太田述正コラム#9713(2018.3.20)
<眞壁仁『徳川後期の学問と政治』を読む(その23)>(2018.7.4公開)

「数年に一度の学問吟味・・・という、試験制度による儒学的教養を有する政治主体の再生産は、・・・たしかに中国の科挙のように身分横断的で開かれた試験でも、またすべての幕臣に必須の官吏登用試験でもなく、及第者に家格相応の就職の時期を早めさせ、あるいは家督相続者ではない場合には養子縁組の際の社会的出自の保障となるに過ぎなかった。
 だが、算定可能な寛政6年から元治2年までの計15回の学問吟味及第者は、954名(成績分類では、甲66名・乙415名・丙473名)に過ぎないが、吟味落第者も含めて学問所稽古人となった幕臣たちはその数をはるかに上回る。
 徳川後期の江戸幕臣社会は、<選別化>という学問吟味を中心に儒学活況の時代を迎えたといっても過言ではないであろう。・・・
 中国歴代王朝の科挙では、たとえば文科挙のほかに武科挙<(注44)>も行われた清代を取り上げれば、経解(儒家の経書についての知識を問う)・史論・詩賦(詩と賦を作らせる)・制藝(八股文<(注45)>)・時務策(政治・経済・時事に関する論文)が試験科目とされていた。

 (注44)「武挙<は>、清代には武経と呼ばれた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%91%E6%8C%99#%E6%AD%A6%E7%A7%91%E6%8C%99
が正しいとすれば、眞壁の誤り、または説明不足、ということになる。
 「文科挙と同様に武県試・武府試・武院試・武郷試・武殿試(皇帝の前でおこなわれ学科のみ)の順番で行われ、最終的に合格した者を武進士と呼んだ。試験の内容は馬騎、歩射、地球(武郷試から)と筆記試験(学科試験)が課された。
馬騎 – 乗馬した状態から3本の矢を射る。
歩射 – 50歩離れた所から円形の的に向かって5本の矢を射る。
地球 – 高所にある的を乗馬によって打ち落とす。
その他 – 青龍剣の演武や石を持ち上げるなど。
 矢の的に当たる本数と持ち上げる物の重さが採点基準となる。学科試験には、武経七書と呼ばれる『孫子』、『呉子』、『司馬法』、『三略』、『李衛公問対』などの兵法書が出題された。しかし、総外れもしくは落馬しない限りは合格だったり、カンニングもかなり試験官から大目に見られたりと文科挙とは違う構造をしていた。また伝統的に武官はかなり軽んじられており、同じ位階でも文官は武官に対する命令権を持っていた。」(上掲)
 (注45)「明<・清>朝期の受験生は答案の書き方として、八股文・・・四書五経の中から出題された章句の意味について、対句法を用いて独特な8段構成で論説・・・が指定された。・・・八股文は一定の対句作成の文章能力があれば対応可能であり、そう難解ではな<く、>・・・五経・・・より平易な・・・四書を重視したことも含めて、全国的にあらゆる階層から人材を集めることをねらったもの<だったが>・・・、八股文という形式重視の明の科挙制度は、小手先の器用な秀才肌の人間を採用するのには適していたものの、真の人材を得る事が出来ないという負の側面もあった」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E8%82%A1%E6%96%87

⇒武術の実技が含まれていた点を含め、武科挙実態のお粗末さと、支那における武軽視の甚だしさを、改めて思い起こさせられます。
 文科挙だって、程度の差こそあれ、褒められたものではありませんがね・・・
 但し、「時務策」の、もう少し、詳しい実態くらいは知りたいものです。(太田)

 これらに対して、・・・試業<(学問吟味)>は、定着期には4科目、すなわち「初場」(小学)・「経科」・「史科」・「文章科」となっている。
 中村敬宇<(注46)(コラム#3989、9657)>によれば、「凡そ此四科、國を治る之才を養ふ所以にして、兵を治る之才を育する所以に非ざるなり」とされ<ている。>」(121~123)

 (注46)中村正直(1832~91年。「啓蒙思想家、教育者。文学博士。英学塾・同人社の創立者で、東京女子師範学校摂理、東京大学文学部教授、女子高等師範学校長を歴任した。・・・
 江戸で幕府同心の家に生まれる。幼名は訓太郎。昌平坂学問所で学び、佐藤一斎に儒学を、桂川甫周に蘭学を、箕作奎吾に英語を習った。後に教授、さらには幕府の儒官となる。幕府のイギリス留学生監督として渡英。帰国後は静岡学問所の教授となる。
 教授時代の1870年(明治3年)・・・に、サミュエル・スマイルズの『Self Help』を『西国立志篇』の邦題(別訳名『自助論』)で出版、100万部以上を売り上げ、福澤諭吉の『学問のすすめ』と並ぶ大ベストセラーとなった。・・・ジョン・スチュアート・ミルの『On Liberty』<も>訳した『自由之理』(現在では同書を『自由論』と称するのが一般的)・・・
 1872年(明治5年)、大蔵省に出仕。女子教育・盲唖教育にも尽力。1873年(明治6年)、同人社を開設。また、福澤諭吉、森有礼、西周、加藤弘之らとともに設立した明六社の主要メンバーとして啓蒙思想の普及に努めた。機関誌「明六雑誌」の執筆者でもあった。
 1890年(明治23年)・・・貴族院勅選議員に任じられ、死去するまで在任した。・・・
 六大教育家のうちの3名のクリスチャン(あと2人は森有礼と新島襄)のうちの1人。興亜会会員。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E6%9D%91%E6%AD%A3%E7%9B%B4

⇒支那(儒教)崇拝をそのまま欧米(キリスト教)崇拝へと移行させたところの、卓越した外国語翻訳能力くらいだけが取り柄の「選良」しか、昌平坂学問所が維新後の日本に与えらることができなかったことを、中村敬宇が体現しているところ、そんな彼でも、さすがに、同学問所教育の致命的欠陥は指摘できた、といったところでしょうか。(太田)

(続く)