太田述正コラム#9883(2018.6.13)
<『岡正雄論文集 異人その他 他十二篇』を読む(その1)>(2018.9.27公開)

1 始めに

 なかなか、英語の本で取り上げるべきものが出現しないので、引き続き、邦書を取り上げることとし、表記の本(編者大林太良(注1)。岩波文庫1994年11月)を選びました。

 (注1)おおばやしたりょう(1929~2001年)。東大経済学部卒、同大東洋文化研究所助手、フランクフルト大、ウィーン大、ハーヴァード大で民族学を学び、ウィーン大で博士号、東大教養学部講師、助教授、教授、国立民族学博物館併任教授、東京女子大教授、そして同年に北海道立北方民族博物館館長。「民族学と比較神話学の研究から出発して、日本の神話をアジア諸国の神話と比較しつつ、神話には伝播説と普遍心性説とがある中で、ユーラシア大陸の古代における交流を証明することで、有史以前の広範な伝播の仮説を打ち立てた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%9E%97%E5%A4%AA%E8%89%AF

 目的は、この本の内容自体の質が高いかどうかはともかくとして、この本に出てくる内容に近い内容の話を、中野学校(「『秘録陸軍中野学校』を読む」シリーズ(コラム#5768~)参照)の学生達が、この本の著者である岡正雄から直接講義を受けたり、岡の本・著作を読ませられたりして身に着けた(注2)、ということから、岡が唱えたであろう説を知っておきたい、というところにあります。

 (注2)「中野学校・・・では尾行、変装術、錠前の開錠術、柔術などスパイ養成のための講義と並び、岡正雄を招いて民族政策の講義なども行われた。岡は<同学校設立者の>・・・岩畔豪雄・・・に招かれ中野学校で3年間にわたり講義を行うなど<岩畔と>親密な間柄だった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A9%E7%95%94%E8%B1%AA%E9%9B%84

 で、岡正雄(1898~1982年)についてですが、彼は、下掲のような人物です。↓

 「長野県東筑摩郡松本町(現松本市)生まれ。旧制松本中学(現・長野県松本深志高等学校)、第二高等学校を経て、1924年、東京帝国大学文学部社会学科を卒業。・・・東京女子歯科医学専門学校のドイツ語教師を経て、1925年(大正14年)から柳田國男とともに民族学雑誌『民族』を共同編集し、岡書院から刊行した(〜1929年)。1929年(昭和4年)、渋沢敬三の援助を得てオーストリアへ渡り、ウィーン大学のヴィルヘルム・シュミットのもとで民族学を学ぶ。1933年(昭和8年)に同大学より博士号を授与される。
 1935年(昭和10年)に帰国し、1937年(昭和12年)には日本民族学会が主催した千島樺太調査に随行。1938年(昭和13年)、ウィーン大学が設立した日本学研究所の所長として招かれ、戦況の悪化する1940年(昭和15年)まで再びウィーンに滞在した。帰国後は文部省直轄の民族研究所設立に奔走し、1943年(昭和18年)の同研究所発足時には総務部長として従事。・・・
 ウィーン大学へ提出した博士論文『古日本の文化層』は、当時のウィーン学派民族学の手法をベースに、先史・考古学、言語学、宗教学、形質人類学、神話学の手法を併せて日本の基層文化を論じた」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A1%E6%AD%A3%E9%9B%84

 残念ながら、岡の主著とも言うべき博士論文の邦訳は出ておらず、比較的容易に入手できるものが、表記のアンソロジーであった、というわけです。

2 岡正雄論文集 異人その他 他十二篇

 (1)日本民族文化の形成

 「日本民族ないし民族文化の起源・系統。発展の問題につき、従来二つの立場から諸説が提出されている。
 その一つは日本民族は、石器時代少なくとも新石器時代、いわゆる縄文文化の創初以来、すでに日本人としてこの日本列島に居住し、すべての石器時代文化を創造し、これを担い発展させてきたとする進化主義的な立場をとるものである。
 その二は、日本民族を形成されたものとしてとらえんとする立場、すなわち石器時代以来、いくつかの異質文化を持った民族、あるいは種族が日本島に渡来し、これらの重層・混合によって形成されたと考える歴史主義的な、比較民族学的立場である。
 一が、新しい文化の出現を内的な自生的な発展の結果となすのに対し、二は、かかる内的発展によるもののほかに、民族移動・伝播による混合・接触の結果、生まれる場合の多いことを指摘し、いわゆる外的発展の重要性を説く立場である。
 私はこの第二の立場をとる。」(5)

⇒この本に収録されている個々の論文が、それぞれいつ書かれたものかが示されていないのですが、江戸時代においては、「先住民と渡来人の交替があったとする人種交替説が主流で、日本人は中国人や朝鮮人など大陸のアジア人と同種であると認識されていた。当時、海外の著名人の著作物も同様の認識で書かれている。」という状況が、1940年代末、つまりは戦後直後まで続き、縄文時代には既に大陸のアジア人と同種の渡来人が日本列島の大部分に居住していて、1916~21年頃に、縄文時代から弥生時代へと変遷したという認識が始まったものの、それは、内生的な発展であった、というのが通説だった
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%A5%E7%94%9F%E6%99%82%E4%BB%A3
・・日支が同文同「種」ってそういう意味だったんですね。・・ところ、この「日本民族文化の形成」が書かれたのが、1940年代までであったのであれば、岡は、この通説に異議申し立てを行った、ということになります。(太田)

(続く)