太田述正コラム#9783(2018.4.24)
<眞壁仁『徳川後期の学問と政治』を読む(その47)>(2018.8.8公開)

 「阿片戦争によって清がイギリスに敗北した天保13(1842)年の7月23日、幕府は外国との衝突を誘発する文政8(1835)年発令の異国船打払令を改めて、異国船への薪水給与を許した文化3年1月の「おろしや船之儀ニ付御書付」の段階に政策を戻すという薪水給与令を発する。
 しかし、この政策決定過程を示す史料は知られておらず、どのような諮問がなされ、意思決定されたのかは不明である。
 この幕府の対外政策の緩和を諸外国に通達する命を受けたのが、西洋諸国では唯一の「通商之国」オランダであった。
 しかし、この通達をめぐってオランダ側では翌年に至るまでその是非が論議されたという。
 出島の日本商館長グランディソン(Grandisson, E.)<(注108)>やバタヴィア財務理事長クルセマン(Kruseman)<(注109)>らの諸外国に薪水給与令を通告し外圧を利用して日蘭貿易を有利にするという意見に対して、バタヴィア<(注110)>総督メルクス(Merkus, P.)<(注111)>は公表を躊躇した。

 (注108)平戸時代から数えれば162代(長崎時代から数えれば154代)のオランダ商館長がエドゥアルド・グランディソン(1838年11月18日-1842年11月)だった。
 なお、商館長のことを、日本ではカピタン(甲比丹、甲必丹、加比旦)と呼んだが、「元はポルトガル語で「仲間の長」という意味があり、日本は初めにポルトガルとの貿易(南蛮貿易)を開始したため、西洋の商館長をポルトガル語の Capitão(カピタン)で呼ぶようになった。その後ポルトガルに代わりオランダが貿易の主役になったが、この呼び名は変わらなかった。本来オランダでは商館長のことを Opperhoofd(オッペルホーフト)と呼ぶ」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%94%E3%82%BF%E3%83%B3
 (注109)この人物についても、役職名についても、検証できなかった。
 (注110)「バタヴィア (Batavia) はインドネシアの首都ジャカルタのオランダ植民地時代の名称。・・・朱印船時代の日本人は現地式に「ジャガタラ・・・」と呼んでい<た。>・・・1942年日本軍が占領して当地に軍政を敷いた際にジャカルタと都市名を変更し、第二次世界大戦後にインドネシアがオランダから独立した後も、スカルノ政権が日本統治時代の『ジャカルタ』の名称を引き続き使用することを決定し、現在に至っている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%82%BF%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%82%A2
 (注111)Pieter Merkus(1787~1844年)。東インド会社総督(1841~44年)兼モルッカ諸島総督。
https://en.wikipedia.org/wiki/Pieter_Merkus

⇒メルクスの総督名が「バタヴィア」(眞壁)と「モルッカ諸島」(英語ウィキペディア)のどちらなのか、決着をつけることができませんでした。(太田)

 結局決定を委ねられた植民相バウド(Baud, J.C.)<(注112)>は、1843年夏頃までに、日本の鎖国政策緩和の公表が諸外国を日本に誘引させ衝突の原因になることを恐れて日本の対外政策転換を公表せず、「むしろ中国に起こった事件について知らせ、鎖国政策の危険を忠告」するための特使派遣を決意する。

 (注112)Jean Chrétien, Baron Baud(1789~1859年)。官僚。東インド会社総督(1833~36年)、植民相(1840~48年)、その後、下院議員。
https://en.wikipedia.org/wiki/Jean_Chr%C3%A9tien_Baud

 このようにしてオランダ国王ウィレム2世の親書と献上品が天保15(1844)年7月20日に長崎港に運び込まれ、8月20日に海軍大佐コープス(Corps, H.H.F)から長崎奉行井澤美作守政義に渡され<(注113)>、親書は9月23日に江戸に届けられたのだった。・・・」(297~298)

 (注113)フリゲート艦パレンバン号で来航。幕府は、「外国船入港に際しては、武装解除(入港時には武器弾薬を全て陸揚げし、出向の時に返還する)の制度があるにも関わらず、パレンバン号については、コープスが軍艦であることを理由にこれを拒絶すると、日本のためにという好意から、わざわざ来航したという特殊な事情を配慮して武装解除を免じるということが慣例になっては、国法に反するが、それを免じないために両国間に齟齬をきたして国威を汚しては良くないので、その点を深く考慮して使節の要請を受け入れて良い、と命じてい<る>。」
https://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=8&cad=rja&uact=8&ved=0ahUKEwi0mt-BjtDaAhVCF5QKHR0jD30QFghTMAc&url=https%3A%2F%2Fkokushikan.repo.nii.ac.jp%2Findex.php%3Faction%3Dpages_view_main%26active_action%3Drepository_action_common_download%26item_id%3D6298%26item_no%3D1%26attribute_id%3D189%26file_no%3D1%26page_id%3D13%26block_id%3D21&usg=AOvVaw3huYX47jYkQHOwT4iv62Qc
 (この論文筆者永橋弘价は、国士館大卒、同大修士で、2007年当時同大政経学部政治学科准教授。
https://researchmap.jp/read0068789/ )

⇒このあたり、なかなか興味深いものがありますが、当時の日蘭関係が、交易関係にとどまらない、国交関係へと正式に変貌したに等しい出来事であったと言えそうです。
 なお、この時の薪水給与令とオランダの親書との関係について、眞壁とは違って、永橋は、あるとしてはいませんが、この点の詮索は断念しました。(太田)

(続く)