太田述正コラム#9773(2018.4.19)
<眞壁仁『徳川後期の学問と政治』を読む(その42)>(2018.8.3公開)

 「同様の<こと>は、「鎖国」という概念を19世紀前半の日本に定着させたケンペル<(注97)(コラム#1502、6777.8671)>の「鎖国論」についても指摘できる。

 (注97)エンゲルベルト・ケンペル(Engelbert Kaempfer。1651~1716年)は、「ドイツ北部レムゴー出身の医師、博物学者。<欧州>において日本を初めて体系的に記述した『日本誌』の原著者として知られる。
 現ノルトライン=ヴェストファーレン州のレムゴーに牧師の息子として生まれる。ドイツ三十年戦争で荒廃した時代に育ち、さらに例外的に魔女狩りが遅くまで残った地方に生まれ、叔父が魔女裁判により死刑とされた経験をしている。この2つの経験が、後に平和や安定的秩序を求めるケンペルの精神に繋がったと考えられる。・・・
 1690年(元禄3年)、オランダ商館付の医師として、約2年間出島に滞在した。1691年(元禄4年)と1692年(元禄5年)に連続して、江戸参府を経験し将軍・徳川綱吉にも謁見した。滞日中、・・・精力的に資料を収集した。・・・1692年、離日して・・・1695年に12年ぶりに<欧州>に帰還した。オランダのライデン大学で学んで・・・医学博士号を取得。・・・
 ケンペルは著書の中で、日本には、聖職的皇帝(=天皇)と世俗的皇帝(=将軍)の「二人の支配者」がいると紹介した。その『日本誌』の中に付録として収録された日本の対外関係に関する論文は、徳川綱吉治政時の日本の対外政策を肯定したもので、・・・志筑忠雄は享和元年(1801年)にこの付録論文を訳出し、題名があまりに長いことから文中に適当な言葉を探し、「鎖国論」と名付けた。日本語における「鎖国」という言葉は、ここに誕生した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%B3%E3%82%B2%E3%83%AB%E3%83%99%E3%83%AB%E3%83%88%E3%83%BB%E3%82%B1%E3%83%B3%E3%83%9A%E3%83%AB

 すなわち、西洋人の眼から鎖国状態の合理性を説いた「鎖国論」もまた、一時代前の、17世紀後半の世界認識であり、ヒュブネルと同様に、その冒頭にキリスト教的な世界人類一致の理想が語られている。・・・

⇒ヒュブネルとケンペル、それぞれの「理想」についての記述内容を知りたいところですが、前者についてはそうかもしれませんが、後者については、それが「キリスト教的な」ものであったかどうかは疑問です。
 そもそも「キリスト教」に、非キリスト教徒も包含した形での「世界人類一致の理想」があるとも思えないことはさておき、後者については、キリスト教に対する幻滅が、そもそも、彼のアジア探索/放浪の旅(上掲)の動機だった、と、私は見たいくらいです。(太田)

 しかし・・・、<彼らが、>情報源が方法論的前提を欠く文明の質的差異を明瞭に問わない、断片的で平板な情報を発したがゆえに、受け手の<日本人達>側では単純化された西洋認識を生じ、受容者を主として軍事的格差や脅威のみに注目させ、その技術的な格差を生む文明社会の質的要因やその多様性に盲目ならしめたと言えないだろうか。・・・
 ●庵は<「ゼヲガラヒー」>・・・が植民地支配の情報提供のために著されたと考えている。
 「海防臆測」の世界は、「仁義道徳」を窮め「聖賢」を産出してきたかどうか、また現在もその「理議」を重視しているか否かに従って、次のように序列化されていた。
 まず、全五大洲中「大聖大英雄」を「林々輩出」してきたのは、独りアジアだけであった。
 ユダヤ・ペルシャ・インド・中国・日本などはすべてアジアに属しており、欧州、南北アメリカ、アフリカの大州はその風下に存在していた。
 さらに、そのアジアの中でも日本・中国・トルコ・ペルシャは「咸其人勇智兼全、理道を洞悟」しているが・・・、このうち中国は中華思想の故に現在自大主義に陥っていると批判される。
 アジアとは対照的に、古より「聖賢」を輩出してこなかった四大洲のうち、欧州では16世紀になってから「一二英士」が出でて、「物理」を窮め「遠略」を開始する点で、南北アメリカやアフリカよりは優れていた。
 このように●庵は、「仁義道徳」に従ってアジアの下に、欧州、さらにその下に南北アメリカ・アフリカを位置づけていた。」(271~273)

⇒「「海防臆測」で言及される地域名」(273)、と、上に転載したところの、眞壁による、その翻案・要約的紹介、とが、必ずしも一致していないようにも見える・・例えば、ユダヤ?・・のですが、それはともかく、アジアの中で支那だけが劣っているということを●庵が主張したとは考えにくいことから、彼が日本を単独で序列の最上位に置いていたと考えられるとすると、このことと言い、「軍事的格差や脅威・・・に注目」した点と言い、兵学を学んだとは思えないところの、●庵が、山鹿素行の世界観に近い・・現在の私の世界観もまたこれに近い・・ものを抱いていたことに注目せざるをえません。
 「ゼヲガラヒー」そのものを読んだわけではないので断言はできませんが、●庵のかかる世界観は、「ゼヲガラヒー」からではなく、素行の諸著作から得られたものではなかったのでしょうか。(太田)

(続く)