太田述正コラム#10039(2018.8.30)
<井上寿一『戦争調査会–幻の政府文書を読み解く』を読む(その38)>(2018.12.15公開)

 「・・・1946年7月11日の戦争調査会事務局における・・・堀悌吉<(注51)>・・・の講演と質疑応答のなかで、つぎの三点がロンドン海軍軍縮問題を考える前提として、注目に値する。

 (注51)1883~1959年。旧杵築(きつき)藩[(親藩)]の地に生まれ、海兵(首席卒業)、海大。「1930年(昭和5年)のロンドン海軍軍縮会議において、補助艦の比率は米英に対し7割は必要という艦隊派の意見が海軍部内では根強かった。軍務局長であった堀は、英米に対しては不戦が望ましいという意見をもち、会議を成立させるべきという立場で次官の山梨勝之進を補佐した(条約派)。結局は米国と日本の妥協が成立し、日本は対米比6割9分7厘5毛でロンドン海軍軍縮条約に調印した。しかし艦隊派が台頭する海軍内で堀の立場は弱くなり、海軍中央から遠ざけられることになった。第3戦隊司令官、第1戦隊司令官を歴任し1933年(昭和8年)に海軍中将に昇進したが、翌1934年(昭和9年)、艦隊派が主動したいわゆる大角人事により予備役に編入された。・・・
 1936年(昭和11年)1月、政府は堀が尽力したロンドン海軍軍縮条約からの脱退を通告する。日本は太平洋戦争の一因にもなった無期限軍備拡張の時代に突入した。 」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A0%80%E6%82%8C%E5%90%89
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B5%E7%AF%89%E8%97%A9 ([]内)
 「将来の日米戦争での決戦は日本近海での艦隊決戦になると日米とも予想していたが、日本側は太平洋を横断してくる<米>艦隊を途中で潜水艦・空母機動部隊・補助艦艇によって攻撃し(『漸減邀撃』)、決戦海域に到着するまでに十分に<米>艦隊の戦力を削るという対抗策を取ろうとした。艦隊決戦で日本艦隊が勝利できるほどに<米>艦隊の戦力を削るためには、日本側の補助艦艇の対米比率が7割は必要というのが日米で共通した見解であった。このため、日本側は7割を主張し、<米>側は6割を主張した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%B3%E6%B5%B7%E8%BB%8D%E8%BB%8D%E7%B8%AE%E4%BC%9A%E8%AD%B0

 第一に海軍はワシントン海軍軍縮条約を受容していた。
 軍縮への海軍の反発は顕在化していなかった。・・・
 第二にロンドン海軍軍縮条約の時の海相財部彪<(注52)>は、ワシントン海軍軍縮条約の時の海相加藤友三郎<(注53)>とは異なって、強力なリーダーシップに欠けていた。

 (注52)たからべたけし(1867~1949年)。日向国都城[(薩摩藩)]生まれで海兵(首席卒業)、海大。妻は山本権兵衛の長女。「海軍次官を務め、・・・加藤友三郎内閣で海軍大臣となり、その後、第2次山本内閣、加藤高明内閣、第1次若槻内閣、浜口内閣の4内閣において海相を務める。昭和5年(1930年)、ロンドン海軍軍縮会議において若槻禮次郎らとともに全権となり、同条約に調印した。しかし海軍軍令部はこれに著しく不満で、犬養毅や鳩山一郎らが率いる政友会と協力し、同会議における浜口内閣の行為は統帥権干犯にあたると攻撃した(統帥権干犯問題)。同条約が批准された翌日に海相を辞任。財部はこのことが原因で予備役に編入され、実質的に引退することとなる。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B2%A1%E9%83%A8%E5%BD%AA
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%83%BD%E5%9F%8E%E5%B8%82 ([]内)
 (注53)1861~1923年。「広島藩士・・・の三男として広島城下大手町(現在の広島市中区大手町)に生まれる。」広島藩校、海兵、海大。「海軍次官、呉鎮守府司令長官、第一艦隊司令長官を経て、1915年(大正4年)8月10日、第2次大隈内閣の海軍大臣に就任。同年8月28日、海軍大将に昇進。以後、加藤は寺内・原・高橋と3代の内閣にわたり海相に留任した。・・・
 1921年(大正10年)のワシントン会議には日本首席全権委員として出席。・・・
 当時の海軍の代表的な人物であり「八八艦隊計画」の推進者でもあった・・・が、米国発案の「五五三艦隊案」を骨子とする軍備縮小にむしろ積極的に賛成した・・・
 ・・・加藤は、海軍省宛伝言を口述し、堀悌吉中佐(当時)に次のように筆記させている。
 国防は軍人の専有物にあらず。戦争もまた軍人にてなし得べきものにあらず。……仮に軍備は米国に拮抗するの力ありと仮定するも、日露戦争のときのごとき少額の金では戦争はできず。しからばその金はどこよりこれを得べしやというに、米国以外に日本の外債に応じ得る国は見当たらず。しかしてその米国が敵であるとすれば、この途は塞がるるが故に……結論として日米戦争は不可能ということになる。国防は国力に相応ずる武力を備うると同時に、国力を涵養し、一方外交手段により戦争を避くることが、目下の時勢において国防の本義なりと信ず。・・・
 1922年(大正11年)6月12日、加藤友三郎内閣が発足した。・・・
 この時期、陸軍でも、将兵・馬匹の整理・縮小、在営期間を短くするなど、兵役期間の短縮などが図られた。当時の陸軍大臣であった山梨半造の名をとって山梨軍縮といい、1922年(大正11年)8月と1923年(大正12年)4月の2度にわたって実行にうつされた。・・・
 1923年(大正12年)5月15日、ワシントン会議の後始末が一応終わったことなどから、加藤は自身が兼任していた海軍大臣として新しく財部彪を起用し・・・たが、8月24日、首相在任のまま大腸ガンの悪化で・・・臨終を迎えた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%A0%E8%97%A4%E5%8F%8B%E4%B8%89%E9%83%8E

⇒その出自や係累から、当然、島津斉彬コンセンサス信奉者であってしかるべき財部に、その形跡・・例えば、八八艦隊推進といった類の言動・・がなく、出自等から同コンセンサス信奉者でなくて当然であった加藤友三郎と同様、軍縮に勤しんだ、というのですから、同じ頃の陸軍に比して、海軍では、同コンセンサスが風化してしまっていた可能性が大です。
 彼らは条約派だとして、では、同じ海軍でも、軍縮諸条約締結に反対したところの、艦隊派はどうだったのでしょうか。
 そのあたりは、今後の検討課題にしたい、と思います。(太田)
 
 加藤は首席全権でもあった。
 しかしロンドンの時の首席全権は元首相で民政党の若槻礼次郎だった。・・・
 <ちなみに、>財部は親政党色が強い海相として、海軍の一部から忌避されていた。」(143~145)

⇒下掲↓のような事情があったようですから、井上の筆致は、財部を不当に貶め、読者に誤解を生じさせるものです。
 「日本側は若槻禮次郎元総理を首席全権、斎藤博外務省情報局長を政府代表として派遣、また<英国>もマクドナルド首相、<米国>もスティムソン国務長官を派遣して交渉に当たらせた。先のジュネーヴ会議<(注54)>では軍人を主としたため高度な政治的判断による妥協が望めなかったことを反省しての人事だった。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%B3%E6%B5%B7%E8%BB%8D%E8%BB%8D%E7%B8%AE%E4%BC%9A%E8%AD%B0 (太田)

 (注54)「1927年6月20日から8月4日にかけてスイスのジュネーヴで開かれた、<米英日の>補助艦の制限に関する国際軍縮会議・・・フランスとイタリアも招聘されたが、両国は国際連盟における交渉を優先させるとして出席を辞退している。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A5%E3%83%8D%E3%83%BC%E3%83%96%E6%B5%B7%E8%BB%8D%E8%BB%8D%E7%B8%AE%E4%BC%9A%E8%AD%B0

(続く)