太田述正コラム#9759(2018.4.12)
<眞壁仁『徳川後期の学問と政治』を読む(その35)>(2018.7.27公開)

 「<古賀精里の子の>古賀<●(前出)(とう)>庵<は、>・・・現実世界の事象に関して敏感であり、「憂国之▽(しん)<(立心偏に沈のつくり)>、敵愾之気」をもって「天下の大計、丁世の急務」を論じたが、生前「一つとして諸(これ)を施設せらる<る>を得」なかったと云う。

⇒何一つ採用されなかったというのですから、いかに、昌平坂学問所の重鎮たる儒者と雖も、幕閣に、その提言などいかに相手にされなかったか、が分かります。(太田)

 <●>庵の関心は単に机上に止まることなく、「古道に泥みて時宜に△<(日偏に未)>」い世の「腐儒」を批判するばかりでなく・・・、50歳を越えてから自らも銃を取ってその操作を学んだ。・・・

⇒刀槍であれ銃であれ、武術などではなく、兵学こそ重要である、という認識に、精里も、その子の<●>庵も、ついに到達することはなかったわけです。(太田)

 弘化元(1844)年のオランダ軍艦による「開国」勧告<(注74)>に接すると、<著書>を著したが、その策は幕府のオランダへの返書には顧みられなかった。」(214、217)

 (注74)「阿片戦争<(1840~42年)>における<支那>(清)の敗北は日本人に大きな衝撃を与えただけでなく、オランダの日本顧問であったフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトPhilipp Franz von Siebold准男爵に日本将来を危惧させ、<開>国へ導こうと決意させるきっかけとなった。弘化元年7月2日(1844年8月14日)オランダ軍艦パレンバンPalembang号が長崎に入港した。コープスCoops艦長はオランダ国王ウィレム2世WillemⅡの将軍宛の親書を携えていた。この親書はシーボルトの起草によるもので阿片戦争の実情を知らせ、鎖国を解くように勧告するものであった。」
http://www.lb.nagasaki-u.ac.jp/siryo-search/ecolle/igakushi/palem/palem.html
 シーボルト(Philipp Franz Balthasar von Siebold。1796~1866年)は、「ドイツの医師・博物学者。標準ドイツ語での発音は「ズィーボルト」だが、日本では「シーボルト」で知られている。・・・ヴュルツブルク大学<卒>。
 東洋学研究を志し・・・、1822年にオランダのハーグへ赴き、国王ウィレム1世の侍医から斡旋を受け、・・・オランダ領東インド陸軍病院の外科少佐となる。・・・シーボルトの書簡に「外科少佐及び調査任務付き」の署名があることや、江戸城本丸詳細図面や樺太測量図、武器・武具解説図など軍事的政治的資料も<収集している>ことから、単なる医師・学術研究者ではなかったと見られている。・・・
 1830年、オランダに帰着する。・・・翌1831年・・・、蘭領東印度陸軍参謀部付となり、日本関係の事務を嘱託されている。・・・
 日本の開国を促すために運動し、1844年にはオランダ国王ウィレム2世の親書を起草している。
 1853年の<米>東インド艦隊を率いたマシュー・ペリー来日とその目的は事前に察知しており、準備の段階で遠征艦隊への参加を申し出たものの、シーボルト事件で追放されていたことを理由に拒否された。また、早急な対処(軍事)を行わないように要請する書簡を送っている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%AA%E3%83%83%E3%83%97%E3%83%BB%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%84%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%BC%E3%83%9C%E3%83%AB%E3%83%88

⇒眞壁が、<●>庵が著書で唱えた策の中身を全く紹介していないのは残念ですが、いずれにせよ、ここでも、この策は、「幕府のオランダへの返書には顧みられなかった」わけです。
 眞壁の主張は、このあたりだけとっても、完全に破綻しています。
 なお、シーボルトの生涯は、スパイ先に恋をしてしまった・・実際、当時、彼は独身でしたが、日本人女性を現地妻にして子供まで作った(上掲)・・ところの、今更ながらですが、実に興味深いものがありますね。(太田)

(続く)