太田述正コラム#9707(2018.3.17)
<竹村公太郎の赤穂事件論(その4)>(2018.7.1公開)
4 深川はど田舎で無警察状態だった
前項で取り上げたことを、竹村の記述を紹介しつつ、別の角度から改めて取り上げておきましょう。
「吉良邸は今の東京駅八重洲口の呉服橋門<内>にあった。
当時、東京駅八重洲口の前の外堀通りは堀であった。
その堀から江戸城側が郭内であり、吉良邸はその郭内の中にあった。
「高家」という重要な役職の吉良上野介が郭内に邸宅を構えていたのは当然であった。
⇒養子(孫)である高家後任の義周が深川移転を命じられることになるのですから、この主張は成り立ちません。
そもそも、このような主張をするには、諸高家
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%AE%B6_(%E6%B1%9F%E6%88%B8%E6%99%82%E4%BB%A3)
が、少なくとも、当時までは、全て郭内に邸宅を構えてきていたことを示す必要がありますが、竹村はそれを行っていません。(太田)
その吉良邸が本所へ移転することとなった。
江戸郭内から隅田川の両国橋を渡って向岸の本所へ移る。
いくら高家職を辞したといっても、これは途方もない移転である。
⇒義央は「高家職を辞した」けれど、何度も恐縮ですが、養子(孫)である義周が彼の後任に就任しており、移転したのはその義周の邸宅なのですから、竹村のこのくだりの文章は意味不明です。(太田)
両国橋は明暦大火の後1661年に建造された。
その両国橋は名前の示すとおり二つの国を結ぶ橋である。
二つの国とは、江戸の武蔵国と千葉の下総国である。
隅田川を渡ると、そこはもう江戸ではなかった。
下総という国だったのだ。・・・
⇒このくだりでは、竹村が単純ミスをしていないのだとすれば、悪質な印象操作をしています。
というのも、「両国橋」<の>完成<と>同時に、両国橋より東<の深川を含む地域>も武蔵国に編入され、江戸の市街地に加えられた」
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/4542246.html
からです。(太田)
もし、吉良邸がこの本所に移転しなかったら、赤穂浪士の討ち入りはなかった。
これは断言できる。
郭内にあった旧吉良邸のすぐ近くには北町奉行所があった。・・・
さらに旧吉良邸の呉服橋門から八丁堀にかけては町奉行所の与力、同心の住居屋敷が展開していた。・・・
赤穂浪士がいくら事前に準備しても、江戸城郭内の吉良邸への討ち入りなど決してできない。
それは幕府警備機構の面目にかけて許されない。」(138~140頁)
⇒討ち入り当時、既に、墨田川向岸も、町地は町奉行所の管轄だったはずです。
(下掲の1818年の町奉行担当区域図参照。)
http://www.viva-edo.com/edo_hanni.html
だから、与力や同心だって、墨田川向岸に住んでいた者達がいたはずです。
しかし、こんなことは、完全に無意味な議論です。
というのは、旧邸のあった呉服橋門内にせよ、新邸のあった深川にせよ、吉良邸は武家地に位置していた・・北町奉行所も南町奉行所も、郭外の町地に位置していた(上掲)・・のであって、「武家地は町奉行所の管轄外であり、町奉行所の役人が<武家地内に>立ち入ること<は>できな<かった>」からです。
http://kenkaku.la.coocan.jp/zidai/tian.htm ※
では、武家地の治安はどうなっていたのか?
それは、「武家が自前で治安を守<り、>・・・捕まえた者<を>幕府目付か町奉行所に引き渡す」(※)システムでした。
ですから、「幕府警備機構」が「幕府直轄の警備機構」を意味するのであれば、町奉行所であれ何であれ、「面目」が云々される余地などありませんでした。
ちなみに、藩邸内、や、吉良邸のような旗本の邸内、は、そもそも、治外法権であって、町奉行配下の与力や同心は、被疑者の追跡・捕縛目的ですら、これらの邸内に立ち入ることはできませんでした。
https://books.google.co.jp/books?id=P-TjMjxxx9EC&pg=PT28&lpg=PT28&dq=%E6%B1%9F%E6%88%B8%EF%BC%9B%E8%97%A9%E9%82%B8%EF%BC%9B%E6%B2%BB%E5%A4%96%E6%B3%95%E6%A8%A9&source=bl&ots=NiYg3gXzBK&sig=IK_gV_vbQk5ot5_UhHJmncXvID4&hl=ja&sa=X&ved=0ahUKEwjl0pHUt-vZAhUJi5QKHTCOCgEQ6AEINjAC#v=onepage&q=%E6%B1%9F%E6%88%B8%EF%BC%9B%E8%97%A9%E9%82%B8%EF%BC%9B%E6%B2%BB%E5%A4%96%E6%B3%95%E6%A8%A9&f=false (←藩邸内)
http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2005-07-20-2 (←旗本の邸内) (太田)
そして、「武家地に・・・大名や旗本が・・・設置した・・・辻番<は、>・・・武家地にある自身番<だったが、>・・・土地の所有者である地主、もしくは不在地主に雇われて土地や建物を管理する家主自身が詰めて町内を守った<ところの、>・・・自身番<は、>・・・享保年間(1716年から1735年)にできたと言われている。」(※)ことから、赤穂事件(1701~03年)当時の武家地の街路には、いかなる「警備機構」も存在していなかった可能性が大です。
以上から、「吉良邸が・・・本所に移転し」ていようといまいと、そこに義央が滞在しておれば、ですが、「赤穂浪士の討ち入りは」ありえた、のです。
竹村は、通暁していると自負しているらしい「地形」についても、その自負を裏付けるだけの眼力を有さず、努力もしていないらしい、ということを既にお示ししたところですが、「地形」以外の分野に至っては、ちょっと形容すべき言葉が見当たらないほどお粗末なレベルである、と言わざるをえません。(太田)
(続く)