太田述正コラム#9785(2018.4.25)
<眞壁仁『徳川後期の学問と政治』を読む(その48)>(2018.8.9公開)

 「幕府は、翌弘化2(1845)年6月までに返書を作成した。
 その返書は6月中旬に江戸を発して8月4日に長崎に到着し、8月13日に長崎奉行所にてオランダ商館長に渡され、結局オランダ本国には1846年に届けられた。
 オランダ側では、限定された国のみに許された日本との「通商」が、返書により改めて保証されたことを評価する見解を生んだとされている。
 さて日本側の返書作成過程は、・・・老中はまず返書の作成を学問所関係者、大学頭林培齋<(注114)>、儒者古賀●庵、佐藤一齋らに命じている。・・・

 (注114)林▼<(木偏に聖。テイ)>宇(1793~1847年)。「林述斎の3男。鳥居耀蔵の兄。佐藤一斎,松崎慊堂にまなぶ。幕府儒官となり,天保9年(1838)大学頭。」
https://kotobank.jp/word/%E6%9E%97%E6%AA%89%E5%AE%87-14669
 「著作に『澡泉録』などがあり、能書家としても知られる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9E%97%E3%83%86%E3%82%A4%E5%AE%87

⇒眞壁が引用する典拠には、「林家へ被仰付」(299)とあり、「学問所関係者、・・・儒者古賀●庵、佐藤一齋ら」の部分は余計です。(太田)

 命を受けた林大学頭らは、・・・返翰草案を作成して老中に提出し、その草案をめぐって評定所のほか、寺社・町・勘定の三奉行並びに大目付・目付の意見が上申され、その上で老中らが議して返書の文章を決め、改めて林大学頭らに「再撰」させている。・・・

⇒二か所の「林大学頭ら」の「ら」は、同じ理由で余計です。(太田)

 オランダ<とは>・・・「通信」の関係にはなかったために、国書自体を受領するのかどうか、また受領した場合には返書を授与するか、あるいは役人による申渡とするか、返書を認める際には差出し人を通信使国書と同様に将軍名とするか、それとも老中連署とするか、また礼物としての贈品を受納し、返礼品を贈呈するかどうか、そしてさらに、勧告に従って「祖法」を改め、他国との通商を開始するかどうか–それらの諸点をめぐって議論がなされたであろう。・・・
 このような中で、古賀●庵<は>、「返簡を修」する以前の弘化元(1844)年12月に、<彼が書いたものを読むと、その時点で>・・・オランダ国王の親書の渋川六藏<(注115)>による最も早い翻訳さえ入手していなかったと思われる。」(298~301)

 (注115)「渋川六<藏>は、江戸幕府天文方を務めた渋川家当主の通称の1つ。初代・渋川春海の幼名が安井六<藏>であったことに由来する。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%8B%E5%B7%9D%E5%85%AD%E8%94%B5
 「[貞享元年12月1日(1685年1月5日)に初代幕府天文方に250石をもって]渋川春海が江戸幕府天文方に任命され、以後天文方は明治維新まで渋川氏<ら>の世襲となった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%8B%E5%B7%9D%E6%B0%8F
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%8B%E5%B7%9D%E6%98%A5%E6%B5%B7 ([]内)
 このくだりでの渋川六藏は、1809年から亡くなるまで天文方であったところの、渋川景佑(1787~1856年)、ということになる。
 景佑は、「大坂定番井上筑後守組同心高橋至時の次男として大坂に生まれる。寛政7年(1795年)、父が天文方に召しだされて江戸に出た後も兄の景保と共に大坂にいたが、2年後に兄と共に江戸に出た。父の元で天文暦学を学び、父の死の翌年である文化2年(1805年)に伊能忠敬に従って東海地方・紀伊半島・中国地方の測量に従事した。
 文化5年(1808年)8月、天文方であった渋川正陽の養子に迎えられ、翌年養父の隠居によって23歳の若さで天文方に任じられた。渋川家は初代の天文方であった渋川春海以来の家柄であったが、春海の嫡男昔尹以来、当主の早世と養子縁組が相次いだために春海以来の学術は途絶え、名目のみの天文方の地位を代々引き継ぐだけの家となっていた。それを挽回するために高橋家からの養子を迎えた」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%8B%E5%B7%9D%E6%99%AF%E4%BD%91
という人物である。

⇒眞壁自身が(意図せずして?)示唆しているように、本件には儀典上の「難問」が多々あったことから、まずは、(儒官としてではなく、儀典担当官署の長としての)林大学頭に一番先に諮問・・但し、儀典面・・をした、ということでしょう。
 引き続きその後、「「祖法」を改め」ない方針を事実上決めた上で、この方針の是非について、念のために「評定所のほか、寺社・町・勘定の三奉行並びに大目付・目付の意見」を聴取した、ということだったのでは、と私は見ています。
 実際、●庵は、眞壁自身が記しているように、少なくとも初期段階では(儀典面ではないところの、)実質面の情報にアクセスできていなかったわけであり、▼宇の父の時から行政官化していた大学頭の所で実質面の情報はとどめ置かれ、儒官達には伝えられなかった、ということではないでしょうか。(太田)

(続く)