太田述正コラム#9817(2018.5.11)
<眞壁仁『徳川後期の学問と政治』を読む(その64)>(2018.8.25公開)

 「<古賀>謹堂<(謹一郎)(注138)>が、「洋学」への関心を深めつつあったことは明らかである。

 (注138)「江戸昌平黌官舎にて<生まれる。>・・・天保7年(1836年)大番役、同12年(1841年)書院番として江戸幕府に出仕し、家塾久敬舎を父より引き継ぐ。弘化3年(1846年)31歳で昌平黌(昌平坂学問所)の儒者見習となる。翌年、儒者となり15人扶持。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A4%E8%B3%80%E8%AC%B9%E4%B8%80%E9%83%8E 前掲

⇒「注138」から分かるように、謹堂は、行政官・・正確には、行政官職化していた軍人職ですが・・として10年間勤務した後、儒官に転じているわけです。
 そのことが、謹堂に、同僚儒官達とは一味異なった視座を与えた、と私は見ています。(太田)

 すでに前年12月に儒者見習を仰せ付けられ、<父親>の後を追って弘化4年3月28日に学問所儒者に就任した32歳の謹堂・・・の読書遍歴を見れば、講釈や業務の合間をぬって、昌平坂の官舎で日夜蘭訳本の西洋事情書に耽溺していた姿が窺える。・・・
 地理書・・・『海國圖志<(海国図志)>』<(注139)(コラム#4183、8580、8748、9364)>の受容が、横井小楠をはじめ多くの攘夷論者を「開国」論者へと転向させる契機になったとされている。

 (注139)「林則徐は欽差大臣の時に<英国>人ヒュー・マレーの『世界地理大全』を『四洲志』として編訳させた。阿片戦争後、林則徐はイリに左遷されたが、その際『四洲志』を魏源に与えた。魏源は『四洲志』を基にさらに多くの世界地理の資料を集め、一年後に『海国図志』が完成した。初版は1843年に揚州で出版された。1847年から1848年にかけて増補され60巻本となり、最終的に1852年に100巻本となった。『海国図志』の中で魏源は「夷の長技を師とし以て夷を制す」と述べて、外国の先進技術を学ぶことでその侵略から防御するという思想を明らかにしている。
 ・・・<ところが、>清よりも、むしろ魏源が伝えようとした西力東漸の危機感を真剣に受け止めたのは日本であった。清朝の阿片戦争の敗戦に危機感を募らせた当時の日本では『海国図志』は吉田松陰や佐久間象山らによって読まれ、速やかな体制転換の必要性が日本国内広まっていくことになる。一方、清朝国内では「香港島を与えておけば英夷も満足するであろう」との慢心が根強く、魏源が訴えた改革の必要性が国内に強く認識されることはついになかった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AD%8F%E6%BA%90

 しかし、・・・謹堂の読書歴を覧る限り、少なくとも古賀家にとって視圏の拡大は、<このような>清朝経由の体系的地理書に限定されないことが明らかとなる。・・・
 『海國圖志』などの漢文地理書は、蘭書の翻訳書に接することが出来なかった者にとって、判読可能な外国語漢文で書かれていたがゆえに意味をもった。
 しかし、謹堂の場合、幕府の学問所儒者という立場から、書物奉行の高橋景保や<父親>の門人でもある天文方蛮書和解御用の箕作阮甫<(注140)>ら、蘭学者たちの西洋地理書の翻訳を、筆写本で入手できた。」(411~412)

 (注140)みつくりげんぽ(1799~1863年)。「津山藩医・・・の第三子として美作国西新町(後に津山東町、現在の岡山県津山市西新町)に生まれる。・・・藩の永田敬蔵(桐陰)・小島廣厚(天楽)から儒学を学ぶ一方、文化13年(1816年)には京都に<留学し>、[漢方医の]竹中文輔のもとで3カ年間医術習得にはげんだ。
 ・・・文政6年(1823年)には、藩主の供で江戸に行き、[江戸詰めの津山藩医]<たる蘭方医の>宇田川玄真の門に入り、以後洋学の研鑚を重ねる。
 幕府天文台翻訳員となり、ペリー来航時に米大統領国書を翻訳、また対露交渉団の一員として長崎にも出向く。蕃書調所の首席教授に任ぜられ、幕臣に取立てられた。
 ・・・阮甫の訳述書は99部160冊余りが確認されており、その分野は医学・語学・西洋史・兵学・宗教学と広範囲にわたる。・・・
 阮甫の子孫には有名な学者が多数輩出している。・・・孫に箕作麟祥・・・菊池大麓・・・らが、・・・曾孫に・・・呉茂一らが、曾孫の夫に・・・長岡半太郎・美濃部達吉・鳩山秀夫・末弘厳太郎らがいる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AE%95%E4%BD%9C%E9%98%AE%E7%94%AB
http://www.tsuyama-yougaku.jp/Vol26.html ([]内)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%87%E7%94%B0%E5%B7%9D%E7%8E%84%E7%9C%9F (<>内)
 宇田川玄真(1770~1835年)。「伊勢国安岡家に生まれる。若くして杉田玄白の私塾・天真楼、その弟子大槻玄沢の私塾・芝蘭堂で学び芝蘭堂四天王筆頭と称された。一時杉田玄白の娘と結婚、養子となったが離縁される(若気の至りか放蕩を重ねた故といわれる)。
 寛政9年(1798年)、津山藩医で芝蘭堂の高弟宇田川玄随が亡くなると宇田川家の当主として養子に入りその跡を継いだ。
 のちに・・・幕府から・・・天文台の蘭書(西洋の学術書)翻訳員として招聘され和蘭書籍和解御用方と<なる>・・・。
 また玄真が開いた私塾・風雲堂は医学のみならず、化学、科学、自然哲学など幅広い分野で日本の礎を築いていくことになり蘭学中期の大立者と賞賛された。・・・
 門弟に・・・佐藤信淵、緒方洪庵、・・・箕作阮甫・・・らがいる。」(上掲)

⇒「<父親>の門人でもある・・・箕作阮甫」的な話は、かなり詳細な上掲にも出てこないので、眞壁の勘違いではないでしょうか。
 念のため、彼の漢学の師であった永田敬蔵と小島廣厚のどちらかが、謹堂の<父親>の門人であった可能性も少し調べてみたのですが、永田敬蔵が、阮甫の親戚で、一時、母子家庭となった阮甫が永田宅に身を寄せていた
https://www.city.tsuyama.lg.jp/index.cfm/23,40826,c,html/40826/20120821-135930.pdf
こと、くらいしか分かりませんでした。(太田)

(続く)