太田述正コラム#10059(2018.9.9)
<井上寿一『戦争調査会–幻の政府文書を読み解く』を読む(その45)>(2018.12.25公開)

 「東京商科大学教授猪谷(いたに)善一<(注66)>「世界貿易の新情勢と貿易学説の再吟味」(<『外交時報』>728号、1935年4月1日)<の中で、>・・・「かかるブロック間に於ける貿易は、ブロック以外の諸国に対する貿易に比し、貿易萎縮度が少ないか或いは増加さえ示している。」<と記している。>

 (注66)1899~1980年。「富山県出身。1923年東京商科大学卒、同年助手、パリ留学をへて27年助教授、37年教授。1938年「最近日本貿易の伸展に関する実証的研究」で経済学博士。1939年退職、大阪商工会議所理事。亜細亜大学教授。1971年定年、駒澤大学教授。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8C%AA%E8%B0%B7%E5%96%84%E4%B8%80

 英帝国特恵関税ブロックに関して具体的な数字を引用する。
 1931年の輸入、対英帝国28.8パーセント、対ブロック外地域71.2パーセントがオタワ会議をはさんで、1933年はそれぞれ36.9パーセント、63.1パーセントになっている。
 輸出はそれぞれ41.1パーセント、58.9パーセント、41.8パーセント、58.2パーセントである。

⇒この数字は、猪谷が上出論稿中で引用した数字ではなく、井上が自分で調べた数字だと思うのですが、結果的に、猪谷の指摘が否定されてしまっています。
 というのも、英国の場合、ブロック内依存度が、輸入で大幅に、輸出でも少しですが、輸出入とも高まっていることが分かるからです。(太田)

 オタワ協定の前後で輸出に大きな変動はない。・・・

⇒「輸入に大きな変動」があったので、井上は、あえて、輸出の話だけをしている、ということでしょう。(太田)

 ブロック経済体制下であっても、ブロック内よりもブロック外との通商貿易関係の結びつきが強い。

⇒ここも、論理のすり替えです。(太田)

 このようなブロック経済理解は1930年代をとおして、同時代の知識人に共有されていたと考えられる。・・・
 たとえばのちの首相近衛文麿の助言者集団=昭和研究会は、1939年の報告書のなかで、・・・日本はブロック経済に依存することなく、通商貿易の自由を求めなければならなかった。

⇒自由貿易を追求し、英国等のブロック経済を打破しなければならない、というのですから、昭和研究会に集った人々が「同時代の知識人」達の典型なのだとすれば、彼らは、ブロック経済を非と見ていた、ということになります。
 井上の頭の中は、一体どうなっているんでしょうか。(太田)

 以上の議論よりも踏み込んだ大胆な発言をしたのが高橋蔵相だった。
 経済回復が軌道に乗りはじめたこの年の1月8日の閣議において高橋は、・・・満州事件費の削減と対満投資の抑制を求めた。・・・
 短期間で恐慌から脱却するには、赤字公債を発行してでも、財政投融資による景気刺激策が必要だった。
 しかしこれ以上の出超は許されない水準に達した。
 高橋は財政健全化に舵を切った。

⇒ずっと以前にも指摘した(コラム#省略)ありますが、これは、高橋が犯したところの、内外情勢を読み誤った致命的政策転換なのであり、そのために、彼は、二・二六事件で命を失うことになります。(太田)

 高橋の提言に噛みついたのが当時すでに大蔵省を退官していた青木得三<(注67)>だった。・・・

 (注67)とくぞう(1885~1968年)。秋田県生まれ、一高、東大法。「大蔵省(現財務省)に入省し、1918年(大正7年)、第一次世界大戦に際しドイツなど4か国に対する講和条約の、財政経済や賠償条項の起草専門委員としてロンドン・パリに駐在した。帰国後は若槻禮次郎、浜口雄幸の両大蔵大臣の秘書官をつとめ、1929年(昭和4年)には大蔵省主税局長を務めた。
 1931年(昭和6年)に大蔵省を退官後、報知新聞社の論説委員を務め<た>・・・。傍ら、中央大学法学部の依頼を受けて、財政学の講義を行っていた。この縁により、第二次世界大戦後の1948年(昭和23年)9月に中央大学商学部長、1949年(昭和24年)4月に同経済学部長となった。晩年は、千葉商科大学教授を務めた。
 少年時代、1895年(明治28年)の三国干渉、1898年(明治31年)3月の旅順租借などに際してロシア帝国の横暴に憤慨し、征露論者となった。一高時代の1904年(明治37年)2月に日露戦争が勃発するや、『征露歌』(ウラルの彼方)を発表。以後数曲の寮歌を作詞している」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%92%E6%9C%A8%E5%BE%97%E4%B8%89

 青木は反論する。
 「多少の不利益を忍んでも満州国に対して投資を為し、以て其の資源を開発し、其の企業を発展せしめることが日本民族の使命ではないか」。
 青木にとって満州国に対する投資は英米に対する投資とは異なっていた。
 青木の立場はさきの<猪谷の>論稿の立場に近かった。

⇒近いとは、私には思えませんが・・。
 率直に申し上げて、このあたりの、井上の千鳥足的論理は、博士論文等で査読を潜り抜けてきた学者のものとは思えません。
 眞壁仁の問題点は、論理はしっかりしているのだけれど、(史料の選択や解釈の際の)判断に偏向がある・・恐らくは査読者達にも同様の偏向があって是正され得なかった・・、というレベルであることから、井上に比べるとまだ上等である、と思います。(太田)

 青木の論稿の示唆するところから、日本と満州国の関係が支配–従属関係を脱却すれば、その後の日中戦争が起きることはなかったことになる。」(106~109)

⇒これは、井上の理解なのでしょうが、満州情勢がどう転ぼうと、日支戦争が起きるのを回避することは不可能であったことを、我々は知っています。(太田)

(続く)