太田述正コラム#9975(2018.7.29)
<井上寿一『戦争調査会–幻の政府文書を読み解く』を読む(その6)>(2018.11.13公開)

 「事務局が1946年1月9日に作成した「戦争調査会設置経緯」はつぎのような基本方針を掲げている。
 「・・・戦争<を>・・・拡大遷延せしめた責任は<もちろん>であるが戦争を傍観し敗戦を拍車した者の責任も問わるべきこと」。
 戦争調査会は傍観者の不作為責任まで追及する意気込みだった。・・・
 幣原にとって戦後日本が回帰すべきは1920年代の「デモクラシー」と協調外交の日本だった。
 別の言い方をすれば、第一次大戦後の日本は、政党内閣と軍縮・平和外交の立憲君主国だった。
 幣原は二度、政党内閣における外交官出身の外相を務めてワシントン、ロンドン両海軍軍縮条約の締結に当たった。
 中国に対しては内政不干渉主義の下で経済提携を進めた。
 幣原は日本の平和的発展をめざした。

⇒しかし、中国国民党「政権」も、諸列強も、それを許してくれなかったわけですが・・。(太田)

 幣原にとって日本の平和的発展を阻害したのは軍部だった。

⇒こういう類のものを倒錯的論理と呼びます。(太田)

 その軍部が敗戦によって強制的に排除されれば、1920年代の「デモクラシー」と協調外交の日本が復活する。

⇒陸軍関係者を除く、当時の日本の選良達の間に存在していたところの、このような、単細胞的な発想が、占領当局によって押し付けられた憲法第9条の無抵抗な受容をもたらしたわけです。(太田)

 戦後の日本は戦前と同様の立憲君主国だった。
 幣原が憲法改正に消極的だったことはよく知られている。・・・
 第一回総会で異彩を放っていたのが渡辺錬蔵である。
 戦争は不可避だったのか。
 この問題に対して渡辺は答えて言う。
 「私共は簡単に避けられたと思うのであります」。
 渡辺の議論の仕方で注目すべきは、政治外交の観点ではなく、「思想、文化の中で」回避可能だったと主張している点である。
 渡辺の示唆するところは何か。
 第一次世界大戦後の日本において、「デモクラシー」思想が台頭した。
 「デモクラシー」思想とはより正確にはアメリカのデモクラシー思想である。

⇒ということは、渡辺は、大統領制を是とし、議院内閣制を非とした、ということのようですが、これでは、いかなる形であれ、天皇制も否定する、ということにならざるをえませんが・・。(太田)

 アメリカのデモクラシー思想は日本の国内政治体制に影響を及ぼす。
 政友会と憲政会・民政党の二大政党制が確立する。

⇒日本の二大政党制は、議院内閣制と裏腹の関係にあったわけで、このような渡辺の「分析」は誤りです。(太田)

 さらにアメリカのデモクラシー思想の流入はアメリカの大衆消費文化をともなっていた。

⇒米国流の大統領制民主主義が、即、経済成長と中産階層の拡大をもたらす、のであれば、中南米諸国が、独立後、困難に満ちた歴史を歩んで現在に至ることはなかったでしょうし、そもそも、米国自身が大恐慌とその後遺症に苦しめられることもなかったことでしょう。(太田)

 日本の思想と文化のアメリカ化を前提とすれば、戦争は「簡単に避けられた」。
 渡辺はそう言っている。

⇒こう語った渡辺はもちろんですが、この渡辺の発言を嬉々として引用した井上もまた、果たして精神は確かなのでしょうか。(太田)

 今日の研究水準に照らせば、日米戦争は直前まで回避可能だったことが明らかになっている。

⇒日本がハルノートを受け入れれば、対米英戦争の回避は可能だったでしょうが、それは、支那全体のソ連保護国化、と、アジア・アフリカにおける、欧米諸国、就中、英国、の植民地群の引き続きの維持、をもたらしたことでしょう。
 そんなことは、大恐慌の後遺症からの完全回復と世界覇権国の座の英国からの完全奪取を目指していたところの、米国の国益にも反したはずですが、いずれにせよ、井上の、かかる帰結に対する所見を聞かせて欲しかったところです。(太田)

 しかしそれは外交史・国際政治史の知見である。
 思想史や文化史の観点からは日米対立の方が強調される。
 対する渡辺はこの観点からも戦争回避の可能性を指摘している<わけだ>。」(34~36、39)

(続く)