太田述正コラム#9811(2018.5.8)
<眞壁仁『徳川後期の学問と政治』を読む(その61)>(2018.8.22公開)

 「嘉永6(1853)年6月9日に、ペリーから浦賀奉行が・・・受領した・・・フィルモア大統領とペリーからの将軍徳川家慶宛の・・・亜米利加国書・・・への返答の「挨拶振」や<アメリカ船が>近海に乗り入れた際の処置について、三奉行・大小目付・海防掛にそれぞれ・・・同月23日に・・・諮問し、さらに続いて26日に評定所一座・三番頭(大番頭<(注141)>・書院番<(注142)>頭・小姓組<(注143)>番頭)に、・・・昌平坂学問所関係者<7名と>・・・天文方手附<3名からなる>・・・異国書翰和解用掛・・・による翻訳・・・を渡して所見を求めたのを皮切りに、溜詰<(注144)>大名(同月27日、7月1日)、諸大名(7月2日)、そして高家・布衣以上の幕臣たちへも同様に、和解書翰を達し、文言はそれぞれ異なるが同趣旨の「口達書」を発した。・・・

 (注141)「江戸幕府で大番の指揮官が大番頭と呼ばれ、平時は江戸城・大坂城・二条城の警備を務め、また有時及び行軍に際しては幕府軍の一番先手の備並びに騎馬隊指揮官(侍大将)として、番方(武官)で最高の格式を誇った。5000石以上の旗本または、1万石クラスの譜代大名から複数が任じられた。大番頭配下の中間管理職は大番組頭と呼ばれた。
 警備隊長・一指揮官にすぎない大番頭が、3000石級の旗本の任である江戸町奉行や、大目付より格上なポストであるのは、幕府はいわば軍事政権であるため、軍事・警備の責任者の地位が高かったのである。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%95%AA%E9%A0%AD
 「常備兵力としての大番は、同様の組織である五番方(小姓組、書院番、新番、大番、小十人組)の中で最も古く、・・・天正14年(1586年)頃に・・・編制されたと考えられている。文禄元年(1592年)には江戸城改築にともない、当時あった6組の屋敷地を江戸城北西側に設けている(千代田区には一番町から六番町の町名が現在も残る)。開幕前の大番は松平一族や家康の縁類が番頭に就く事が多く、この当時は後の両番のような親衛隊的側面も有していた。
 大番は当初は6組、その後・・・本丸老中支配として12組となる。徳川秀忠が将軍に就任し、書院番・小姓組(創設当初は花畑番)が新たに創設されると親衛隊側面はそちらに移行し、大番は幕府の直轄軍事力となってゆく。・・・
 1つの組は番頭1名、組頭4名、番士50名、与力10名、同心20名で構成される。番頭は役高5,000石の菊間席で、しばしば大名が就任した(開幕初期はその傾向が特に強い)。組頭は役高600石の躑躅間席、番士は持ち高勤め(足高の制による補填がない)であるがだいたい200石高の旗本が就任した。役高に規定される番士の軍役から計算した総兵力は400人強とな<る>・・・)。
 職務は、戦時には旗本部隊の一番先手として備の騎馬隊として働き、平時には江戸城および要地の警護を担当する。江戸城警備は当初、本丸御殿虎の間に詰めていたが、寛永20年(1643年)に・・・江戸城警備を外される。これにより番士の士気低下が生じたため番頭が警備任務への再配置を求め、これに応じて当時は空屋敷だった西ノ丸御殿の警備を命じられて以降、大御所・世子不在時の西ノ丸・二ノ丸御殿警備を担当する(特に二の丸の警備が多かった)。また廻り番として江戸市中の巡回警備も行った。一方、大番の警護する要地は二条城および大坂城があり、それぞれに2組が1年交代で在番する。江戸時代初期にはこのほかに伏見城と駿府城の警護に当たっていたが、伏見在番は伏見廃城により、駿府在番は書院番が務めることになり、それぞれ廃止された。・・・
 大番は歴史が古いものの、「両番」と称せられる小姓組、書院番に比べ家格は一段低いとされ、番士たちの出世の途は限られていた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E7%95%AA
 (注142)「慶長10年(1605年)に設立され、・・・当初4組によって構成され、後に6組まで増員される。また親衛隊という性格から、西丸が使用されているとき(大御所もしくは将軍継嗣がいるとき)は、西丸にも本丸と別に<4>組が置かれる。<1>組は番士50名、与力10騎、同心20名の構成からなる。番頭は、その組の指揮官である。朝番・夕番・泊番があり、設立当初は白書院紅葉の間に勤番しており書院番の名はその白書院から採られている。・・・
 大番と同じく将軍の旗本部隊に属し、他の足軽組等を付属した上で、備内の騎馬隊として運用されるが、敵勢への攻撃を主任務とする大番と異なり、書院番は将軍の身を守る防御任務を主とする。また、毎年交代で駿府に在番する。
 <書院番と>小姓組・・・<の>どちらも、登城して勤番した日から三日目は供番といって、この日に将軍が外出すれば、そのお供を務める。四日目は西丸勤番。五日目は大手門の警固、六日目に将軍外出に当たれば先供を務め、七日目は西丸供番。八日目に明番といって休日が回ってきた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9B%B8%E9%99%A2%E7%95%AA
 (注143)「小姓組は・・・五番方・・・の中でも両番(小姓組、書院番)に含まれている。一般的にイメージされる「小姓」とは異なり、純然たる戦闘部隊である。設立初期は勤番所の前に花畑があったことから花畑番と呼ばれた。
 <書院番と同じく、>戦時の任務は旗本部隊に於いて将軍の直掩備・騎馬隊の任に就き、平時は・・・江戸城内の将軍警護として・・・勤番していた・・・。なお、小姓組は書院番と異なり、駿府在番はない。書院番とともに親衛隊的性格を持つため、番士になる資格が家格や親の役職などで制限されていた。そのため番士の格が他の番方より高いとみられ、その後も高い役職に就くことが多かった。若年寄支配で、番頭の役高4,000石。6番あり、番頭の他に与頭1人と番士50人。西の丸に他に4番あった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E5%A7%93%E7%B5%84
 (注144)「溜詰(たまりづめ)は、黒書院溜之間(くろしょいんたまりのま)、通称を松溜(まつだまり)の部屋に入ったことを名前の由来とする。溜間は将軍の執務空間である「奥」に最も近く、臣下に与えられた最高の席であった。
 代々の溜詰を定溜(じょうだまり)・常溜(じょうだまり)・代々溜(だいだいたまり)などといい、会津藩松平家、彦根藩井伊家、高松藩松平家の三家がある。また一代に限って溜間に詰める大名家を飛溜(とびだまり)といい、伊予松山藩松平家、姫路藩酒井家、忍藩松平家、川越藩松平家などがある。さらに老中を永年勤めて退任した大名が、前官礼遇の形で一代に限って溜間の末席に詰めることもあり、これを溜詰格といった。
 初期の段階では定員は4~5名であり、重要事については幕閣の諮問を受けることとなっていた。また儀式の際には老中よりも上席に座ることになっており、その格式は非常に高いものだった。江戸中期以降、飛溜の大名も代々詰めるようになった。また、桑名藩松平家、岡崎藩本多家、庄内藩酒井家、越後高田藩榊原家の当主もほぼ代々詰めるようになる。その結果幕末には定員が15名近くになり、その希少性も褪せて、本来の趣旨は著しく形骸化した。・・・
 <ちなみに、>伺候席(しこうせき)とは、江戸城に登城した大名や旗本が、将軍に拝謁する順番を待っていた控席のこと。殿席、詰所とも。・・・
 大名が詰める席には大廊下席、大広間席、<紹介してきた>溜詰、帝鑑間席、柳間席、雁間詰、菊間広縁詰の七つがあり、それぞれに詰める大名は出自や官位を元に幕府により定められていた。ただし、役職に就任した場合は、その役職に対して定められた席(奏者番ならば芙蓉間、大番頭なら菊間等)に詰めた。
 将軍の執務・生活空間である「奥」から最も近いのは「溜間」次いで「雁間」「菊間広縁」「帝鑑間」と主に譜代大名が詰める席となっており、官位や石高では大廊下や大広間の親藩・外様大名の方が上だが、将軍との親疎では遠ざけられていた。
 大広間席、帝鑑間席、柳間席の大名は「表大名」といわれ、五節句や月次のみ登城した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%BA%E5%80%99%E5%B8%AD

⇒第一に、異国書翰和解用掛が臨時の掛であったらしいこと、何から何への翻訳であるかに応じて必ずしも同じ場所で翻訳作業を行う必要はなかったと考えられること、から、どうやら、(分属されていた)海防掛についても、私の想像したように、同じ場所に詰めていなかった可能性が高まったところ、その背景には、異国書翰和解用掛と同じく、海防掛も臨時の掛という認識であった可能性もありそうですね。
 第二に、幕府は、その「本務」が軍事であるにもかかわらず、「公」教育の中で兵学教育をネグり、その結果、「副務」の行政においても、町奉行の行った司法・警察行政以外はついにアマチュアの域にとどまったように見えることは、これを悲喜劇と言わずして何でしょうか。(太田)

 ・・・ロシアの樺太・エトロフ襲撃事件を機に行われた文化4年の諮問など、「國家之御一大事」への対処決定に当たって、幕府の諸有司に限定せず広く諮問された先例もあるが、今回は全国の諸大名ばかりか、旗本全員に「心底を不残十分に」忌憚なき答申を問う徹底したものであり、この間に提出された建白書には、陪臣や遊女のものまで知られている。

⇒何度も申し上げているように、一層、幕閣、要するに幕府、の責任逃れ意識が昂じてきた、というだけのことですが、それはそれとして、当時、どれくらい、遊女(のうちのしかるべき人々)の評価が現在と異なっていたか、が改めてよく分かろうというものです。(太田)

 しかも、先のオランダ開国勧告の際には「御秘書」とされた外国国書の翻訳が、このアメリカ国書において初めて広く公開され、その「趣意得と被逐熱覧」ようにと達せられた。
 外様大名を含めたすべての大名への意見諮詢によって、幕府と譜代大名・旗本のみで構成された従来の海防体制は、これ以降新たな展開をみせる。」(359~360)

⇒私に言わせれば、これを契機に、幕府は滅亡へと一瀉千里に突き進んでいくわけです。(太田)

(続く)