太田述正コラム#9977(2018.7.30)
<井上寿一『戦争調査会–幻の政府文書を読み解く』を読む(その7)>(2018.11.14公開)

 「・・・もう一つ、渡辺のつぎの発言も注目に値する。
 「『オッタワ』会議<(注12)>とか、英帝国経済『ブロック』会議で日本をいじめるとか云う風なことが、私共から見ますと正反対と云っても宜いような誤解があるのであります」。・・・

 (注12)「1932年7月・・・カナダのオタワで開かれた<大英>帝国経済会議。<英>本国とカナダ、オーストラリア、ニュージーランド、南アフリカ、アイルランドの各自治領、およびインド、南ローデシア植民地の代表が出席した。会議の目的は、世界恐慌にあえぐ<大英>帝国の経済再建のため、帝国の経済的紐帯をより強固にすることにあった。議題は、一般通商問題から通貨・金融問題、特恵関税協定問題などにわたった。成立した帝国特恵関税協定は、帝国外の国々には帝国内より高い関税率を設定し、一種のブロック経済圏を実現した・・・
 このような帝国特恵関税圏の設定は、<米国>をはじめ他の列強国の保護主義を助長したため、世界経済のブロック化を促進し、第二次世界大戦の遠因をつくることとなった。」
https://kotobank.jp/word/%E3%82%AA%E3%82%BF%E3%83%AF%E4%BC%9A%E8%AD%B0-452878

 「正反対」とまで言っている。
 一つは日本がブロック経済ではなく開放的な通商貿易体制の国だったことである。
 もう一つは日本の方が世界経済のブロック化に挑戦していたということである。

⇒意味不明です。(太田)

 実際のところ1930年代の日本は、・・・東アジアの経済ブロックに閉じこもることなく、アフリカや中南米などの地球の反対側にまで、市場の開拓を進めていた。

⇒経済ブロックに入っていない諸国に対し、輸出する自由は、日本だけでなくあらゆる諸国にあったはずです。(太田)

 日本の集中豪雨的な輸出は・・・金額ベース(と数量ベース)で1928年を指数100とすれば、・・・1934年110.1(163.4)、1935年126.7(185.3)、1936年136.6(202.5)、1937年161.0(210.7)。

⇒当時の日本は、ソ連に次ぐ高度経済成長下にあったので、輸出の対GDP比が低下していないかどうかが問題でしょう。
 また、「東アジアの経済ブロック」諸国・地域への輸出が爆発的に伸びていた可能性だってあります。(太田)

 別の数字もある。
 1933年前期の輸出額を前年同期と比較すると、日本は中米で240パーセント、南米で220パーセントの急激な増加だった。

⇒中南米の数字だけを持ち出されても困ってしまいます。(太田)

 渡辺の指摘は近代日本の国際通商秩序をめぐるつぎのような研究動向と符合する。・・・
 <地理的意味での欧州諸>本国の対アジア植民地経済『ブロック』化政策は、日本にたいして徹底的に『排他』的であったのではなく、むしろ日本製品の輸入取引を追認し、植民地の第一次産品の対日輸出拡大を希求する点で、『開放』性を有していたのである」(籠谷直人<(注13)>アジア国際通商秩序と近代日本』<(注14)>[2000年])

 (注13)1959年~。「大阪市立大学経済学部卒・・・一橋大学大学・・・日本経済史専攻博士課程単位取得退学。一橋大学経済学部助手、愛知学泉大学経営学部講師、名古屋市立大学経済学部助教授、京都大学人文科学研究所日本部助教授等を経て、2006年から京都大学人文科学研究所人文学研究部教授。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B1%A0%E8%B0%B7%E7%9B%B4%E4%BA%BA ([]内も)
 (注14)「1880年代において日本が貿易面では欧米のみならず華僑を中心としたアジアの経済主体による通商網に依存(従属)していたと論ぜられる。その上で、90年代以降、華僑通商網に対抗し自らアジア国際通商秩序をつくりだしていく姿が描かれる。後半部の議論の中心は1930年代になるが、そこでは再び日本の貿易が華僑や印僑などの経済主体による通商網に依存(従属というわけではないが)していくことが論ぜられる。・・・
 1930年代の不況の中で通説では欧米諸国はブロック経済の政策を採り、それが日本を経済的に孤立させ、侵略につながったと論じられる。しかし、実際には日本と蘭印、英印等との貿易関係は続いており、むしろ日本は華僑や印僑等への依存を深めていたのであった。オランダや<英国>といったそれらの植民地の本国も、日本からの輸入量の設定を行おうとしたのは事実だったが、それは日本商品を排除しようとしたのではなく、一定程度、現地の商人(=華僑とか)にもそれを担わせることにより、本国への献金を増加させようとしたのであった。従って、後の日本政府による日米開戦の決断の理由を単純に経済的孤立に求めることはできない。」
http://historie.jugem.jp/?eid=30

⇒英国等は、国を裨益させるのを目的とするところの、欧州文明諸国のかつての重商主義的管理貿易を採用したということであり、非本国人たる買弁的商人達をあえて使ったのは、彼らを反独立志向勢力として篭絡しようとしたからでしょう。
 そんなものを、日本の経済人達や日本の政府が、日本に敵対するものと受け止めざるをえなかったのは当然です。(太田)

 以上要するに、渡辺は1930年代のブロック経済に関して先駆的な理解を示していた。
 経済学者としての高度な専門知識を持っていたことを割り引いて考慮しても、渡辺の先見性は評価されるべきだろう。
 渡辺の指摘をユまえれば、1930年代の世界経済のブロック化にもかかわらず、日米戦争は回避可能だったことになる。」(40~41)

⇒ブロック経済がアナクロだったからこそ、まだ、日米は参戦前でしたが、第二次世界大戦中の「1941年8月・・・に行われた大西洋会談において、<米>大統領のフランクリン・<ロ>ーズベルトと、<英>首相のウィンストン・チャーチルによって調印された・・・大西洋憲章・・・<の第4項で、わざわざ>自由貿易の拡大<が謳われた>」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E8%A5%BF%E6%B4%8B%E6%86%B2%E7%AB%A0
のです。(太田)

(続く)