太田述正コラム#9807(2018.5.6)
<眞壁仁『徳川後期の学問と政治』を読む(その59)>(2018.8.20公開)

 「老中阿部への対外政策をめぐる有力な助言者は学問所御用の筒井◎渓から交替して、徳川齋昭となり、これ以降日米和親條約締結を不服として参与を辞任する嘉永7年4月30日まで、彼を軸に徳川日本の対外政策形成・調整と策定作業が進行する。
 7月から8月にかけて三度にわたって上げられた<齋昭の>「海防愚存」と呼ばれる上書に対しては、勘定海防掛・筒井◎渓・目付海防掛・海防掛江川英龍(担庵)がそれぞれ意見を上げている。

⇒海防掛を設けたと言っても、このように、要員が勘定方と目付方に分属されていたのが事実だとすれば、それは、単に定員管理上の形式的分属ではなく、海防掛に単独の勤務場所が確保されていなかった可能性が強いところ、いずれにせよ、幕府が海防掛の設置を、恒常的課題対処のためではなく、臨時的措置、と考えていたらしいことを推察させるものであり、何をかいわんや、です。(太田)

 つづく大號令案をめぐる議論は、対外方針発布のために阿部正弘が号令案を起草し、それに対する齋昭の修正(8月14日)をめぐって行われたが、結局幕議は決しえなかった。
 その大号令案の諸有司評議(9月13日)では、勘定海防掛・筒井◎渓・目付海防掛・大小目付・三奉行・大目付深谷盛房・江川英龍・・・、藤田東湖<(注136)(コラム#98、8302、9663、9692)>・・・など・・・の答申書・・・が上げられた。

 (注136)1806~55年。「父は水戸学者・藤田幽谷・・・戸田忠太夫と水戸藩の双璧をなし、徳川斉昭の腹心として水戸の両田と称された。また、水戸の両田に武田耕雲斎を加え、水戸の三田とも称される。特に水戸学の大家として著名であり、全国の尊皇志士に大きな影響を与えた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E7%94%B0%E6%9D%B1%E6%B9%96

⇒眞壁が、答申書群をどれくらい網羅的に紹介しているのかは分かりませんが、昌平坂学問所儒官達のみならず、儒者達自体が、もはや相手にされていないのでは、という印象を私は受けます。
 筒井◎渓は繰り返しますが行政官であり、また、藤田東湖は、(水戸学者であって必ずしも儒者とは言えないことはさておき、)「斉昭が海防参与として幕政に参画すると東湖も江戸藩邸に召し出され、江戸幕府海岸防禦御用掛として再び斉昭を補佐することにな<り、>安政元年(1854年)には<斉昭の>側用人に復帰してい<た>」(上掲)ことから、あくまで、海防参与としての齋昭の一の部下の立場での答申であったと考えられるからです。(太田)

 引き続き行われた号令案再議(10月14日)においては、齋昭海防参与の辞意表明(同月19日)が明らかにされると幕議は一変して急展開をみせて漸く決着したと云う。
 阿部の号令案修正を齋昭が朱書して(同月25日)、再び阿部へ上げ(同月26日)、それが最終的に11月1日に大号令として発布されたのであった・・・。
 <この間の>筒井◎渓の<2つの>上書<で、>・・・注目すべき論調の変化は、ここにいて交易許可が避けられないならば、アメリカよりも、むしろ隣接する大国にして信義立つロシアに期限を設定して交易を許可すべきであると主張する点にある。・・・
 ・・・勘定海防掛や仙台藩儒大槻磐渓<(注137)>(1801~78)・・・江川英龍・・・らが同様のロシアとの貿易許可論を上げている。

 (注137)蘭学者大槻玄沢の江戸での子だが、漢学者として育てられ、昌平坂学問所、及び、父の出身の仙台藩の藩校・養賢堂、でも学び、それから仙台藩士になった、というユニークな経歴の人物
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%A7%BB%E7%A3%90%E6%B8%93
だが、ここでは、彼が、(やはり、単なる儒者とは言えない上、また、厳密な意味で「答申」であったのかどうかにも疑問を覚えるところ、)「答申」を上程したいきさつ等について、詮索は控えたい。

 彼らに共通するその論拠は、新興国亜米利加よりも、寛政期より交易を嘆願してきた隣国の大国ロシアへの国際信義であった。

⇒この3名とも、開国論を主張した点は評価すべきですが、ロシアについても米国についても、殆ど知識がなく、また、知識を求めようともしなかったためでしょう、肝心要の部分で、(形成されつつあったところの、横井小楠コンセンサスとは対蹠的な、)トンデモ答申をしてしまったようですね。(太田)

 すでに嘉永5年9月には、オランダ東インド総督ドイマル・ファン・トウィスト(Duymaer von Twist)から日蘭通商條約草案が提出されおり、幕閣・諸有司たちも要求される通商條約の内容自体は予測を立て始めていたであろう。
 また、講武所の具体的構想も、<◎渓の1つ目の上書>にはもられており、勝海舟の「教練學校」構想と並んで、後の講武所設立の際に参照されたことは疑いない。
 後に詳論するように、学問所儒者たちは、この時期の外交で交渉の全権としての責任を担っている。
 ペリー再航に対しては亜墨利加応接掛の首席全権を、大学頭林復齋が、また同年続いて来航したロシアに対しては魯西亜応接掛の首席全権を、学問所御用筒井◎渓が務める。
 いずれの人事も、従来漢字外交文書を主とする聘礼(外国使節訪問)に応接してきた慣習の延長にあると考えられる。」(345~346)

⇒繰り返しになりますが、この2人は、どちらも、行政官であって儒官とは言えません。(太田)

(続く)