太田述正コラム#9861(2018.6.2)
<『西郷南州遺訓 附 手抄言志録遺文』を読む(その3)>(2018.9.16公開)

 (2)内容

  一、為政者の基本的姿勢と人材登用

一条:廟堂(びょうどう)に立ちて大政(たいせい)を為すは天道を行ふものなれば、些(ちつ)とも私を挟(はさ)みては済まぬもの也。いかにも心を公平に操(と)り、正道を蹈(ふ)み、広く賢人を選挙し、能(よ)く其の職に任(た)ふる人を挙げて政柄を執らしむるは、即ち天意也。
 夫(そ)れ故(ゆえ)真に賢人と認る以上は、直に我が職を譲る程ならでは叶(かな)はぬものぞ。
 故に何程国家に勲労有るとも、其の職に任へぬ人を官職を以て賞するは善からぬことの第一也。
 官は其の人を選びて之れを授け、功有る者には俸禄を以て賞し、之れを愛(めで)し置くものぞと申さるるに付、然らば『尚書』<(注8)>仲〇<(兀偏に虫)(注9)>(ちゆうき)之誥(こう)に「徳懋(さか)んなるは官を懋んにし、功懋んなるは賞を懋んにする」と之れ有り、徳と官と相ひ配し、功と賞と相ひ対するは此の義にて候ひしやと請問(せいもん)せしに、翁欣然(きんぜん)として、其の通りぞと申されき。

 (注8)「五経の一である『書経』の古名」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%9A%E6%9B%B8
 書経は、「政治史・政教を記した<支那>最古の歴史書。堯舜から夏・殷・周の帝王の言行録を整理した演説集である。また一部、春秋時代の諸侯のものもあり、秦の穆公のものまで扱われている。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9B%B8%E7%B5%8C
 (注9)「仲〇」<は、>・・・湯王の臣下で、左相となった人・・・。事績として、湯王に「夏の桀王は悪逆で徳も無い為に、民衆は苦しんでいます。」と上奏し、これを諸国や各地の民衆に布告したとされてい<る>。書経にある原文では「有夏昏徳 民塗炭墜」となっており、民衆が悪政によって苦しめられるという意味の故事成語である「塗炭の苦しみ」の語源となる言葉を言った人とされ<る>。」
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q14143225684
 湯王は、「殷の開祖。殷の系譜では大乙(または天乙)という。前17世紀末ころ夏王朝の桀を滅ぼして天子となり,亳(はく)(河南省偃師(えんし)県)に都したという。伊尹(いいん)などの賢臣を用い,善政を行ったとされる。」
https://kotobank.jp/word/%E6%B9%AF%E7%8E%8B-103150

⇒漢籍中の故事を引用しつつ、講釈を垂れる、という陳腐なスタイルは、衒学的かつ道学的であって、私は好みません。(太田)

二条:賢人百官を総(す)べ、政権一途に帰し、一格の国体定制無ければ縦令(たとい)人材を登用し、言路を開き、衆説を容るるとも、取捨方向無く、事業雑駁(ざつばつ)にして成功有るべからず。
 昨日出でし命令の、今日忽ち引き易ふると云ふ様なるも、皆統轄する所一ならずして、施政の方針一定せざるの致す所也。

⇒中央集権化と法治主義のススメであり、こんなものは、誰でもできる主張です。(太田)

三条:政の大体は、文を興し、武を振ひ、農を励ますの三つに在り。
 其の他百般の事務は皆此の三つの物を助(たすく)るの具也。
 此の三つの物の中に於て、時に従ひ勢に因り、施行先後の順序は有れど、此の三つの物を後にして他を先にするは更に無し。

⇒大昔、私は、この書を読むのを、このあたりで止めたのではなかったでしょうか。
 「文」「武」の奨励はまことに結構なのですが、この2つと「農」とを並列で特出しする、西郷の「農」事大主義的な感覚はいかがなものかと思います。
 「農」事大主義と言えば、日本書紀の中で、崇神天皇の詔とされるものに、「農天下之大本也」という有名な記述が出てきます。
http://mmm4382.hatenablog.com/entry/2017/05/17/194819
 しかし、そのような「農」に係る記述は、「<支那>では伝統的に土地に基づかず利の集中をはかる「商・工」よりも土地に根ざし穀物を生み出す「農」が重視されてきた<ところ、>商人や職人に自由に利潤追求を許せば、その経済力によって支配階級が脅かされ、農民が重労働である農業を嫌って商工に転身する事により穀物の生産が減少して飢饉が発生し、ひいては社会秩序が崩壊すると<の>考え<を、>・・・儒教<が>・・・理論化した」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A3%AB%E8%BE%B2%E5%B7%A5%E5%95%86
ことの影響を受けたものである、と思われます。
 そこまで遡らないとしても、西郷の言い回しが、「豊臣政権による太閤検地以後・・・<に>導入<され、>・・・徳川政権(江戸幕府)<が>それを土台として日本全国の支配を確立させた・・・石高制」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E9%AB%98%E5%88%B6
なる「農」事大主義を引きずったものであるのは間違いないのであって、そんな感覚は、甚だ時代遅れであったと言わざるをえません。
 では、「農」の代わりに何を持ち出すべきだったか?
 「工」では、あたかも「農」を切り捨てたようで好ましくありませんから、さしずめ、私なら、「殖産興業」の「産」ですかね。(太田)

(続く)