太田述正コラム#9825(2018.5.15)
<眞壁仁『徳川後期の学問と政治』を読む(その68)>(2018.8.29公開)

 「安政2<(1855)>年8月晦日に、「突如として洋学所頭取<(注148)>を拝命した古賀謹堂は、・・・箕作阮甫・・・に書翰を送り、洋学所開設に当たって協力を求めた。・・・

 (注148)「頭取<の>・・・語源については、雅楽の演奏における「音頭取り」に由来するという説と「筆頭取締役」の略称に由来するという説がある。・・・頭取の称は、江戸時代前期から見られる。・・・幕末・明治初期に様々な機関の長の名称に使用された・・・例として、1861年(文久元年)7月に長崎に開所した西洋式病院養成所の「頭取」や、同年に幕府が開いた西洋医学所の「頭取」が存在する。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A0%AD%E5%8F%96
 ウィキペディア筆者が、洋学所を例に引かなかったのは不思議だ。

 安政3年1月には、洋学所から蕃書調所へと名称が変更される。・・・
 洋学所・蕃書調所は、天文方の蠻書和解御用の活動を引き継ぐことになるが、その活動の詳細は知られていない。・・・
 しかし、蠻書和解御用で<と同様、>大部の・・・オランダ・・・雑誌翻訳がなされていたと推測される。・・・
 その主な原書雑誌が、・・・挿絵入りの大衆啓蒙雑誌であった。・・・
 この雑誌はイギリスの実用知識普及協会(Society for the diffusion of useful knowledge)という啓蒙団体が発刊する三文雑誌(Penny-Magazine)<(注149)>をモデルにしてい<た>という。・・・

 (注149)1832~45年。賃金労働者向け。初期には20万部を売り、読者は100万人近かった。
https://en.wikipedia.org/wiki/The_Penny_Magazine

⇒軍事書や科学技術書だけ翻訳していた訳ではない点は評価できるものの、翻訳する雑誌の選定を誤ったのではないか、と言いたくなります。
 オランダ商館長あたりの推薦雑誌であったということなのか、それとも、「高級」雑誌は、当時の幕臣たる知識人達の理解能力を超えていたためか、単に、蠻書和解御用時代の「惰性」を引き継いだだけなのか、は定かではありませんが・・。(太田)

 古賀謹堂は、その後、突如として転任させられる。
 この井伊政権倒壊後の文久2(1862)年5月に、謹堂が調所頭取職を去り、同時に蕃書調所から洋書調所へと名称変更されるに至って、洋学学風が「一変し」、西洋社会の文化全体に及ぶようになったとの見解もある。」(433~435)

⇒謹堂の頭取時代のみ、この部局の名称に「蕃」(注150)という字が用いられていた、ということは、恐らく、彼がこの字にこだわったということなのでしょうが、そんなところに、彼の見識のなさが端的に表れています。

 (注150)蕃には、「一、しげる。草木が生い茂る。ふえる。「蕃殖」 二、まがき。かきね。かこい。「蕃屛(ハンペイ)」類藩 三、えびす。未開の異民族。「蕃境」「蕃人」」の三つの意味があるが、蕃書調所の場合、三番目の意味で、要は、蠻書和解御用の「蠻(蛮)」と同じだろう。

 清の「中体西用/洋務運動」が「洋」という価値中立的な言葉を用いていたことから、「洋学所」(前出)や「洋書調所」の「洋」は、これに倣ったのではないかと想像されるところ、謹堂の欧米観は、同時代の清の先覚者達と比べても「遅れ」ていた、と言わざるをえません。
 さすがに、幕閣も、眉を顰め、彼を更迭した、と思いたいところです。
 とまれ、「学風が「一変し」、西洋社会の文化全体に及ぶようになった」のは、上出のオランダ大衆雑誌の翻訳などは、「文化」の紹介の名に値しない、という、正しい判断が下されたということだと思いますが、いかんせん時期が遅過ぎた、と言わざるをえません。(太田)

(続く)