大反乱が続いていた(コラム279参照)こと、(このハイチからはもとよりだが、)戦争相手の英国の「封鎖」によって西インド諸島から砂糖が輸入できなくなった結果フランス本土で砂糖大根の生産が促進され砂糖の戦略商品性がかげりを見せ始めたこと、つまりは奴隷貿易の意義が低下しつつあったこと、も忘れてはならない。

 これで、供給源を立たれた奴隷制が自然消滅するのも時間の問題だと思われたのですが、西インド諸島では、奴隷の待遇改善が行われた結果奴隷の「減耗率」が低下し、他方「再生産率」は向上し、奴隷制はしぶとく生き残ります。
 クラークソンらは、残った力を振り絞り、再び英本国全土を行脚し、運動を盛り上げます。
 このニュースを知ったジャマイカの奴隷達2万人以上が1831年末に蜂起し、鎮圧されるまでに奴隷200人、白人14人が死亡します。
 このため、プランテーションの経営者達も、奴隷制維持のコストを考えざるを得なくなります。
 そしてついに1838年、英上下両院は奴隷制廃止法を議決し、英帝国における奴隷制は廃止されるのです。
 1787年の集会に集まった12人の中で、この日を生きて迎えることができたのは、クラークソン一人だけでした。
 (以上、tomdispatch前掲、NYタイムス前掲、http://www.bookpage.com/0501bp/adam_hochschild.htmlhttp://news.bookweb.org/3125.htmlhttp://search.barnesandnoble.com/booksearch/isbnInquiry.asp?endeca=1&isbn=0618104690&itm=5(いずれも1月9日アクセス)による。)

(続く)

<一井>
御問合せの件ですが,Asia Timesの記事に引用されていた論文の書誌データは以下のとおりです.

The Kuril Stalemate : American, Japanese and Soviet revisitings of History and Geography by Frederic Lasserre.
Journal of Oriental Studies vol.34(1), pp.1-16.
[巻号からすると1996年の刊ですが,実際の出版は1999年の模様です]

この論文の原稿は以下のサイトでPDF版を入手できます.

http://www.polarite.umontreal.ca/notice.asp?noticeID=1069

出版されたものと比較すると,図版のレイアウト等に差異が見られます.引用文献から判断すると,当該論文の下敷き元ネタは,註3のThierry Mormanne氏によるINALCO(仏国立東洋言語文化研究所)の日本研究センター機関誌Cipango掲載論文あたりに行き着くのではないかと推測されます.因みに,同著者のサイトは以下のとおりで,法曹系の専門家ではありません.
http://www.ggr.ulaval.ca/gredin/P_Frederic_Lasserre.html
(英語による経歴はこちら:http://www2.iwra.siu.edu/directory/individual.asp?memberid=1562550864)

また1875(明治8)年締結の樺太千島交換條約の原文(仏文)は,外務省調査局編纂の『大日本外交文書』第8巻明治8年分(日本国際協会(1940(昭和15)年刊)のpp.215-222に,日本側特命全権公使の榎本武揚による和訳も並列して収録されています.同書中には当條約締結前後の経緯に関する各種公文書も収録されています.国立公文書館アジア歴史資料センター[http://www.jacar.go.jp/search/search_frame.html]のレファレンスコード検索においてB03041125500で検索すると,当該和訳文がオンラインで閲覧可能ですが,仏文の條約原本はオンライン公開資料に含まれていないようです.

なお蛇足ながら,サンフランシスコ平和条約の第2条(http://avatoli.ioc.u-tokyo.ac.jp/~worldjpn/documents/texts/docs/19510908.T1J.html)が,上記交換條約とは違い,該当する島名を列挙することもなく,「千島列島」という曖昧な表現に至った経緯については,既に御存知の事と思いますが,政治学者の片岡鉄哉氏が「日本永久占領」(講談社α文庫1999年刊)の第17章で2つの憶測を披瀝されています.

<太田>
 詳細にご教示いただき、まことにありがとうございます。
 一読者のご紹介で、世界週報の1月21日号(当日発売)に北方領土問題に関する拙稿が掲載されるので、この際、原資料にあたっておきたいと思った次第です。
 なお、片岡さん(20年以上前に一度お目にかかったことがあります)の「日本永久占領」は読んだことがありますが、せっかく教えていただいたので、もう一度読み返してみたいと思います。
 一井さんは、国際関係論の研究者でいらっしゃるのですか。よく勉強をされていますね。