太田述正コラム#10053(2018.9.6)
<井上寿一『戦争調査会–幻の政府文書を読み解く』を読む(その42)>(2018.12.22公開)

 「民政党内でもっとも積極的な協力内閣論者だった安達謙蔵内務大臣は、若槻の翻意を責めた。・・・

⇒安達は、「過激」な島津斉彬コンセンサス信奉者のはず(コラム#9902)なのに、どうして、民政党に加わっていたのでしょうね。
 ただ、少なくとも、ここでは、彼が、同じく、熱烈な島津斉彬コンセンサス信奉者であったところの、犬養のために民政党内で動いていたように思えます。(太田)

 若槻<は>食言を認め<ているが、それで>済むような問題ではなかった。
 協力内閣構想に執着して、安達は辞表の提出を拒みつづけた。
 ここに閣内不一致を来たし民政党内閣は崩壊した。
 民政党内閣に代わって犬養の政友会内閣が成立する。

⇒文字通り、安達は、献身的「努力」の結果、協力内閣どころか、犬養を首班とする政友会単独内閣の成立をもたらしたわけです。(太田)

 犬養内閣は積極政策一本槍で恐慌克服を最優先させる。
 他方で満州事変対策に<は>なす術(すべ)がなかった・・・

⇒そうではなく、私見では、犬養は、積極的に、陸軍内の、杉山らの島津斉彬コンセンサス信奉者達・・というか、陸軍内の、横井小楠コンセンサス(のみ)信奉者達をも含めたところの、陸軍コンセンサスと言ってもよいもの・・のために積極的に協力した、はずなのです。
 五・一五事件の時、総理公邸で襲撃された犬養が「話せば分かる」と言い、また、瀕死の重傷を負った後、「いま撃った男を連れてこい。よく話して聞かすから」と述べた
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8A%AC%E9%A4%8A%E6%AF%85
のを思い出してください。(太田)

 渡辺<に言わせると、>・・・リットン報告書は満州国の存在を否認していると「誤解」して、日本は「勝手に一人で腹を立てた」。
 リットン報告書の現実主義的な深謀遠慮に鈍感な反応を示した日本は、みすみすチャンスを逃した<、と>。
 リットン報告書の下で日中が折り合うのでなければ、国際連盟はこの問題から手を引くようになる。・・・
 日本政府は、1932(昭和8)年3月27日、国際連盟からの脱退を・・・通告する。・・・
 日本にとって深刻だったのは、国際連盟脱退にともなう国際的な孤立よりも日中二国間関係の修復に失敗したことだった。・・・
 満州事変は中国本土への戦線の拡大を意図していなかった。
 現地軍は対ソ戦に備えて、満州国を軍事的な拠点と資源供給地にすることを優先した。
 万里の長城を超えて中国と全面的な軍事衝突が起きることは回避しなければならなかった。

⇒コラム#10042で記した私見に照らせば、井上は、満州事変を現地軍(関東軍)が起こしたとしているけれど実は陸軍中央と関東軍が連携して起こし、その中心には杉山元(当時陸軍次官)がいたわけですし、関東軍は国民党政府との衝突を回避したかったとしているけれど、少なくとも杉山の意図は必ずしもそうではなかったわけです。(太田)

 他方で中国は、日本の国際連盟脱退通告後、国際連盟による対日経済制裁などの支援を受けることができなかった。
 欧米諸国も傍観した。
 やむなく日本との妥協に応じた。・・・
 <それが、1933>年5月31日の塘沽(タンクー)停戦協定<(注61)(コラム#4008、4616、4683、4950、5044、6260、6441、8366、8392、8394)>だった。・・・
 
 (注61)「塘沽において日本側代表、陸軍少将岡村寧次関東軍参謀副長<が><支那>側代表、陸軍中将熊斌と・・・停戦協定<に>調印した。・・・
 なお、当時、「<支那>軍はその中核を軍事委員会委員長蒋介石直系軍、いわゆる中央軍とし、それ以外に旧東北軍(張学良麾下)、旧西北軍(馮玉祥麾下)、山西軍(閻錫山麾下)、広西軍(李宗仁、白崇禧麾下)、広東軍(陳済棠麾下)、四川軍、湖南軍、山東軍、その他の雑軍から成るものであった。南京国民政府に直接支配された地域を除き、地方に駐留する各軍は名目上は<支那>軍としての立場を持っていたが実際は半独立の状態であった。1930年には蒋介石と軍閥の間で中原大戦が起きていた。・・・雑軍だけが<満州国との>前線にあり、・・・雑軍は日本軍・満州軍にできるだけ打撃を被るように仕向けられ、中央軍は敗退した雑軍を後方で待ちうけ、その武力解散、武装解除を行った。・・・<その間、>蒋介石は東北軍と雑軍の結束を崩すためにあらゆる反間・苦肉の策略を講じていた。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A1%98%E6%B2%BD%E5%8D%94%E5%AE%9A

 <このように、>満州国の存在によって、日中関係の全面的な関係修復は困難になったものの、戦争が不可避になったのではなかった。
 日中関係には平和絵もなく戦争でもない、冷戦状況が訪れた。」(158、160~162)

⇒それを、熱戦に転化させるべく、参謀次長・・当時は実質的な参謀総長・・当時の杉山が紛争の種を仕込み、1937年に陸軍大臣になっていた杉山が、今度は、盧溝橋事件の日支戦争化を図って、その全てに「成功」する(コラム#10042)わけです。(太田)

(続く)