太田述正コラム#9809(2018.5.7)
<眞壁仁『徳川後期の学問と政治』を読む(その60)>(2018.8.21公開)

 「筒井◎渓は嘉永7(安政元)年7月24日に学問所御用より大目付に転じ、同時に海防掛に任じられた。
 嘉永7年3月3日に日米和親条約が締結され、さらに安政3年10月20日に外国貿易差許の達が下るまでの・・・◎渓の上書は、現存を確認できない。
 しかし、それ以後の・・・になると以前とは政策方針を一変させた上書が・・・数多く残る。・・・
 この時期の論調変化は、しかし、◎渓自らの政治判断によってもたらされたものではなかった。
 むしろそれに先行する幕閣の外交政策転換の決定に追随する形で、◎渓の上書内容が一変するのである。
 すなわち、イギリスが通商條約締結のために日本に向けて使節を派遣するというオランダ領事からの情報(安政3年7月10日)によって、閣老は各所への諮問の結果、貿易開始を決断して、「外国貿易取調掛」<(注138)>を設置した。

 (注138)「<阿部正弘に代わって、>蘭郡(西洋かぶれ)といわれた積極開国論者の堀田正睦<が>老中首座<となったが、彼は>・・・、安政三年(一八五六年)十月、<自身>を外国事務取扱とし、その下に外国貿易取調掛を置き、大日付の土岐頼旨、勘定奉行の川路聖護と水野忠徳、目付の岩瀬忠震を任命した。」
https://books.google.co.jp/books?id=a-1cCwAAQBAJ&pg=PT52&lpg=PT52&dq=%E5%A4%96%E5%9B%BD%E8%B2%BF%E6%98%93%E5%8F%96%E8%AA%BF%E6%8E%9B&source=bl&ots=FaVaS1Kbz3&sig=o3EzlxxD3H9SM2gZqObkMTY2SgU&hl=ja&sa=X&ved=0ahUKEwjAtbbHtfDaAhUBHpQKHaTLCFsQ6AEIODAE#v=onepage&q&f=false
 「堀田正睦(ほったまさよし<。1810~64年>)は、・・・下総佐倉藩の第5代藩主<で、>正俊系堀田家9代。・・・
 第11代将軍・徳川家斉没後の天保12年(1841年)3月23日に本丸老中に任命され、老中首座の水野忠邦が着手した天保の改革に参与する<が、>・・・正<睦>は忠邦の改革に対しては批判的であり、忠邦の改革は失敗に終わると早くから見抜き、・・・天保14年(1843年)4月の第12代将軍・徳川家慶の日光参拝直後に病気と称して辞表を提出する。 閏9月8日、辞任を認められて江戸城溜間詰となるが、これは老中辞任後も正睦に一定の幕政への発言力が残される結果になった(忠邦が罷免されたのは正睦辞任の5日後・・・)・・・
 安政2年(1855年)・・・10月9日、当時の老中首座であった阿部正弘の推挙を受けて再任されて老中になり、正弘から老中首座を譲られた。・・・この正睦の老中再任に対して徳川斉昭は蘭癖である正睦に好感を持てなかった事から反対し、島津斉彬は静観した。また立花鑑寛や松平慶永らは正<睦>は招聘された「看板」であって実権は阿部が掌握していると見ていた。確かに阿部は死去する安政4年(1857年)までは実権を握っており、正<睦>は首座とはいえ飾りに近かった。ただし正<睦>を立てる事で阿部が矢面に立つのをかわす事、黒船来航から山積していた外交・内政問題などからの激務で阿部の体調が思わしくなかった事、譜代大名の中で正<睦>は明快なほど開国通商の意見を持っているなどした事が、阿部に推挙された理由であるとも思われる。
 安政3年(1856年)、島津家から第13代将軍・徳川家定に輿入れした篤姫の名を憚り、<正篤から>正睦と改名する。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A0%80%E7%94%B0%E6%AD%A3%E7%9D%A6

 この決定が公表された直後に上げられた◎渓上書・・・には、・・・議論変節の断り書きが記された上で、「緩優貿易」の推進が主張される。
 その背後には・・・環境条件変動の認知度の深まりがあり、またそれに伴い、・・・参照される先例時点も寛永以前に変化する。・・・

 特に嘉永2年から安政3年に至る時期に◎渓の大局的な状況把握は転換し、その政策論長はオランダ商館長が勧める「緩優交易」推進へと一気に変化する。
 ◎渓の安政期の議論が、同時期の目付海防掛で、後に初代外国奉行となる岩瀬忠震(ただなり)(・・・鷗處)<(注139)(コラム#5602、9655)>・永井尚志(なおゆき)(介堂)<(注140)>らの政策論と重なることは既に指摘されている。

 (注139)1818~61年。「旗本・設楽貞丈の三男として・・・生まれる。血縁をたどると、麻田藩主青木一貫の曾孫、宇和島藩主伊達村年の玄孫であり、男系で伊達政宗の子孫にあたる。母は林述斎・・・の娘で、おじに鳥居耀蔵、林復斎・・・がいる。・・・岩瀬忠正の婿養子となり、岩瀬家(家禄800石)の家督を継いだ。天保14年(1843年)昌平坂学問所大試乙科に合格、成績<は>優秀だった・・・。嘉永2年(1849年)2月部屋住みより召し出されて西丸小姓番士となり(切米300俵)、同年11月徽典館学頭を命じられ(手当として30人扶持)、翌年甲府へ出張、・・・1年後江戸に戻り、・・・昌平坂学問所の教授となる。
 嘉永7年(1854年)、老中首座・阿部正弘に・・・目付に任じられ、講武所・蕃書調所・長崎海軍伝習所の開設や軍艦、品川の砲台の築造に尽力した。その後も外国奉行にまで出世し、安政2年(1855年)に来航したロシアのプチャーチンと全権として交渉し日露和親条約締結に臨んだ。
 安政5年(1858年)には<米>総領事タウンゼント・ハリスと交渉して条約締結に臨み、日米修好通商条約に井上清直と共に署名<した>・・・。・・・
 同年、・・・一橋派に属し<ていたことから>、大老となった井伊直弼が反対派や一橋派の排斥を行う安政の大獄で作事奉行に左遷され・・・失意のうちに病死した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A9%E7%80%AC%E5%BF%A0%E9%9C%87
 (注140)1816~91年。「三島由紀夫の父方の高祖父にあたる。・・・
 三河奥殿藩の第5代藩主・松平乗尹とその側室の間に生まれた。・・・すでに家督は養子の乗羨に譲っていたことから、25歳の頃に旗本の永井尚徳の養子となった。
 嘉永6年(1853年)、目付として幕府から登用される。安政元年(1854年)には長崎海軍伝習所の総監理(所長)として長崎に赴き、長崎製鉄所の創設に着手するなど活躍した。安政5年(1858年)に・・・岩瀬忠震と共に外国奉行に任じられた。そしてロシア、<英国>、フランスとの交渉を務め、通商条約調印を行…った。その功績で軍艦奉行に転進したが、・・・一橋派に組したため、・・・井伊直弼によって罷免され、失脚した。
 直弼没後の文久2年(1862年)、京都町奉行として復帰し、元治元年(1864年)には大目付となる。文久3年(1863年)の八月十八日の政変、元治元年(1864年)7月19日の禁門の変では幕府側の使者として朝廷と交渉するなど、交渉能力で手腕を発揮した。慶応3年(1867年)には若年寄にまで出世する。大政奉還においても交渉能力を発揮した。鳥羽・伏見の戦い後は慶喜に従って江戸へ逃げ戻り、その後は榎本武揚と共に蝦夷地へ向かって箱館奉行となり、新政府軍と戦った<が>・・・降伏した。
 明治5年(1872年)、明治政府に出仕し、開拓使御用係、左院小議官を経て、明治8年(1875年)に元老院権大書記官に任じられた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B8%E4%BA%95%E5%B0%9A%E5%BF%97

⇒眞壁自身が示唆しているように、◎渓は、単に、風見鶏(的行政官)であった、ということでしょうね。(太田)

 しかし、これまで看過されてきたのは、筒井を含め彼らがいずれも昌平坂学問所の学問吟味及第者であり、またそればかりでなく前述したように学問所御用や教授方出役また徽典館などの教官歴任者・・・であったことである。」(348~349)

⇒岩瀬は、行政官としてキャリアをスタートさせています。
 また、(岩瀬の恐らく先輩たる)徽典館学頭であった林鶴梁(かくりょう。1805~78年)のその前後の全キャリアが行政官としてのものであった
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9E%97%E9%B6%B4%E6%A2%81
ことからも、徽典館学頭は(儒学にも造詣が深い者が充てられたと想像されるところの、)行政官ポストであったことが分かります。
 従って、岩瀬の全キャリア中、昌平坂学問所の教授であった約4年間だけが、儒官(非行政官)としてのものです。
 (なお、現在の日本の中央官庁キャリアも、人事管理上、一時的に国立大学等に出向して、管理業務に携わったり、教官を務めたりすることがあります。(典拠省略)
 更に言えば、岩瀬の昌平坂学問所時代については、(設問作成を含む)学問吟味担当といった行政官的「教授」であった可能性を排除できないのではないでしょうか。)
 永井に至っては、一貫して行政官ポストを歩んでいます。
 なお、学問吟味は、そもそも、行政官候補者選抜試験であることはご承知の通りです。
 従って、申し訳ないけれど、眞壁は、ここでも、自分が立てた奇矯な説に合うようなこじつけを書き散らしている、と、言わざるをえません。(太田)

(続く)