太田述正コラム#9787(2018.4.26)
<眞壁仁『徳川後期の学問と政治』を読む(その49)>(2018.8.10公開)

 「幕府の返書は、・・・レザノフへの<返答における>・・・「祖法」順守の立場をそのまま先例として踏襲している。・・・
 <すなわち、>「通信之国」と「通商之国」とを弁別した「祖法」・・・を守る耳<(ノミ)>」とされるのである。・・・
 これに対して、●庵の・・・弘化元(1844)年12月の日付けをもつ・・・「擬論外夷互市封事」は、・・・「今夫れ互市之請を許し、其の間を以て武備を修むは洵に目今の至要の務め」と<していた。>・・・
 <彼は、>当時徳川日本が直面していたのは、第一に、日本と西洋諸国との圧倒的な軍事技術の格差の下での交易承認が、経済的な植民地–宗主国の関係に容易に転化しかねないという権力的契機の問題であり、第二に、日本社会の崇義の文化が、西洋の利欲の論理によって侵蝕されるという、「利」認識をめぐる文化の質的差異の問題であった。・・・
 <これら>の論点は、結局、一つとして幕府の返書の中に盛り込まれることはなかった。・・・
 かつて老中として天保の改革を主導し、一方では天保13(1842)年には薪水給与令を発布して諸外国との衝突を回避し、他方では江戸湾防備の強化、その海防強化のための財政政策を施行しようとして失脚していた水野<忠邦>は、伝えられるところによれば、徳川日本の対外的独立維持のためにオランダ親書受諾に傾く論を取った。
 それに対して、・・・阿部派は、徳川体制維持のために「開国」拒絶論をとったと云う。・・・
 この幕閣での政治抗争が決着するのは、翌弘化2(1845)年2月22日に水野が失脚すること」によってである。<(注116)>

 (注116)この間の詳しい経緯については、前出の永橋論文によれば、以下の通りだ。
 「阿部正弘は,天保9年,西暦で言うと1838年9月1日,20歳の若さで幕閣の一部門を占める奏者番になっています。その2年後,天保11年(1840年)の11月20日,22歳で寺社奉行に抜擢されております。そして同14年(1843年)の9月21日には25歳で老中に任命され,弘化2年(1845年)2月22日には27歳の若さで老中首座になっております。これは異例の出世ということであります。そして彼が日本の政治の中枢に占める年数は,大体20年近くという長きにわたっております。そして老中首座,総理大臣のような立場に立って大体12,3年,日本の政治のトップにおります。・・・
 大塩平八郎<の>乱<と>・・・モリソン号事件の翌年から日米和親条約締結に至る20 年近く幕閣の座にあったのが・・・阿部正弘だった<わけです。>・・・
 老中首座の水野忠邦は,もう世の中の流れを遮ることはできないから,鎖国状態を続けるのは不可能なので,威嚇されて行うよりは,オランダ国王の忠告に従って自ら進んで開国しようと思うがどうか,と老中の阿部正弘・・・などに諮問したところ,みんな反対したのです。
 水野は重ねて諸有司を集めて会議を開き,彼の提案を検討させましたが,ここでも皆に反対されました。そこで水野は,最後の手段として御前会議を開いて,将軍家慶の御前でオランダ国王の親書に対して開国にすると回答したいと提案したところ将軍家慶はじめ皆が猛烈にこれに反対したのです。そこで水野は「上様は開国に反対されるが,このように鎖国と決定される上は,和の一文字(平和という一文字)は永劫未来,御用部屋に封禁して再び口に出してはいけませんよ。ここにいる満座の方々も(同席している全ての皆さんも)果たしてそういう御覚悟があるのか。不肖とはいえ自分は外患が迫れば国に殉じ武士の面目を守る覚悟だ。」と声を高めますと,みんな黙ってしまったのです。そいうような状態の中で,次席老中であり,特に将軍家慶の信頼の最も厚い阿部正弘だけが,涙ぐんで,「委細承知仕りました」と答えました。すなわち開国に反対するのは,おっしゃる通り,鎖国を続ければ戦いが起こることを十分覚悟した上であるということです。このことから見ても阿部正弘は鎖国論者と言えます。
 阿部は当時,老中の勝手掛の役職(今の財務大臣みたいな立場)にありながら,水野を補佐しませんでした。本来ならば老中首座が勝手掛も兼任するのですが,当時の水野は,それもなく,以前のような権力も無かった。天保の改革で辞めさせられており,辞めさせられる時には,将軍をはじめ幕閣が引きずり下ろしておきながら,十ヶ月も経たないうちに,また老中首座に再任したのです。それは前にも少しふれたように,この時代になるとひっきりなしに外国からの船が日本近海にやって来て,その応対が大変だったのです。そういう国際問題を仕切る人が誰もいないから,水野がまた再任されて,老中首座の立場に立たされたのですけれども,今言ったように,将軍を目の前にして詰問したものですから,そういうこともあるし,それから自分の考え方が否定されたということもあって,水野は病気だといってお城に行かなくなってしまったのです。そういうような状態の中で,水野はまた将軍家慶から首を切られたのです。「もう私は主席老中なんかになるのはいやです。」と断り続けたにもかかわらず,そう言わないで是非なれ,是非なれと将軍が言うので,いやいやながら引き受けたのですけれども,将軍家慶は水野の意見に強硬に反対した上で弘化2年2月,また罷免したのです。水野は辞めさせられただけではなくて,2万石も石高を減らされるという処分を受けています。
 ・・・阿部正弘は大体,大方の意見とか将軍の側について行動し,開国に反対し鎖国を標榜しながら鎖国を守るために目立った働きはしていないのです。勝手掛という重要な老中の役職を担いながら,主席老中である水野を援けるようなことはほとんどしていません。
 ・・・将軍や大奥の喜ぶような案件については賛成し,先にたって行動し,具体的な計画も立て,巨額な出資も行ってい<るのですが・・>。
 オランダ国王の親書に対して,日本側は翌年の弘化2年6月,阿部正弘が首席老中になった後で老中連署の回答をオランダ側に渡したのです。・・・
 この時,忠邦の提案が受け入れられておれば日本の開国は十年早く行われていた<のです>。」
https://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=8&cad=rja&uact=8&ved=0ahUKEwi0mt-BjtDaAhVCF5QKHR0jD30QFghTMAc&url=https%3A%2F%2Fkokushikan.repo.nii.ac.jp%2Findex.php%3Faction%3Dpages_view_main%26active_action%3Drepository_action_common_download%26item_id%3D6298%26item_no%3D1%26attribute_id%3D189%26file_no%3D1%26page_id%3D13%26block_id%3D21&usg=AOvVaw3huYX47jYkQHOwT4iv62Qc 前掲
 (この論文は、参考文献が末尾に羅列されているだけだし、前回引用部分は、国書到着時の意思決定と返書の内容とを取り違えて記述していると見て、到着時のものとして引用したり、と不備が多いが、本文は講演原稿であったらしいことから、目をつぶることにした。)

 さきの●庵の「封事」と老中阿部を筆頭とするオランダへの返書(同年6月)との比較は、あるいは、この幕閣内での水野派と阿部派との政策論争点を辿る作業だったと言えるかもしれない。」(302~304、306、309~310)

⇒ここでも、眞壁が事実上認めてしまっているように、●庵の「メモ」は、彼が、大学頭等から漏れ聞こえてきた、幕閣内での「議論」についての「政策論争点を辿」ったところの、水野に共感を寄せつつ行った、一種のマスターベーション以上でも以下でもなかったのではないでしょうか。
 そんなことより、私として、眞壁に追求して欲しかったのは、ペリー来航以前の時点で、既に、幕府が、かくも、安全保障に関して、ということは恐らくその他のあらゆる分野においてもかなりの程度、無能化・退嬰化してしまっていたのは、兵学を排除したところの、昌平坂学問所の教育研究が広義の幕府関係者達・・上は将軍から末端御家人達、更には譜代大名関係者達・・に及ぼした悪影響に負う部分が大きかったのではないか、という点です。
 もはや、水野のような強烈な個性を持った人物くらいしか、無能化・退嬰化を免れた幕府関係者はおらず、しかも、当然のことながら、このような人物は、水野のように排除されて行ったわけです。
 もとより、この時、何かの間違いで(?)幕府が開国に踏み切っていたとしても、果たして不平等ではない修好通商条約群を欧米諸国と締結できたかどうかは疑問ですし、幕府の命運が20世紀まで続いたとも到底思えませんが・・。(太田) 

(続く)