太田述正コラム#9705(2018.3.16)
<竹村公太郎の赤穂事件論(その3)>(2018.6.30公開)

3 吉良邸の深川移転は赤穂浪士に襲撃させるため

 義央の御役御免願いが受理され、「義央<が>・・・隠居し・・・吉良義央の孫にして養子<の>・・・義周が相続して表高家に列した」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E8%89%AF%E7%BE%A9%E5%91%A8
時点で、吉良邸は吉良邸でも、吉良義央邸が吉良義周邸になった、ということを念頭に置いて下掲を読んでみてください。↓

 「3月14日午前10時過ぎ、松之大廊下<の事件が起こり、義央は>・・・命は助かったものの、額の傷は残った。
 義央は3月26日、高家肝煎職の御役御免願いを提出。
 <吉良家は、>8月13日には松平信望(5000石の旗本)の本所の屋敷に屋敷替えを拝命。受領は9月3日であった。・・・
 屋敷替えに<あたって、>富子は<義央に>同道していなかったといわれてきたが、吉良上野介も本所屋敷には常住していなかった。」(上掲)
 「<吉良邸は、>呉服橋門内の屋敷<から、>・・・本所に屋敷替えとなりました。
 本所の屋敷は、元は旗本の松平登之助の屋敷で、約2550坪<(約8400平方メートル。確証はないが、呉服橋門内のよりもはるかに広い屋敷だったと思われる。(太田))>ありましたが、空屋敷となっていた屋敷を拝領したものでした。」
https://wheatbaku.exblog.jp/20461159/
 「<この引っ越しの間、義央は、>一時<、息子>の上杉弾正大弼の屋敷に身を寄せ<た。>」
http://www.1214.tokyo/p3
 「<義央の妻の>富子は<新吉良邸に移った>義央に同道せずに芝白金にある上杉家下屋敷<に残ったが、>・・・<新吉良邸で義央主催の茶会が開かれることになった際、彼女は、>上杉家の中臈<2名と>小姓10名ほどを義央の世話係として本所松坂の吉良邸に入らせている。・・・中臈は討ち入り2日前に上杉家下屋敷に戻っている。小姓も討ち入り寸前で吉良邸を離れ、難を逃れた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A2%85%E5%B6%BA%E9%99%A2

 以上の、随所に矛盾が見られる諸叙述群全体を、極力矛盾なく説明するよう、試みてみましょう。
 私は、義央が、自分はもう年でもあるし、傷の付いた顔を晒して、京都と江戸の公式行事に臨むことをも嫌って自発的に隠居した、と想像しているのですが、それはそれとして、隠居した後、義央夫妻が本拠としたのは、孫で養子の屋敷となった吉良邸・・そこには常にこの思春期の独身の孫がいるので息がつまる・・ではなく、妻の富子の実家であると共に夫妻の息子が当主であるところの上杉家の下屋敷・・この息子は国元の米沢に半分は行っている上、在京時にも、上屋敷にいることが多く、他方、この下屋敷には、用人達も大勢いて、息子の小さい子供達(夫妻の孫達)もいるので、気ままかつ快適に過ごせることに加え、より安全・・だった可能性が高い、と見ています。
 当然のことながら、吉良邸の本所への移転は、形式的にも実質的にも、義央の与り知らない話であるところ、彼が、呉服橋門内の旧吉良邸同様、本所の新吉良邸を訪れることも殆どなかったと見るのが自然なのですが、にもかかわらず、討ち入りの当日(の数日前から?)は、義央は珍しく(?)吉良邸に滞在していたわけです。
 それは、義央夫妻が、彼らの本拠を、江戸の上杉下屋敷から、更に、上杉家の領地の米沢・・吉良家の領地の三河国幡豆郡
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E8%89%AF%E7%BE%A9%E5%A4%AE 前掲
でないことに注意・・に移すことにしたので、義央が、茶会の形で、江戸の友人達とお別れの会をそこで開くためであった、
http://www.nsknet.or.jp/~tmukai/umebati24.12.htm (←典拠が示されていないが・・。)
らしいのです。
 仮にそうであったとして、義央が、どうして、お別れの会の場所を、上杉家の下屋敷ではなく、吉良邸にしたか、ですが、「吉良家」の義央が主催する、半ば公的な目的の、しかも、大人数が集まる会であることから、前者を使うのは遠慮した、ということではないでしょうか。
 富子は、自分のお付きの人々を、このお別れの会の事前準備のために吉良邸に派遣したけれど、自らは、米沢への引っ越し準備もあって(?)、会は男だけでやってください、と同道しなかった、と。
 
 私が何を言いたいかというと、(義央が討ち入り当日、どうして吉良邸にいたのかは実はどうでもいいのであって、)幕府が、「赤穂浪士に襲撃」し易く「させるため」に「吉良邸の深川移転」を命じた、という竹村説・・これも、竹村以外で唱えている人が結構いるらしい・・は、そもそも、深川の新吉良邸が義央邸ではなかったという点(から、かつ、付加的に、この屋敷を義央が殆ど使っていなかった可能性が高い点、)から、およそ、成り立ちえない、ということです。

(続く)