太田述正コラム#10051(2018.9.5)
<井上寿一『戦争調査会–幻の政府文書を読み解く』を読む(その41)>(2018.12.21公開)

「・・・ロンドン海軍軍縮会議が成果を得なかったとしても、交渉過程で生まれた日米英の協調は、つづいただろう。

⇒エー! そんなバカな。典拠は?(太田)

 軍縮条約がなくても軍事費は削減されたにちがいない。

⇒エー! そんなバカな。典拠は?(太田)

 そうだとすれば・・・国内政治を犠牲にしてでも・・・浜口内閣が強行する必要はなかった。
 それでもロンドン海軍軍縮条約は批准される。
 この時、日本は第一次大戦後の「平和とデモクラシー」の頂点に達した。
 しかし成功の裏側に戦争への種子が蒔かれ<たのだ>。・・・
 ロンドン海軍軍縮条約の批准の翌1931(昭和6)年9月18日、満州事変が勃発する。・・・
 当時の首相は、前年にロンドン海軍軍縮会議の日本全権を務めた若槻礼次郎である。
 若槻の民政党内閣は、・・・野党の政友会と協力内閣を作って、事変不拡大をめざした。・・・

⇒若槻もアングロサクソン崇拝者(注59)で、経済危機下にあった英国が8月24日に挙国一致内閣を作った
https://en.wikipedia.org/wiki/Ramsay_MacDonald#1931_general_election
のを真似ようとしたのでしょう。

 (注59)若槻には、ロンドン軍縮会議の時に加えて、「1907年4月 – 政府財政委員としてロンドンおよびパリに駐在。1908年7月 – 第二次桂内閣の桂首相兼蔵相の下の大蔵次官に再任され、就任のためロンドンから帰朝。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8B%A5%E6%A7%BB%E7%A6%AE%E6%AC%A1%E9%83%8E
という、英国滞在経験がある。

 この英国の政権の財政や軍事政策を調べようと思ったのですが、よく分かりませんでした。
https://en.wikipedia.org/wiki/National_Government_(1931)
どなたか調べていただけるとありがたい。
 緊縮財政・軍縮じゃなかったはずだと思っているのですが・・。(太田)

 <ちなみに、>協力内閣を志向する内大臣牧野伸顕と単独内閣を志向する西園寺公望のふたりのあいだで権限争いがあった<ところ、>・・・最新の研究で・・・西園寺も条件付きながら、協力内閣を容認していることが明らかになっている。

⇒牧野は、父親が大久保利通であるだけに、島津斉彬コンセンサス信奉者であった可能性が高く、二大政党の「アングロサクソン的」政争を苦々しく思っていたのではないでしょうか。(太田)

 それなのになぜ協力内閣構想は実現しなかったのか。・・・
 蔵相の・・・井上準之助・・・が緊縮政策を優先させて・・・積極政策<の>・・・政友会<との>・・・協力内閣構想に反対だったことはよく知られている。・・・
 注目すべきは民政党の中軸を荷う・・・江木翼<(注60)>・・・の反対論である。・・・

 (注60)えぎたすく(1873~1932年)。「現在の岩国市・・・に酒造業<者>・・・の三男として生まれる。山口高等中学校・・・を経て、東京帝国大学法科大学英法科・・・を卒業し、大学院に進学<後>・・・内務省に入省・・・1912年(大正元年)第3次桂内閣で内閣書記官長に就任。その後、1914年(大正3年)の第2次大隈内閣、1924年(大正13年)の第1次加藤高明内閣でも書記官長を務め憲政会、立憲民政党系の官僚政治家として台頭した。この間に、・・・貴族院議員に勅選され・・・法学博士号を受けている。
 1925年(大正14年)第2次加藤高明内閣の司法大臣となり、第1次若槻内閣でも留任した。1931年(昭和6年)の第2次若槻内閣でも鉄道大臣として入閣し、民政党の歴代総裁からの信任が厚く「民政党の知恵袋」と評され、同党の有力な総裁候補であったが、病のため辞職した。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%9F%E6%9C%A8%E7%BF%BC

 協力内閣が成立すれば、首相のポストは野党に渡す予定だった。
 協力内閣の首相は政友会総裁の犬養ということになる。
 一年前にロンドン海軍軍縮条約に反対していた犬養に満州事変の不拡大ができるはずはない。
 江木や民政党の側がそのように考えたとしても無理はなかった。・・・
 <しかも、>犬養にとって協力内閣の目的は、国内の危機(クーデタ)に対応することだった。
 民政党の側が満州事変の不拡大を掲げない犬養を信用するのはできない相談だった。」(149、152~153、155~157)

⇒あのご時世に、民政党が、依然、(党利党略ではなく、)「真面目」に緊縮財政・軍縮にこだわっていた倒錯性が私には信じられません。
 この民政党内閣が満州事変で倒れ、1931年12月に犬養の政友会内閣ができ、日本は積極財政・軍拡に転じる
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8A%AC%E9%A4%8A%E6%AF%85
わけですが、犬養は島津斉彬コンセンサス信奉者であった(コラム#9902)ことから、この政策もまた、(党利党略ではなく、)「真面目」に打ち出されたものであったはずです。
 そんな犬養が、1932年の五・一五事件で、島津斉彬コンセンサス信奉者たる青年将校達に殺されてしまう(上掲)のですから、ひどい内ゲバ的とばっちりを食ったものです。
 これは、1936年の二・二六事件における、(同じく島津斉彬コンセンサス信奉者の)渡辺錠太郎の青年将校達による殺害と並ぶ、内ゲバとばっちり殺害だと言えるでしょうね。(太田) 

(続く)